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仕組まれた9・11 【4】アフガニスタンとアメリカ

  田中 宇

 その記事を見つけたとき、記事の冒頭についている日付を、私は何度も確認した。それは8月15日になっていたが、9月15日の間違いではないかと思ったのだ。
 私は毎日、世界各地のメディアのサイトを見て、英語や中国語の記事の中で面白そうなものを自分のパソコンの中に入れておき、それをあとからキーワードなどで検索し、記事を書くときの参考資料にしている。記事を保存するとき、私がその記事を見つけた日付が分かるようにしてあるのだが、それは確かに「0815」となっていた。

 それは、アジアに強い通信社「インター・プレス・サービス」(IPS)が流した記事だった。「タリバンはアメリカの新しい共産主義者になる」(The Taliban are America's new communists)というタイトルでパキスタンの首都であるイスラマバード発になっていた。
 記事の冒頭には「20世紀最後の国際戦争はアフガニスタンで起きた(1978年のソ連軍のアフガン侵攻で起きた戦争のこと)。そして、21世紀最初の国際戦争もアフガニスタンを中心として起きるだろう。戦争の一方の当事者は今回もアメリカを中心とする国際連合軍になるが、今回は前回よりも幅広い同盟国の連合が必要になる。敵となるのは、オサマ・ビンラディンなど危険な人々を客人扱いするタリバンで、テロリズムがこの戦争のキーワードとなる」といった内容のことが書かれていた。
http://www.atimes.com/c-asia/CH15Ag01.html

 これが911テロ事件後の9月15日に書かれていたのなら、誰にでも書ける凡庸な記事としか思われない。だが、日付は確かに8月15日になっていた。私は8月15日にこの記事を見つけて保存したのだが、そのときは何のことを言っているのかよく分からなかった。
 アメリカ政府は以前からタリバンを敵視しており、その延長で何か本格的な攻撃を始めるのだろうか、とは思ったが、アフガニスタンで何が起きようと、世界のほとんどの人々は全く関心を持たなかったから、自分の執筆の参考ににはならないと考えて斜め読みしただけだった。
 私は2000年5月にアフガニスタンを取材し、本を出そうと考えて原稿を書いたが、どこも出版してくれなかった。ある編集者は「いただいた原稿は面白いけど、このテーマを売るのは難しいです」と言いつつも、私に同情して寿司屋に連れていってくれた。それほどに、アフガニスタンについての人々の関心は薄かった。
 だが、すべての状況は911とともに激変した。私のアフガン原稿は、寿司屋に連れていってくれた編集者によって、光文社新書の「タリバン」として書籍化され、ベストセラーとなった。そして、アメリカがアフガニスタンを攻撃する段になって、9月11日に「テロ戦争」が始まる1ヶ月近く前に書かれた「予言」のようなIPS通信の記事を、私は驚きをもって再発見することになった。
http://www.atimes.com/c-asia/CH15Ag01.html

 この記事によるとアメリカは、自国と同様にイスラム原理主義組織のテロを恐れるロシア、中国、中央アジア諸国、トルコ、イラン、インドなどと同盟を組む予定だが、タリバンと親しくしているパキスタンは、同盟に入れてもらえない可能性があるという。どうやら、この記事はアメリカを中心とする反タリバン同盟軍の結成を察知して懸念を募らせたパキスタン軍関係者からの情報提供によって書かれたものらしかった。
 この記事を見つけたときは、書かれていることに半信半疑だったが、インターネット上の記事をさらにいろいろ調べていくと、911の数カ月前から、アメリカがアフガニスタンで「テロ戦争」を計画していたことが分かってきた。
 この流れの始まりは、アメリカでブッシュ政権が就任して間もない2001年2月、カブール北方の町バーミヤンをめぐる攻防戦だった。2月13日、タリバンに敵である北部同盟軍がバーミヤンを攻撃・陥落させたが、このとき北部同盟はアメリカ、ロシア、イラン、インドの支援を受けていた。
http://www.janes.com/security/international_security/news/jir/jir010315_1_n.shtml

 その後、タリバン側がこの町を奪還したが、この攻防戦の余波で、この町の郊外にあった世界遺産の「バーミヤンの大仏」はタリバン側によって破壊された。
 アフガニスタンでは、1989年前後にソ連軍が撤退した後、それまで対ソ戦を戦っていたアフガン人のムジャヘディン各派が分裂して内戦となった。これを終わらせたのが、隣国パキスタンに住むアフガン難民の青年たちを中心に結成されたイスラム軍事組織「タリバン」で、タリバンは95年にアフガニスタンに攻め込み、翌年には首都カブールを制圧し、国土の95%を統治し始めた。
 ムジャヘディン諸派は合同して「北部同盟」を結成し、残る国土の5%を領有しつつタリバンに対抗したが、戦線は膠着状態が続いていた。タリバンが国賓扱いしている亡命者オサマ・ビンラディンが反米テロの首謀者とみなされ、アメリカがタリバンを敵視するようになった1998年以来、北部同盟はアメリカやロシア、西欧諸国などからの軍事支援を増やそうとロビー活動を展開した。
 タリバンはパキスタンの傀儡という傾向が強かったため、パキスタンの中央アジアへの影響力拡大を嫌ったイランとロシアは北部同盟を支援したものの、タリバン登場まで仲間割れの内戦を続けていただけに信頼度が低く、供給される武器の能力も劣っていた。

 ところが2001年に入り、アメリカが北部同盟を支援し始め、ロシアとイランを束ねる役割を果たすようになった。この新体制への移行期に起きたのがバーミヤンの攻防戦だったが、町がタリバンに奪還された後、フランスがバーミヤンの大仏に「文化調査団」を派遣しようと試みてタリバンの疑惑を招き、交渉の中でフランス側がタリバン側を挑発し、問題がこじれる中で大仏が破壊された。大仏の破壊は、アメリカとフランスによって「誘発」されたと見ることができる。
 この後、2001年6月にインドで書かれた記事によると、アメリカ政府は、アフガニスタンに対する経済制裁を強化してもタリバンがオサマ・ビンラディンを引き渡さない場合、軍事攻撃を行う計画で、その際にはインドとイランに後方支援をしてもらう考えだったという。
http://www.indiareacts.com/archivefeatures/nat2.asp?recno=10∓ctg=policy

 2001年7月には、ベルリンのホテルにアメリカ、ロシア、イラン、インド、パキスタン、そして北部同盟の代表が集まり、アフガニスタンの今後を話し合う非公式の国際会議が持たれた。この会議では、タリバンと北部同盟が連立政権を組む可能性が話し合われる一方、アメリカの代表は「タリバンがオサマ引き渡しに応じず、パキスタンもタリバンをかばい続けるなら、我々としてはことを起こさざるを得ない」と表明した。
http://www.guardian.co.uk/wtccrash/story/0,1300,556279,00.html

 また、これと前後して、アメリカはパキスタンに対し、降雪のため戦争ができなくなる前の10月中旬までにアフガニスタンを攻撃するかもしれない、と伝えている。
http://news.bbc.co.uk/hi/english/world/south_asia/newsid_1550000/1550366.stm

 その一方、911後にフランスで出版された本「ビンラディン:禁じられた真実」によると、アメリカ政府は2001年初め、石油業界出身のブッシュの政権になってから、中央アジアからインド洋に石油や天然ガスを運び出すためのパイプラインをアフガニスタンに引くことを、この問題の最重要課題であると決め、タリバンがパイプライン敷設に協力するなら、ビンラディンを引き渡さなくても許してやる、と持ちかけた。
 だが、タリバンは何度もビンラディンを暗殺しようとしてきたアメリカを信用しなかったようで、この申し出を断った。そのため、ブッシュ政権は軍事攻撃を決定したのだという。これは、ブッシュ政権になってFBIのテロ捜査が差し止められたことと連動していたと考えられている。
 このように、911以前のアメリカの対アフガン政策についてはいくつかの説が報じられているものの、いずれの説を採ったとしても、アメリカは911のテロ攻撃への「対策」や「報復」としてアフガニスタンを攻撃したのではなく、以前から大規模な攻撃をやるつもりだったところに、ちょうどよく911が起きたと考えるのが妥当だ、ということになる。

 アフガニスタンを通るパイプライン計画は、そもそもパキスタン軍がアフガン難民の青年たちにタリバンを結成させ、武器を渡してアフガニスタンに攻め込ませることの動機になったと考えられる。
 タリバンがアフガニスタンの国土の大半を統治した段階で、アメリカのパイプライン会社「ユノカル」がカブールに事務所を設け、タリバン側とパイプライン敷設について協議を始めている。タリバン政権を作ったパキスタンの背後にアメリカの存在があった。
 アフガニスタンと国境を接する中央アジアのトルクメニスタンには、世界最大級の天然ガス田があり、その開発をユノカルを中心とする欧米の石油・ガス会社が手がけていた。トルクメニスタン周辺の中央アジア諸国には、世界の天然ガス埋蔵量の40%が眠っている。
http://www.wsws.org/articles/2002/jan2002/oil-j03.shtml

 このパイプライン計画は、1998年に中止された。ケニヤとタンザニアのアメリカ大使館が爆破され、犯行組織の黒幕がアフガニスタンにいるオサマ・ビンラディンであると米当局が断定し、タリバンを敵視し始めたからだった。ユノカルのカブール事務所も閉鎖された。

 それから3年半が過ぎた2002年初め、米軍がタリバンを消滅させ、カブールに親米派の新政権が作られた直後、ユノカルは再びアフガニスタンに戻ってきた。しかもユノカルは、意外なところにまで進出していた。
 ブッシュ大統領が、アフガン問題をめぐる自らの代理役である「アフガン特使」として、ザルマイ・カリルザドというアフガン系アメリカ人を指名したが、この人は1998年までユノカルで働き、カブール事務所でタリバン側と交渉していた。
 当時、すでにタリバンはアメリカの人権団体から女性差別などを非難されていたが、カリルザドはタリバンを擁護する論文をワシントンポストに寄稿するなど「活躍」していた。ブッシュ大統領は「パイプラインを作れるなら、親タリバンにも反タリバンにもなりますよ」という人物を自分の「代理人」に据えたのだった。
 ブッシュ大統領はカリルザドのこうした経歴を知らなかったはずはない。カリルザドは、レーガン政権で国務省に勤めた後、ブッシュの父親の政権では国防総省に勤め、その後ユノカルに天下りしたからである。ブッシュ・ジュニアが大統領に就任した当初から、カリルザドは対アフガン政策の重要ポストに就くとみられていた。
http://www.afghanradio.com/news/2001/january/jan22m2001.html

 父親の方のブッシュ政権で政府幹部として働いた後、クリントン政権の8年間は石油会社の幹部に天下りして過ごし、息子のブッシュ政権ができたら再び政府に戻ってきた人は、カリルザドだけではなく、チェイニー副大統領を筆頭にたくさんいる。
 その中でカリルザドに劣らない「なるほど」をわれわれに提供してくれているのは、ブッシュ・ジュニアの政権で外交政策の責任者である国家安全保障担当補佐官になったコンドリーサ・ライスである。彼女はそれまで大手石油会社シェブロンの取締役をしていた。
http://www-hoover.stanford.edu/bios/rice.html

 シェブロンは中央アジアのカザフスタンにある世界有数の巨大な埋蔵量を持つテンギス油田の権利を、ソ連崩壊直後の1991年にいち早く手中に収めたことで知られている。91年といえばブッシュ(父)政権の時代で、ライスは専門家として国家安全保障会議のメンバーとして、ソ連崩壊前後の対ロシア・中央アジア外交を担当していた。彼女はブッシュ政権が終わるとすぐにシェブロンに迎え入れられ、同社には彼女の名前をつけたタンカーまである。
http://www.public-i.org/story_01_022801.htm

 911後のアフガニスタン攻撃は、中央アジアへの米軍の進出を伴ったが、こうした戦争の「副産物」は中央アジアの石油・ガス利権を米軍が守ってくれることにつながるので、シェブロンなど石油業界にとって好都合なはずだ。カリルザドやライスの経歴を見ると、中央アジアに米軍が進出して石油利権を確保することは、今回の戦争の「副産物」ではなく「主目的」だったのではないかとも思えてくる。


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