WTOの絶望と希望2003年9月22日 田中 宇9月10日、メキシコのカンクンで開かれていたWTO(世界貿易機関)閣僚会議の会場の外で、反対運動をしていた韓国の農民団体の幹部イ・キョンヘさんが、ナイフで自分の心臓を突き刺して自殺する事件があった。9月10日から14日まで開かれていたWTO会議の会場の外には、欧米や日本、韓国、中南米などから来た市民団体、農民団体などが集まり、WTOに反対する示威行動を展開していたが、イさんはその最中に自害した。 WTOでは1994年のウルグアイ・ラウンド以来、各国政府が自国の農業を保護するために農民に補助金を出したり農産物の輸入を制限したりすることを、自由貿易を阻害する不公正な行為とみなし、特に先進国の農業保護政策を削減させようとしてきた。この流れの中で韓国政府も農業保護を減退させており、韓国では生活苦に陥ったり離農する農民が増えた。農業に根ざした韓国の伝統的精神が失われているとの危惧もある。 イさんは、こうした事態に義憤を抑えきれず、怒りと絶望感から自害した。カンクンに集まった世界の市民団体や農民団体は、イさんの自殺を「WTOがやっていることがいかに非人道的なものであるかが証明された」ととらえ、反対運動を激化させた。(関連記事) とはいうものの、自らの死を通じて韓国政府に農業保護政策を復活させることを求めたイさんの主張は、WTOに対する世界の農民の全体意志なのかといえば、そうではない。韓国や日本、EUといった先進国の農民は、政府の農業保護政策が農業文化の維持や食糧安全保障、過疎の防止などに役立っていると考える傾向が強いが、ブラジルなど農産物の輸出に力を入れている発展途上国の農民は、先進国の農業保護政策は自由貿易を阻害していると考える傾向が強い。途上国の農民の中には、イさんの自害を冷ややかに見た人も多いはずだ。(関連記事) 発展途上国の中でも、農業が輸出用ではなく自給用の面が大きいインドなどは、先進国の農業保護は不必要だが、自国を含む途上国の農業保護は必要なものだと考えており、ブラジルなど農業輸出大国とは立場が違う。先進国の中でもオーストラリアは、他の先進国の農業保護政策を不公正だというが、アメリカではコメを作っている農家は日本や韓国の保護政策を非難するが、逆に途上国からの輸出攻勢にさらされている綿花を作っている農家はWTOで農業保護を俎上に上げることに反対している。(関連記事) ▼WTOは欧米経済戦争の場 WTOで先進国の農業保護政策がやり玉に挙げられるのは、先進国が国内農産物市場を開放すれば、その分だけ途上国が農産物の輸出を増やすことができ、不当な南北経済格差を減らせるという理屈に基づいているが、これは必ずしも正しくない。たとえば、韓国や日本がコメ市場を開放すると、まず入ってくるのは日韓の消費者の口に合う銘柄を開発してきたアメリカとオーストラリアのコメである。これでは途上国を助けるどころか、日韓が安全保障だけでなく食糧面でもアメリカの属国になる傾向を強めるだけだ。 そもそも農業保護問題がWTOのテーマとして浮上したのは、クリントン政権時代のアメリカがEUに穀物や肉類などを売り込もうとしたことがきっかけだった。これに対抗してEU側は、環境問題をWTOのテーマとして提起し、環境保護が進んでいるEUの企業の立場を強化し、環境問題に甘いアメリカの企業をへこませようとした。このように、WTOが追求する公正さを何と結びつけるかということ自体が、アメリカとEUの経済戦争の場と化していた。そこに、日韓や各地の途上国が入り込み、乱戦状態になっている。 WTOの前身であるGATTは1947年に設立されたが、当初は欧米間の貿易問題を解決するための機関だった。その後、日本が先進国の仲間入りし、韓国や東南アジアが経済発展してくると、そのたびに新しい交渉の枠組み(ラウンド)を作って展開したものの、依然として先進国が交渉の中心だった。冷戦時代には、ソ連という自由貿易国にとって共通の敵が存在していたため、秩序のある交渉がなされていた。 この流れを変えたのが冷戦後の1994年に合意したウルグアイ・ラウンドで、冷戦が終わって世界経済を一極支配することを目指したアメリカが、発展途上国までを含む世界貿易体制を確立することを目指し、新しい枠組みを作った。 だが、初めは欧米中心のWTO体制をそのまま受け入れて参加することに疑問を持たなかった発展途上諸国は、その後しだいに「WTOは欧米に都合の良い貿易体制を作るだけの仕組みではないか」と考えるようになり、こうした途上国の反発と、欧米で始まった「反グローバリゼーション」の左翼系市民運動が結合し、1999年にシアトルで開かれたWTOの会議は失敗に終わった。(関連記事) シアトルの失敗を受け、2001年11月に中東カタールのドーハで開かれたWTO会議では、途上国の発展に寄与する体制を模索することをテーマに掲げ、欧米は途上国の怒りを鎮めようとした。当時は911事件の直後だったので「途上国の貧困を救うことがテロ防止につながる」という意味づけもなされた。(関連記事) (ブッシュ政権中枢では、WTOなどの国際機関なんて不要だと考えるチェイニー副大統領ら「一極主義者」と、国際機関を重視するパウエル国務長官ら「多極主義者」が対立しており、両者の間を揺れるブッシュ大統領や世論を説得するために、多極主義者は「WTOの発展がテロ戦争に役立つ」という理屈を持ち出したのだろう) ▼WTOを捨てるアメリカ一強主義 このドーハ会議で「先進国の農業保護政策が途上国の農業輸出を阻害している」という議論が大きく出てきた。先進国の中でも、輸出用農産物に対して補助金を多く出しているEUに対して非難が集まり、アメリカと途上国が組んでEUを攻撃するというかたちになった。これを、ブッシュ政権になってから激化したアメリカのEU敵視策と合わせて考えると、アメリカが途上国を動員してEUを叩きにかかった、ということになる。(関連記事) だが、この状態も長く続かなかった。ブッシュ政権は2002年に入って農業補助金を大幅増額していく法律を施行し、WTOの方針を真っ向から否定するようになった。アメリカはウルグアイラウンドの後、1996年に農業補助金を減らしていく法律を制定しており、WTOの方針に沿ってアメリカ自身も動いていたが、こうした政策はクリントンの任期が終わるとともに終焉し、ブッシュは逆にWTO自体を軽視する傾向を強めた。(関連記事) これはアメリカが、国連やその他の国際機関を軽視する一強主義的な傾向と一致している。WTOではなく2国間の取り決めによって貿易をやっていこうとする考えである。WTOだと、他国に要求するのと同様にアメリカ自身も決定事項に縛られるが、2国間交渉だと、アメリカの圧倒的な強さを背景に、相手国は縛られるがアメリカは縛られない、という偏った取り決めができ、面倒な義務を負わなくてよい。 アメリカはすでにカナダ、メキシコ、イスラエル、ヨルダン、シンガポール、チリなどと2国間の自由貿易協定(FTA)を結び、加えてNAFTAを中南米にまで拡大し、南北米州を経済圏として囲い込もうとしている。こうしたアメリカの動きを真似て、日本を含む世界各国が互いにFTA締結に動き出したり「ASEAN+3」や「拡大EU」のような地域経済圏を目指したりする動きを始めており、WTOを軽視する世界的傾向が今後強まると危惧されている。(関連記事) カンクン会議では、アメリカの一強主義に反発するNGOと途上国が結託し、アメリカに「身勝手な国」というレッテルを貼る作戦に成功している。イギリスの「オックスファム」などのNGOはベニン、ブルキナファソ、チャド、マリという西アフリカの綿花生産国4国に入れ知恵し、4国は「アメリカが自国の綿花農家に補助金を払っているため、アメリカが輸出する綿の価格が不当に安くなり、西アフリカの綿花農家の収入を減らしている。アメリカは綿花補助金を廃止し、西アフリカの綿花農家に賠償金を払うべきだ」と提案した。(関連記事) アメリカでは連邦議会上院の農業委員会の委員長が綿花農家からの支援によって当選した人であるなど、綿花農家と政治家との癒着が強く、そのためアメリカ代表は綿花補助金問題を議題にすることを拒否した。アフリカ諸国は怒りを表明し、綿花問題を扱わないのなら、先進国が求めている投資問題などを議題にすることに対して拒否権を発動すると言い出した。(WTOは全会一致の原則があるので、1カ国でも拒否権を発動すると話が流れてしまう) 一方、農業補助金問題を話し合いたくないEUは「農業問題を議題にしてもいいが、その前に投資問題などを話し合わないとダメだ」と言い張り、インドやブラジルなど途上国側と鋭く対立し、結局この混乱が解けないことによって、カンクン会議はほとんど何も決められないまま閉幕することになった。(関連記事) ▼印中連合で台頭する途上国勢力 クリントン時代のアメリカが、WTOを経済的な世界支配の道具として使おうとしていた時、多くの左翼運動家がWTOの存在そのものに反対した。ところがその後ブッシュ政権がWTOを見捨てる方向に動くと、運動家の中から「WTOはなくなるべきではなく、改革されるべきだ」と主張する人々が出てきた。イギリスの著名な活動家(評論家)であるジョージ・モンビオットは今年6月のコラムで「かつてWTO会議の失敗を大喜びしたのは間違いだった」と表明し、ブッシュがWTOを潰そうとする動きに対抗すべきだと書いている。 こうした運動側の新しい考え方とシンクロしそうな動きが、各国政府側にも出てきている。カンクン会議では、インド、中国、ブラジル、南アフリカなど、途上国の中でも今後経済発展が望めそうな国々を中心に21カ国が集まった「グループ21」(G21)という勢力が、途上国を代表する存在として登場した。彼らは巧みな交渉能力を持ち、今後の交渉では、アメリカ、EUに対抗する第3の世界的勢力となっていく可能性がある。その意味で、カンクン会議の失敗は、むしろ今後の交渉でこの第3勢力が台頭できる素地を残したとも考えられる。G21の登場は、WTOの50年の歴史の中で最大の地殻変動であると分析する記事もある。 G21が存在感を持つようになったポイントは、中国とインドという、合計すると世界の人口の3分の1を占める勢力が連携した点にある。インドは、以前から先進国に有利なWTOのあり方に反対していたが、途上国全体をまとめる強い主導権を獲得できないでいた。これに、2年前にWTOに加盟したばかりの中国が接近し、21カ国連合に発展した。(関連記事) 印中両国は今年6月のインド首相の訪中で関係を緊密化したばかりだが、印中関係が強化されたことでアジアの統合と安定化が進みそうだということは、以前の記事で何回か書いたとおりだ。その上でWTOの状況を見ると、印中連合はアジアをまとめるだけでなく、世界の発展途上国全体をまとめる核となっていく可能性がある。冷戦下の1950−60年代に、親米でも親ソ連でもない「非同盟諸国」の連合体をインドなどが中心となって作ろうとした時の勢いに似ている。 この勢いを削ぐべくアメリカは、G21加盟国のうちアメリカと2国間貿易交渉を行っている6カ国に対し、2国間交渉で譲歩してあげるからG21から脱退してくれと申し入れた。だが、その交換条件に応じたのはエルサルバドルだけで、しかもそれと前後してナイジェリアとインドネシアがG21に加盟し、参加国の数はむしろ増えた。アメリカの作戦は失敗し、途上国側がアメリカの悪意を明確に感じ取る結果となった。(関連記事) 一方わが日本は、カンクン会議で韓国との協調を強めた観が強い。農業保護問題のほか、EUが提起した投資問題などへの対応や、ダンピング問題に関する見直し要求など、いくつものテーマで日韓は同一歩調をとった。日韓も印中も、最近まであまり仲が良くなかったが、最近それが大きく変化している。ASEANと日韓印中との関係強化、台湾と中国の対立が解消されていく可能性などと合わせて考えると、アジアが緩やかに統合していく動きが始まっていることが、ここでも感じられる。
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