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中国による隠然とした香港支配

2004年12月8日   田中 宇

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 中国共産党は、中国全土に組織をはりめぐらせ、各都市に支部を持っている。中国国内のどこの町に行っても、町の中心に近い場所に「中国共産党○○市委員会」といった立派な看板を掲げた建物がある。

 中国国内で一カ所だけ、その例外となっている都市がある。1997年にイギリスから中国に返還された香港である。香港には、中国共産党の組織は存在しない。いや、正確には「存在しないことになっている」。

 香港では、中国共産党は秘密の地下組織として存在している。少なくとも香港市民の多くはそう考えている。歴史的に見ると、共産党の香港支部は、非常に古くから存在している。中国共産党が創建されたのは1921年に上海においてだったが、その後間もなく香港に党支部が作られ、1925年に香港で英当局に対するゼネストが行われた際は、共産党もストライキの計画に協力した。

 当時は共産党が中国全土を統一するはるか前で、中国の諸都市のほとんどは、国民党や日本などの列強勢力が支配していた。共産党は、自分たちが支配する地域を「紅区」(解放区)と呼び、それ以外の地域(敵方が支配する地域)を「白区」と呼んでいた。

 紅区では誰が党員か皆が知っており、党委員会もおおっぴらに看板を掲げたが、白区ではすべてが秘密だった。誰が党員であるか知っているのはごく一部の幹部だけで、一般党員どうしは、たとえ同じ会社に勤めている仲間でも、互いに党員であると知らなかった。こうすることにより、敵方の当局が党組織を破壊しようと一部の党員を逮捕尋問しても、組織の全容を知ることができないようにしていた。

 上海も香港も、党支部は白区の組織として作られたが、その後1949年に共産党が内戦に勝って中国全土を支配するようになると、上海などの諸都市は紅区に変わり、党組織は秘密を解いて大っぴらなものに変身した。香港はその後もイギリス領だったので、白区であり続けた。中国政府の通信社である「新華社」の香港支社が、中国共産党の香港支部として事実上機能していた。

 奇妙なのは、1997年に香港が中国に返還された後も、香港の共産党組織は紅区扱いに変身せず、白区型の秘密の地下組織であり続けていることである。もはや香港は中国共産党の支配下にあるのだから、誰も共産党員を逮捕しに来ないどころか、党員はエリート扱いされてしかるべきなのに、いまだに香港在住の共産党員は身分を隠したまま生きている。

 香港にいる共産党員は約3000人と推測されている。香港市民の多くは、共産党支配を嫌がって中国大陸から逃げて来た人々とその子孫であり、共産党からすれば敵方の人々である。その不信感があるためか、共産党は香港市民に対する党員勧誘をしておらず、香港在住の党員のほとんどは、党の指示を受けて大陸から香港に永住してきた人々であり、サラリーマンや役人など、香港の各界にまんべんなく分散した状態で生活していると考えられている。共産党の香港支部のトップは、中国政府の香港マカオ弁公室(駐香港連絡事務室)の主任(現職は高祀仁)であると考えられている。(関連記事

▼白区扱いの背景に「一国二制度」

 中国共産党本部が香港の「白区」扱いを続けているのは、香港を返還してもらう際にイギリスとの交渉で約束した「一国二制度」と関係している。中国はイギリスとの交渉の結果、返還後の香港では市民による高度な自治を保証することを約束し、香港の憲法である「香港基本法」に明記した。

 共産党の香港支部が大っぴらな存在になって共産党が香港を支配していることがばれてしまうと、香港で自治が行われていることにならず、基本法に反していることになるし、共産党は政党として香港での選挙に出なければならなくなる。むしろ、香港には共産党の組織がないことにして、隠然とした影響力を行使し続けた方が得策である。

 香港で共産党の地下組織が実際のところどのくらいの政治力を持っているのか、はっきりしたことは分からない。しかし、昨年夏に香港の首長(市長)である董建華・行政長官のやり方に反対する市民が50万人規模の反政府デモを繰り広げ、野党の「民主党」など民主諸派の力が強くなってから、今年9月の議会(立法会)選挙で民主党がふるわず、その半面で親中国派の「民主建港連盟」が議席を伸ばす結果に終わるまでの1年半の流れを見ると、香港社会において親中国派が巧妙に民意を取り込んでいることが感じられる。

 共産党勢力は香港において、共産党であることを隠したまま、一つ一つの政治的なテーマにおいて、香港市民が結成する諸派と連携する「統一戦線方式」の政治運動を展開し、最大野党である民主党の台頭を抑え込んだのだと思われる。

▼実利を優先して反中国にならない香港市民

 香港は1997年に中国に返還された後、経済的に不振が続いた。1997−98年にはアジア通貨危機の打撃を受けた。2001年には中国がWTOに加盟した。それまで中国は経済的に閉ざされていたので、香港を経由して商品や資金が中国大陸に流れ込む仕組みになっており、香港は中国の「出入り口」として繁栄していた。ところが中国がWTOに加盟したことで、中国大陸の諸都市が直接に海外から商品や資金の流入を受けるシステムに変更され、香港の存在意義は大幅に低下した。

 これらの結果、香港では株式相場や不動産価格が下落し、失業も増加した。株や不動産の投資利回りを重要な収入源としていた香港市当局の財政は赤字に転落し、財政赤字が拡大した。2003年にはSARS問題が経済にさらに打撃を与えた。香港市民の董建華市政に対する批判が強くなった。そんな中で董建華は、反政府運動を禁じた香港基本法(憲法)23条を具体化する反政府運動取締り法を施行しようとしたため、市民の怒りが爆発し、2003年7月1日の返還記念日に、返還以来最大規模である50万人の反政府デモが挙行された。

 香港の行政長官は、中国側が「香港市民の代表」として選んだ800人の選挙人によって選出する形になっているが、事実上、董建華を選んだのは最近まで中国の最高権力者だった江沢民・前国家主席であり、5年の任期を終えた後の2002年に董建華が再任されたのも、江沢民の采配によるものだった。(関連記事

(中国共産党は、周恩来の時代から香港の財界人と仲良くし続けており、香港の返還後は、共産党は香港財界に自由な商売を保証する代わりに、香港財界は親中国の市政を行うという暗黙の協約が成り立っている。董建華は造船会社などを持つ財界人で、香港財界を代表するかたちで香港の行政長官に就任した)

 香港市民の多くは、反董建華ではあったが、反中国や反共産党ではなかった。実利的な香港市民は、共産党に刃向かったら香港に流れてくる商権や資金を止められて香港経済がもっと悪化するかもしれないと感じ、反中国の姿勢をとらなかった。

 とはいえ、董建華を任命したのは中国であり、親中国の政党である「民主建港連盟」や「自由党」(財界人中心の党)は董建華の市政を支持する姿勢を変えられなかったので不人気となった。昨年11月の香港での地方議会選挙では、反董建華の「民主党」は約20議席増やして93議席となり、親中国の「民主建港連盟」は約20議席減らして64議席に落ちた。(関連記事

▼董建華を回避しつつ民主派を取り込む胡錦涛

 この危機に対して中国側が打った手には、表と裏があった。表側では、胡錦涛国家主席と温家宝首相という中国側のトップが、董建華に対して「香港市民の民意をきちんと聞かねばならない」などと、やんわり批判する態度をとるとともに、中国側が香港の民主諸派と親しくする直接のパイプを作り、董建華を辞めさせないものの、回避するような政策をとり始めた。(関連記事

 董建華は江沢民の支持を受けていたから、江沢民の後任の胡錦涛が董建華を辞めさせることは難しかったし、董建華を辞めさせることは共産党が香港の民意に対して譲歩したことになり、地方の離反力が大きい大陸の政治に悪影響を波及させることになりかねなかった。

 中国側は、董建華に圧力をかけ、香港市政の閣僚の一部を民主諸派の中から人選するような新政策をとらせたが、この政策は民主諸派の側が乗ってこなかったので失敗した。入閣すると政府側の人間になるので政策批判が禁じられ「閣僚のポストを得るために政府側に寝返った」と支持者から思われてしまうためだった。(関連記事

 中国側はその後も、民主諸派に対する「取り込み政策」を続け、今年の国慶節(中国の建国記念日。10月1日)には、民主諸派の立法会議員の中から5人を北京に招待し、胡錦涛が面会している。

▼民主党はイギリスの置き土産

 民主派の盛り上がりに対する中国側の裏の対策は、民主党を「愛国的でない」と批判する「愛国運動」を展開したり、親中国の民主建港連盟を中国の経済発展のダイナミズムと結びつけるイメージ戦略を展開したりすることだった。

 香港の最大野党である民主党の上層部は、英語によるイギリス式の教育を受けた弁護士や教員などのエリート集団である。民主党は、イギリス最後の香港総督だったクリス・パッテンが1992年から行った「民主化」の中で勢力を拡大した。(関連記事

 パッテンの民主化政策は、香港を植民地にして以来150年間、民主化に不熱心だったイギリスが、返還直前に急に方向転換したもので、その目的は、イギリスから返還された後の香港で、中国が香港市民の民主化要求に手を焼かざるを得ない構造を作ることによって、中国の強大化に歯止めをかけることだった。イギリスが1940年代にインド植民地を独立させる前に、イスラム教徒のナショナリズムを煽り、パキスタンとインドを分裂・対立した状態に陥らせ、独立後のインドが団結した強国にならないようにした戦略と同じである。(関連記事

 香港を手放す必要がなかったら、イギリスは香港で民主化政策など行わなかっただろう。その意味で、香港の民主党は、中国共産党と戦わせるためにイギリスが育てた勢力だった。香港市民の多くは広東語だけを話し、英語があまり上手ではない。民主党の上部を形成してきた英語のイギリス式教育を受けた人々は、一般の香港市民とは異なる階層にいるエリート層である。このため民主党は草の根の支持を拡大するのが苦手だった。(関連記事

 董建華の市政に対する市民の反発が強まり、50万人デモ行進につながった昨年の動きは、民主党に対する香港市民の支持を拡大するチャンスだったが、民主党は草の根の党勢拡大を十分に行うことができず、今年9月の立法会選挙では、民主党は議席を2つへらして9議席となり、第三党に凋落した。これに対して親中国の「民主建港連盟」は、中国との連携を強めた方が香港経済の発展につながるという主張を展開して議席を3つ増やして12議席となり、第一党になった。第二党となった財界人主体の「自由党」など、他の親中国派を合わせると、親中国派は60議席の立法会の中で34議席を占め、過半数を制した。(関連記事

(得票率で見ると、民主党が24・3%、民主建港連盟は22・7%で、民主党の方が多いが、にもかかわらず民主建港連盟の議席が伸びて民主党のが減ったのは、選挙制度が親中国派に有利になるような仕掛けになっているためだという批判も出た。しかし民主党は敗北宣言を行い、党首の楊森は辞任を表明しており、予想に反して負けたことは確かである)(関連記事

▼香港市民を反中国にしたくない中国当局

 香港市民は、中国による統治に対して不安を抱いている。中国では「法治より人治」と言われ、法律が存在していてもそれに基づく行政が行われず、権力者の意向によって政策が決まる傾向が強い。中国大陸で事業を展開することが多い香港のビジネスマンたちは、地元の共産党幹部の意向に気をつけないと、思わぬ理由で罪を着せられて犯罪者に仕立てられてしまうことがあることを身にしみて知っている。イギリス統治時代に「法治」に慣れていた香港市民は、こうした点に懸念を抱き続けている。

 香港政界では、9月の立法会選挙で4人を当選させた準政党組織「基本法45条関注組」など、新しい民主諸派が力をつけてきているが、彼らは中国の統治に対する香港市民の懸念を上手にすくい取って自分たちに対する支持に結びつけ、政治力をつけている。

 45条関注組の4人の立法会議員は今年10月の国慶節に北京に招待されて胡錦涛と面会するなど、中国側も新しい民主諸派を取り込むことで、従来の「董建華VS民主党」という対立を過去の遺物にしてしまおうとしている。(関連記事

「基本法45条関注組」は、行政長官を普通選挙で選ぶことを将来の目標とすると書かれた香港基本法の45条がきちんと実行されることを主たる要求としている。香港の民主派は、現在の董建華長官の任期が終わって次の行政長官を選ぶ2007年には、一般市民が直接投票して行政長官を決める普通選挙を行うべきだと主張していた。だが中国側の国会(全人代)は今年4月、2007年にはまだ普通選挙を行わないと決定した。

 香港基本法45条では、香港返還から50年後までに普通選挙を行うことをうたっているだけで、いつ普通選挙を行うかは中国側が決定することになっている。現在は中国側が「香港を代表する人々」として選んだ800人の選挙人が行政長官を選出している。

 しかし、今後ずっとこのやり方を続けていくことは、香港市民の中国に対する不満や不安を増大させかねない。それは香港で民主諸派が力をつけ、彼らを中心に反中国の運動が活発化することを意味しており、中国当局がその動きを放置すれば、中国大陸にも反政府的な運動が広がりかねない。

▼「イラン方式」の限定的民主主義

 そのため中国当局は、次々回2012年の行政長官の選出時ぐらいまでに、普通選挙ではないもののそれに似た制度を導入する可能性がある。中国側は、選挙人の数を800人から2000人に増やし、香港の民主諸派などもカバーするよう選挙人制度を拡大し、彼らが選ぶ行政長官の候補は1人ではなく5人とし、その5人を候補者として一般市民による選挙を行い、最終的な行政長官を選出するという新制度を検討している。(関連記事

 これは、イスラム聖職者が了承した人物だけが国会議員に立候補できるという、イランの国会議員選挙のシステムとも似た、限定的な民主主義である。この方法だと、中国当局は、中国に忠誠を誓う人物が行政長官になることを確保できるし、香港市民は選択肢を与えられ、董建華のように市民から嫌われる人物が行政長官になることが回避でき、香港市民を反中国にすることを避けられる。

 中国大陸では今のところ、市や町の首長や議会以上のポストを決める際に普通選挙を行う構想は全く存在しない。中国は国内の利権があまりに多様であるため、選挙をやって地方の幹部に「民意」の支持を与えてしまうと、その民意を盾にして中央に従わなくなる市長や市議が続々登場しかねないからである。

 だが今後、中国の経済発展が続き、中国人の多くが豊かで安定した生活を送るようになり、政治騒乱が起きる可能性が低下した場合、共産党がすべてを決定してきた従来のやり方よりも、少なくとも地方政治の場においては、普通選挙による民意に基づいた政治体制に移行した方が効率的だということになり、中国大陸で選挙が行われるようになるかもしれない。その場合には、香港でこれから行われそうな限定的な民主主義システムがモデルとして活用される可能性がある。



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