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IAEA事務局長に日本人選出の意味

2009年7月3日   田中 宇

 7月2日、核の平和利用を監督する国連機関である国際原子力機関(IAEA)の事務局長に、日本外務省の外交官である天野之弥氏が選出された。9月の年次総会での承認を経て、12月に現職のエルバラダイ事務局長(エジプトの外交官)と交代、就任する予定になっている。

 昨秋から続いてきたIAEA事務局長選挙では、米欧日の先進国が推す天野と、途上国から支持された南アフリカの外交官アブドル・ミンティらが接戦を繰り広げた。今年3月の理事会で投票が行われたが、選出に必要な3分の2の得票を誰も得られず、選出期限の6月末をすぎ、6回目の投票で、ようやく天野の当選が決まった。 (Japanese Envoy Sees Strong Support for IAEA Candidacy

 米国のロサンゼルス・タイムスは今年3月のIAEA理事会の前に、エルバラダイはカリスマ性があるが、天野にはそれが欠けているとか、米国は天野を支持しているが、それは日米の同盟関係があるので仕方なくやっているとか、天野は出身国から独立した国際機関の長として動かず、日本外務省の言うとおりに動くのではないかといった、批判中傷的な記事を出した(天野は地味な技術官僚肌で、カリスマ欠如の指摘は妥当かもしれない)。この記事が出たのは、英米中心主義に固執する日本ではなく、欧米の中でも途上国寄りの多極主義的な立場をとっているスペインの外交官など、第3の候補にした方が良いという意見が出ていたころである。 (IAEA Succession Battle Shapes Nuclear Agency's Future

 今回のIAEA理事長選が紛糾した最大の原因は「イラン核問題」である。これまで3期12年間エルバラダイが率いていたIAEAは「イランは、核兵器開発に必要な高濃度ウラン濃縮をやっておらず、イランが核兵器を開発していると考えられる兆候はない」とする調査報告書を何度も出し「イランは高濃度ウラン濃縮をやって核兵器を開発している」と主張する米英イスラエルの圧力に屈しなかった。国際社会は、しだいに「イランの核問題は米英イスラエルによるでっち上げだ」と気づくようになった。 (イラン問題で自滅するアメリカ

 ところが、次期のIAEA事務局長に英米のスパイのような人物が就任してしまうと、事実を指摘して濡れ衣を暴露していくIAEAのあり方が壊され、IAEAが率先してでっち上げをやりかねない。日本の外務省は、省を挙げて「MI6(英国の諜報機関)の下っ端」的な存在で、イランの核問題のでっち上げだけでなく、その前のイラクの大量破壊兵器のでっち上げも全面支持し、現在まで何の修正もしていない。イスラム世界やアフリカ、中南米などの諸国が、日本の天野ではなく、南アのミンティを支持したのは当然だった。

(日本のマスコミは、天野選出の解説記事として北朝鮮核問題との関係のみを強調しており、視野が狭い。外務省の「説明」を鵜呑みにして書かれたものだろう。今の日本のマスコミには、世界的視野で分析できる記者が少ない。政府の説明をそのまま報じない報道機関は意地悪されるので、馬鹿のふりをしないとやっていけない。知的水準を高めない方がうまくいく。この状態は、かつてのソ連や中国と同じだ。ソ連や中国を嫌う日本人が、ソ連や中国と同質というのも皮肉だ)

▼天野当選の裏にオバマの対イラン宥和策

 このような経緯があるので、天野がIAEA事務局長に選出されたと報じられた時、私がまず思ったのは「これでイラン核問題がぶり返されるかもしれない」ということだった。しかし、その後の展開は意外なものだった。

 天野は、記者団に対する最初のコメントで「イランが核兵器開発をしていると考えられる明確な証拠は何もない」と発言し、エルバラダイが作った従来の姿勢を踏襲する構えを見せた。どうやら、これまで天野の選出に反対していた発展途上諸国は、天野がイラン核問題についてエルバラダイの姿勢を踏襲する約束と引き替えに、天野を支持することにしたようだ。(7月2日の投票では、天野は僅差で当選したが、翌3日の理事会では、天野は全会一致で任命された) (New IAEA chief: No sign Iran seeks nuclear arms

 だが「イランが核兵器開発をしていると考えられる明確な証拠は何もない」という態度は、日本政府のこれまでの態度と正反対である。対米従属の日本は、米国がイランに「核開発」の濡れ衣を着せている限り、同じ濡れ衣を主張し続ける態度をとってきた。日本政府が国際社会でさかんに選挙活動をやってようやく当選させた天野が開口一番「イランは核開発していない」と言ったことは、日米の同盟関係に亀裂を入れかねない。米国は、日本にどんな意地悪をするかわかったものではない。

 一体どうなるのかと思っていると、米国からも驚きの報道が飛んできた。イタリアでまもなく開催されるG8サミットでは、イランに対する経済制裁の強化を合意事項に盛り込むことが検討されているが、オバマ政権の米国は「イランに対して強硬姿勢をとるのは逆効果なので、制裁は強化しない方が良い」と言って、すでに決まりかけているイラン制裁強化の決定を阻止しているという。 (Report: U.S. to block Iran sanctions at G8 summit

 イスラム世界との対話姿勢を掲げて当選したオバマ大統領は、今春以降、イランに対する宥和姿勢をしだいに強めており、6月12日のイラン大統領選挙後に起きた反政府運動に対しても明確な支持を表明しなかった。米国がイラン制裁に反対するようになったことは、オバマが対イラン宥和策をさらに強化したことを示している。米国は、まだ建前としては「イランは核兵器開発している疑いがある」という立場だが、米国がイラン追加制裁に反対するということは、もはやこの立場も建前だけだ。天野がとった「イランが核兵器開発していると思われる根拠はない」という立場とは、わずかな違いしかない。

 日本外務省は、国連改革の中で、何とかして安保理の常任理事国になりたいと思っている。常任理事国になれば「敗戦国」を卒業でき、国内外での外務省の立場は強くなる。外務省としては、天野をIAEA事務局長にすれば、日本人が国際社会で指導力を発揮できることを世界に見せられて、常任理事国への道を一歩前進できる。天野の事務局長職を成功させるには、イラン核問題での途上諸国との協調が不可欠である。このような思惑に基づき、日本は「100%対米従属」の国是を少しだけ外し、天野の発言が出てきたのだろう。

▼多極主義の方向に誘導される日本

 日本人のIAEA事務局長への就任が何年か前だったとしたら、米国の尻馬に乗って「イランは核兵器を開発している」と激しく非難していれば、日本国としての対米従属と、IAEA事務局長を通じた国際指導力の発揮とは、何の矛盾もなく両立した。しかし世界が多極化している今後は、そうはいかない。日本が天野をIAEA事務局長に送り出し、国際指導力を発揮するには、多極化を肯定的にとらえることが必須となる。これは「英米中心主義にぶらさがるか、さもなくば鎖国」という従来の日本の国是を逸脱させる。

 米国が自滅して英米中心主義が終わるなら、いさぎよく鎖国して老衰的な退行を甘受する手もあるが、外務省には、自分たちの立場を悪化させたくない気持ちと、世界で指導力を持ちたいという中途半端な野心(助平根性)があるらしく、英米中心主義が終わりつつあるにもかかわらず、安保理常任理事国の座を狙い続けている。その結果、鎖国とは別の「多極化した国際社会(新世界秩序)の中で、日本がある程度の活躍をする」という、第三の道がひらける可能性が出てきている。

 私が接している範囲では、日本外務省の人々の頭の中には、そうした第三の道の発想は全く存在しない(だからMI6の下っ端としか感じられない)。むしろ第三の道は、米国の多極主義者(ブッシュ、オバマ政権)から誘発され、日本外務省が意図しないうちに採らされる道である(天野はオバマの支持を受けていると報じられている)。

 IAEA事務局長となる天野は、かなり大変なことを米国からやらされるだろう。その最大のものは「イスラエルに対する核査察」である。オバマ政権は今年5月、イスラエルに対し、NPT(核拡散防止条約)を批准してIAEAに加盟するよう、初めて求めた。イスラエルは原子炉を持ち、核兵器開発もしており、400発といわれる核弾頭を保有しているものの、NPTにもIAEAにも参加していない。イスラエルは米政界を牛耳って、この不正状態に対して何の非難も受けない状況を維持してきた。しかし今、イスラエルの優勢は急速に崩れ、世界から非難される国になっている。 (U.S. urges Israel to sign anti-nuclear arms treaty) (反イスラエルの本性をあらわすアメリカ

 ここ2-3年の趨勢が今後も続くなら、米英が崩壊してBRICや途上諸国の主導となっていく国際社会からイスラエルへの核査察要求は強まるばかりだろう。隠れ多極主義の米政府も、その傾向を煽るだろう。日本の天野ではなく、南アやスペインの外交官、もしくはエルバラダイが続投していたら、南アやスペインやエルバラダイは、イスラエルに対する非難をしたことがあり、多極主義的な傾向もあるので、話はややこしくなかった。しかし日本は従来、イスラエルに脅されたらいっぺんで萎縮してしまうような「初心者」の国である。(だからイスラエル政府筋は、天野がIAEA事務局長になって良かったと言っている) (New IAEA Head Is Israel's Preferred Candidate

 しかし天野がイスラエルに脅されて何もできないとなると、途上国から露骨に失望されるし、イスラエル批判を強めるオバマ政権からも叱咤される。IAEA事務局長になる以上、腹をくくってイスラエルと対決するしかない。日本とイスラエルの関係は悪化するかもしれない。日本外務省は否応なく、多極的な新世界秩序の中での新たなバランスをとることを迫られる。

 イスラエルが窮地に陥るのを喜んでいるイランは「天野はイスラエルの核施設を査察する勇気を持つべきだ。(被爆国の)日本は、世界のすべての核兵器を廃絶すべきだと宣言せよ」と声援(茶化し?)を放っている。 (Iran: IAEA chief should dare to visit Israel

 天野が手がけねばならないもう一つの重要事項は、北朝鮮の核兵器開発である。これについても、米国は建前では「絶対許さない」と言っているが、現実的には関与姿勢を弱め、中国に任せる傾向を強めている。天野のIAEAが頑張って北朝鮮に核廃絶をさせる努力をすることは、日本にとっても脅威を取り除ける良い話になるが、それには中国との協力が必須となる。

 逆に言うと、日本が国際社会で中国との協調体制を構築できるなら、中国は喜んで日本を国連安保理の常任理事国として推薦するようになる。日本の常任理事国入りは、今までの対米従属的、英米中心主義的な条件下での実現とは正反対の、多極主義的な意味を持つようになっていく。

 折しも北朝鮮は、今年もまた、米国の独立記念日の「祝砲」的なミサイル試射を挙行している。北朝鮮のこの手の過激な行動は、日本にとって「黒船」的な覚醒になると、今年3月の記事に書いたが、天野のIAEA事務局長への就任も、それと同じ流れで、日本を対米従属への安住から引っぱり出す契機の一つになっていくと予測される。 (黒船ならぬ黒テポドン



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