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文明の衝突と東チモール

2006年6月17日   田中 宇

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 私が以前から抱いている疑念の一つに「東チモールの独立は、アメリカが、イスラム世界との『文明の衝突』(テロ戦争)を国家戦略にしていく過程で、インドネシアを敵国に仕立てる作戦の一つとして利用したのではないか」ということがある。

 16世紀からポルトガルの殖民地だった東チモールでは、1974年にポルトガルにクーデターで左翼政権ができ、ポルトガル殖民地諸国に独立を奨励したことを受けて「東チモール独立解放戦線」(フレテリン FRETILIN)などの組織が作られて独立運動が始まったが、同時にインドネシアの介入を受け始め、1975年にインドネシアに軍事併合された。

 東チモール内部ではゲリラ勢力、海外では亡命勢力となったフレテリンは、隣国オーストラリアや、旧宗主国ポルトガルなどを拠点に、インドネシアからの独立を目指す国際運動を開始し、オーストラリアや西欧の、市民運動やカトリック教会(東チモールの住民の9割はカトリック教徒)などがこれを支援した。チモール人の独立運動の中心は、中心都市ディリ郊外のポルトガル系のカトリック神学校で学び、キューバ革命などに感化されて左翼系になった青年たちだった。

 西欧や豪州、日本などでは、東チモール独立支援の市民運動が起きたものの、アメリカでは大きな動きにはならず、米議会もインドネシアの東チモールでの人権侵害をほとんど問題にしなかった。インドネシアは、左翼親中派のスカルノ政権を1960年代に倒した反共産主義のスハルト政権が続いていた。冷戦の敵味方関係を重視する米政界にとって、インドネシアは大事な同盟国だった。左翼系が強い東チモールの独立運動を、反共のアメリカが支持することはなかった。

▼ノーベル平和賞の意図

 状況が変わったのは冷戦終結後、1996年に、独立運動にたずさわってきた東チモールのベロ司教と、フレテリンの外交担当幹部だったジョゼ・ラモスホルタ(現外相)がノーベル平和賞を受賞する少し前ぐらいからである。米議会は、東チモールに対するインドネシアの人権侵害を問題にするようになった。

 ノーベル平和賞は、米英の政治的な意図に基づいて受賞者を決めており、米英が「敵」としたい勢力に楯突いている人が「平和に貢献した」として受賞するケースがかなりある。ベロとラモスホルタの受賞は、ちょうどハーバード大学のハンチントン教授が、欧米(キリスト教世界とイスラエル)と、イスラム世界との対立激化の予測を描いた「文明の衝突」を書籍として刊行した年でもあった。

 1998年にアジア通貨危機が起こり、インドネシアはIMFの支援を受けねばならなくなった。IMFはスハルトに公共料金の大幅値上げなど、国民が怒りそうな政策を強要した。当然のごとく、インドネシア国民は反スハルトのデモ行進を繰り返し、99年5月にスハルト政権が倒れ、インドネシアは混乱の時期に入った。

 インドネシアの弱体化をしり目に、東チモールでは独立に向けた動きが進んだ。アメリカとオーストラリアをはじめとする「国際社会」はこれを強く支持し、スハルト辞任から3カ月後に独立を問う住民投票が行われ、独立支持が8割で勝った。この直後、東チモール内部のインドネシア系勢力が暴動や虐殺を行ったため、国連が多国籍軍を派遣し、国連の監視下で独立の準備が行われ、東チモールは2002年に独立国となった。

▼逆転した善悪

 1998年のIMFのインドネシアに対する政策は、のちに「失敗」のレッテルを貼られたが、失敗することは、政策をやる前から分かっていたはずである。IMFがインドネシアに対して行ったことは、スハルト政権の転覆を意図していたかのようだ。IMFは事実上、アメリカの傘下にある国際機関であるから、アメリカがインドネシアを混乱に陥れる意図があったのではないかという疑惑になる。

 アメリカ(米英)がイスラム世界を「敵」に仕立てる「テロ戦争」は2001年の911事件以後、世界を席巻するテーマとなったが、アメリカでは1993年にハンチントンがフォーリンアフェアーズ誌で論文「文明の衝突?」(書籍はこれをふくらませたもの)を書いたころから「イラム世界の独裁者や人権侵害勢力、テロリストなどとの数十年間の戦いによって、冷戦終結で失われた世界支配の構造を復活させる」という考え方が見え隠れするようになった。(関連記事

 冷戦時代には、インドネシアのスハルト政権は「反共」でアメリカの味方であり、左翼的傾向が強い東チモールのゲリラ組織は味方ではなかった。しかし、冷戦終結後の次の50年戦争となるべき「文明の衝突」では善悪が逆転し、インドネシアはイスラム教徒の国なので「敵方」であり、東チモールは住民の90%以上がキリスト教徒なので「欧米側」である。

 新手の地政学戦略でもある「文明の衝突」の構図では、東南アジアでは、インドネシアとマレーシア、フィリピンとタイの南部が「イスラム圏」であり、インドネシアの南のオーストラリア、北のシンガポール、そしてフィリピン北部のマニラ政府などが、それを包囲する「欧米側」である。東チモールは、オーストラリアに守られつつインドネシアから独立を勝ち取ることで「イスラム包囲網」の一部となった。

▼敵を仕立てる

 本来、イスラム世界では、欧米に対する敵対心はそれほど強くない。欧米が隠し持っている傲慢な帝国主義的思考は嫌いだが、欧米と戦っても勝てないので、敵対を避けつつ、欧米のように強くなっていきたいと考えるのが、イスラム世界での主流の考え方である。

 米英としては、このままでは「文明の衝突」にならないので、イスラム世界の反欧米、反イスラエルの感情を扇動し、イスラム世界に「敵」らしく振る舞わせる必要があった。グアンタナモの監獄が、イスラム教徒の怒りを扇動する戦略の象徴だが、同様に、1998年のアジア通貨危機で、インドネシアを混乱に陥れたのも、同様の戦略の初期の行いだったのではないかと感じられる。

 イスラム勢力を抑圧し、貧困に陥れることで、過激化させ、アメリカの敵に仕立てていく戦略は、パレスチナで穏健派のPLOがアメリカから冷遇され、その結果、過激派のハマスが政権を執ってしまった過程に象徴されている。(「ハマスを勝たせたアメリカの故意の失策」参照)

 IMFは当時、韓国やタイ、アルゼンチンなどに対しても、金を貸す条件として国民を窮乏させるような政策を押しつけており、標的になったのはインドネシアだけではない。だが、その後、韓国は中国の影響圏に入る傾向を強めて「文明の衝突」の一部である「中国対アメリカ」の対立の中で、アメリカの敵方になりかけている。アルゼンチンに対するアメリカの「いじめ」は、ベネズエラ、ブラジル、ボリビアなどの中南米の各地で反米感情が高まって左翼勢力が台頭する動きにつながっており、いずれもアメリカが「敵を仕立てる」戦略の走りとなっている。

 日本は「文明の衝突」の構図の中で、中国側に分類されてしまう懸念がある。そうなると、第二次大戦の時のように、日本はまた英米から「残虐な敵」に仕立てられ、壊滅させられかねない。戦前生まれの日本の政官界の古老たちは、米英が敵を仕立てるときの巧妙さを、身にしみて知っている。だから、日本は必死に「欧米側」にとどまろうとして、中国側と仲良くしなくてすむように、首相が靖国神社参拝を繰り返し、領土問題が蒸し返され、マスコミは中国の欠点を強調する報道を繰り返してきた。

 そんな日本から見ると、東チモールが欧米に祝福されつつ、残虐なイスラム教徒のインドネシアから独立を勝ち取ったことは良いことだ、ということになる。

▼詩人と左翼

 1999年から独立の過程に入り、2002年に正式独立した東チモールは、国連の支援下で国家としての体裁を整えていき、今年中に国連の支援隊は撤収することになっていた。東チモールは、国連による国家創建支援策の成功例として賞賛されていた。だが、話はこれで「めでたし、めでたし」にはならなかった。

 新しい問題の始まりは、新生東チモール国家の指導体制にあった。大統領になったシャナナ・グスマオは「独立運動の父」と呼ばれた人で、山にこもってゲリラ生活をした指導者である。彼の名声は、日本統治時代の朝鮮における金日成と似ている。インドネシア占領下の東チモール人でグスマオの名前を知らない人はおらず、グスマオの写真を隠し持っている若者も多かった。

 グスマオはオーストラリアでの難民生活も経験し、奥さんは白人系オーストラリア人であるなど、国際感覚もあった。政治的バランス感覚もあり、東チモール人内部でフレテリンとその他のいくつかの勢力が分裂しているのを統合するため、1980年代にフレテリンを辞め、フリーの立場で各派統合の立役者となった。

 しかし彼は根が文学的な人で、本職は「詩人」であると言い続け、東チモールが独立したら農夫か写真家になりたいと語ったりしていた。独立後、世論の強い希望で大統領になったものの、権力を持つことを嫌い、大統領は名誉職になった。

 これに対し、首相となって実権を握ったマリ・アルカティリは、ポルトガルから独立したアフリカのモザンビークを拠点に、東チモール独立運動をしていた人である。彼は、1999年にスハルト政権が倒れて独立の実現性が一気に高まった時に帰国し、フレテリンの内部をまとめ、首相になった。彼は、政治家としての交渉手腕はあり、グスマオと違って野心に満ちているが、やり方や発言がソフトではなく、首相になった後も、人気が高いシャナナ大統領を揶揄する発言や「どうせ私は嫌われ者ですから」といったひねくれた発言を繰り返し、人々の支持を失っている。(関連記事

▼小さな島の半分の地域の中の東西対立

 アルカティリは左翼的な傾向も強く、昨年キューバを訪問し、東チモールの医療を改善するためにキューバ政府から数百人の医師団を派遣してもらう計画や、東チモール人医学生をキューバに留学させる計画を決めるなど、中南米の反米的な左翼運動との連携を強める動きをしている。彼はまた、学校における宗教の授業を必修から選択に格下げしてカトリック教会と対立したり、パレスチナの左翼的指導者だったアラファト議長の死を悼んで国民の休日にしたりといった、左翼的な政策を展開している。(関連記事

 アルカティリは、ポルトガル占領時代の19世紀に曾祖父がアラビア半島(ビンラディン家と同郷のイエメン東部のハドラマウト地方)から移住してきたイスラム教徒である。東チモールのイスラム教徒は、総人口の4%しかいない少数派である。アルカティリとカトリック教会との対立は「文明の衝突」に組み込まれ、アメリカの駐東チモール大使は昨年、公然とカトリック教会を支持し、アルカティリを非難した。(関連記事

 アルカティリは、人気のなさを挽回するため独裁的な党内運営を行い、党首選挙のやり方を無記名投票から挙手へと変更して反対票を封じ、自分の党首としての地位を守っている。反発を強める軍に対抗するため、警察を強化して自分の勢力下に置こうと、インドネシア統治時代に警察官をしていた人々を多く雇ったが、これもインドネシア時代に警官にひどい目にあった人々の反感を買った。(関連記事

 東チモールは、チモール島の東半分だが、その小さな島の中で、さらに東部と西部に地域が分かれ、独立前のゲリラ活動が主に東部で行われていた関係で、新生東チモール政府内では東部出身者が重用され、西部出身者がないがしろにされるという傾向もあり、今年3月、西部出身者を中心とする兵士たちが、待遇改善の要求を掲げてストライキをしたのに対し、アルカティリ政権は、ストに参加した約600人の兵士を解雇した(軍の総兵士数は1400人)。(関連記事

 この事件を機に、反アルカティリ派に合流する兵士や警官が相次ぎ、混乱に乗じて略奪や放火、殺人を行う者も出現し、東チモールは無政府状態に陥り、首都ディリでは人口の大半が山中に避難する事態となった。インドネシアが入ってきた1975年や、インドネシアが去るときの1999年に起きた混乱が繰り返され、5月末、オーストラリア軍を中心とする外国軍が「国際社会」の代表として進駐し、事態を制圧した。

▼石油利権をとりに入ったオーストラリア

 東チモールが混乱に陥ったのは、国民統合の象徴であるグスマオが腹をくくって権力者にならず、代わりに人気はないが権力志向のアルカティリが権力を握り、国内を分裂させてしまったからだが、原因はそれだけではない。アルカティリを権力の座から引きずりおろそうとしたのは、東チモール国内の勢力だけではなかった。

 アルカティリは不人気だったが、政治家としての交渉能力には長けていた。東チモールとオーストラリアの間のチモール海の海底には油田があり、東チモールの独立が決まって以来、両国は海上国境線と油田の共同開発について交渉を続けていた。油田の大半は、国境線となりそうな線の東チモール側にあったため、オーストラリア側は国境線の確定を後回しにして、油田の共同開発を先に実現しようとした。東チモールはオーストラリアの支援に頼っている部分が大きく、油田掘削の技術もオーストラリア側が持っているため、国境線を確定しないまま油田開発を進めると、石油の取り分はオーストラリアに有利になる。

 アルカティリは、オーストラリアの提案を受け入れず、場合によってはオーストラリアとではなく、中国の石油会社と組んで油田を開発するかもしれないと表明したりした。交渉で不利になっていたオーストラリアにとって幸いだったのは、軍内でアルカティリに反対する勢力が強くなって暴動に発展し、オーストラリア軍が東チモールに進駐する必要が生じたことだった。5月26日に東チモールに入ったオーストラリア軍は、すぐに反政府側の勢力と面談した。オーストラリアのマスコミは、アルカティリに対して「独裁者」「人権侵害」などの強い非難を浴びせ続けている。(関連記事

 オーストラリアは、暴動が発生した経緯を捜査し、責任者を断罪しようとする動きを国連内で主導した。アルカティリ首相も、捜査の対象になるという発表がなされた。(関連記事

 東チモール政府は6月13日、グスマオ大統領とアルカティリ首相が連名で、国連に対し、オーストラリア軍ではなく国連軍を派遣してほしいと要請した。国連軍といってもオーストラリア軍が中心になる可能性が大きいが、国連軍として駐留した場合、東チモール政府再建のための方針は国連安保理で協議されることになり、オーストラリアの勝手にはできなくなる。東チモール側は、オーストラリアが治安改善の名目で入ってきて、実は東チモールの石油利権を奪おうとしているのではないかと懸念していた。(関連記事

 国連のアナン事務総長は、国連軍を編成する方向で検討しようとした。だが、オーストラリア政府は、国連軍を編成することに強い反対を表明している。こうしたオーストラリアの姿勢を見ると、オーストラリアが「石油」目当てで東チモールに介入したという非難は、単にオーストラリアの野党勢力などが勝手に主張していることではなく、根拠があることとして見えてくる。(関連記事

▼アメリカは反乱軍を鼓舞した?

 東チモールでの「政権転覆」を画策してきた外国勢力は、もう一つある。アメリカである。アメリカ政府は、アルカティリがキューバとの連帯を強めるなど、中南米諸国の左翼政権とのつながりを強めたため、危機感を持った。

 昨年、アルカティリとカトリック教会の対立が起きると、アメリカの駐東チモール大使はカトリック教会を支持する発言を行い、大使自らカトリック教会の反政府デモに参加している。アメリカは、軍内部の反アルカティリ派を支援しているのではないかという疑惑も指摘されている。反アルカティリ派勢力の指導者アルフレッド・レイナルド(憲兵隊将校)の妻は、アメリカ大使館に勤務している。(関連記事

 今年4月、軍内の反アルカティリ派がストライキをして、それが暴動に発展する前日、いったんは反乱勢力と政府側との合意が締結され、対立は解消されたという発表を双方が行った。だが翌日、反乱勢力は態度を変え、議会の解散を要求した。この要求は、以前に議会の不人気な野党勢力が求めていたもので、議会の多数派であるフレテリンによって否決されていた。新要求が出てきたことで、政府と反乱勢力との和解は一晩で崩壊し、暴動に発展した。

 この経緯について解説記事を書いた元東チモール国防省勤務のロロ・ホルタ氏は、野党が混乱に乗じて反乱軍に接近し、事態を悪化させたのだろうと指摘している。だが、東チモールの野党は非常に弱いので、たとえ野党から接近されても、反乱軍は一晩で態度を硬化させたくはならないだろう。むしろ私は、アメリカもしくはオーストラリアが、政府と折り合いをつけそうになっている反乱軍に対し「野党と組んで政権転覆を実現したら、アメリカが支援する」などと入れ知恵し、反乱軍の態度を一晩で再転換させたのではないかと推測している。(関連記事

 この暴動が起きたしばらく後に、アルカティリ首相は暴動に関して「外国勢力がまた東チモールを分裂させて乗っ取ろうとしている。外国の顧問団が(野党)政治家や、山中の反政府ゲリラに接触し(政権転覆を画策し)ている」と述べている。(関連記事

▼オーストラリアにとってのイラク?、ハイチ?

 オーストラリアは、アルカティリ首相を辞めさせようと東チモールに軍事介入したが、アルカティリは辞職を拒否している。今のところグスマオ大統領も、アルカティリに強く辞任を求めて対決するところまではやっておらず、むしろオーストラリアの介入の方を心配している。その一方で、アメリカやオーストラリアのマスコミは、アルカティリを「独裁者」として過剰に悪く描く姿勢を変えておらず、マスコミは米豪による政権転覆を支援している。

 今後、米豪から非難されても辞めない姿勢を貫いた場合、アルカティリは、中南米や中東などの「反米・非米同盟」に接近していく可能性がある。東チモールと中南米の左翼政権とは「カトリックで左翼」という共通点がある。ベネズエラのチャベス大統領あたりが米豪のチモール介入を非難し始めるかもしれない。

 チャベスは、イランのアハマディネジャドをも支持しており、ここで中南米のカトリック左翼は、中東のイスラム主義勢力とつながっている。中東のイスラム主義は、インドネシアのイスラム主義とつながっている。不倶戴天の敵である東チモールとインドネシアは、中南米と中東をつなぐ反米同盟という地球の裏側を経由して、奇妙にも、新たな間接的な同盟関係になりつつある。(関連記事

 オーストラリアは、アルカティリに暴動を誘発した罪をかぶせ、無理矢理に辞任に追い込むかもしれない。その後、オーストラリアの言うことをよく聞く東チモール新政権が作られ、オーストラリアに都合の良い石油開発の契約が結ばれたりした場合、オーストラリアは石油のために東チモールの政権を転覆させ、傀儡化したという話になる。シャナナが反発して大統領を辞め、オーストラリアの傀儡統治に反対するゲリラが山中にこもり、オーストラリア軍は占領の泥沼に陥る事態になるかもしれない。「イラク化」である。

 オーストラリアが東チモールに最初に軍を派遣した1999年の後、アメリカ政府の高官は、オーストラリア政府幹部に「オーストラリアにとっての東チモールは、アメリカにとってのハイチのようになる」という予測を伝えている。ハイチは過去100年間、アメリカによっていくつもの傀儡政権が作られては倒されることを繰り返し、低強度の泥沼の半占領状態が延々と続いている。(関連記事

 オーストラリア軍は東チモール以外に、イラク、アフガニスタン、ソロモン諸島、スーダンなどに、合計2600人の兵士を派兵しており、すでにオーバーストレッチ(過剰派兵)気味である。東チモールで泥沼化に陥るのを回避し、早期撤退すると、その後の東チモールは、豪米の再介入を恐れ、従来の「親欧米」側から「反米非米同盟」の側に鞍替えし、油田の利権は中国に売るという話になるかもしれない。

 アメリカの「文明の衝突」作戦は、イラク侵攻など不必要に過剰な作戦展開の結果、世界的な「反米非米同盟」を強化してしまい、世界の多極化につながっているが、東チモールは、このどんでん返しの影響を受け、混乱させられている。



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