アルゼンチンの悲劇(2)2002年1月17日 田中 宇アルゼンチンの経済危機が政治危機に発展する最初の兆候は2001年夏、議会で検討されていた国家予算が、IMFが融資の条件として求めていた予算の均衡(財政赤字を増やさないこと)を達成しようと、政府の支出を大幅に削ったことだった。 アルゼンチンの財政赤字の総額はGDPの半分以下(45%)だった。この数字は特に悪いものではなく、アルゼンチンの財政が放漫すぎるとはいえず、IMFのやり方は間違っていた可能性が高い。 支出を切り詰める必要がない国に切り詰めを迫り、その国の経済自体を破壊してしまうIMFのやり方は、1997年に東南アジアに対しても行われ、インドネシアなどはそのときの混乱から抜け出せず、地域紛争で毎月何人もの人々が殺されているが、当のIMFはその後もやり方を変えていない。 IMFは金融が破綻した国を支援するのが役割なのに、実際にはウォール街など国際投資家の代理人として厳しい借金の取り立てをすることが仕事になっている。警察だと思ったら実は泥棒だった、というわけだ。(中南米には警官が暗闇で強盗する国もあるが) IMFに求められた緊縮財政を実行するアルゼンチン政府に反対して、2001年7月に、労働組合や各種団体がゼネラルストライキを敢行した。ところが、これによってアルゼンチンに対する外国投資家の目が厳しくなり、国債の格付けが下がった結果、アルゼンチン政府は国債を買ってもらうのに金利を上げねばならなくなり、これがさらに経済に悪い影響を与えることになった。 アルゼンチン経済を悪化させた元凶の一つは、1ペソ=1ドルという固定相場にあるのだから、この固定相場をやめて、ペソの価値を市場が自由に決める変動相場制に移行させれば、ペソの為替相場が切り下がり、輸出産業が再び息を吹き返すはずだった。しかし、固定相場をやめることは、政治的には無理だった。 住宅ローンや自動車ローンなど、国民が借りているお金の80%はドル建てで、1ドル=1ペソなら人々が稼いだペソでそのまま返済できるが、ペソが切り下がって1ドル=1・5ペソにでもなったら、人々の借金はその日から5割増しになってしまう。ローン会社はドルの方が潜在的な為替リスクが少なく、ドル建てローンの方が金利が安かった。ウォール街の投資家たちは1ドル=1ペソが続くことを前提にアルゼンチンに投資していたから、固定相場の撤廃には、アメリカやIMFからの反対も強かった。 ペソの対ドル固定相場を維持したまま、第三の通貨「アルゼンチーノ」を新たに発行する、という構想も取りざたされた。ドルとリンクしているペソは自由に紙幣を刷ることができないが、新通貨はそうではないので、公務員給与や年金の支給は新通貨で行ってはどうか、という考えだった。しかし、何の裏付けもなく新通貨を発行すれば、2カ月もしないうちにペソやドルに対する新通貨の価値が暴落してしまうことは目に見えていた。 ▼国民の預金封鎖の裏で外国銀行が資金逃避 アルゼンチン政府は12月1日、国民が銀行から引き出せる額の上限を1カ月に250ドルに制限した。アルゼンチンには1989年以来の外国資本歓迎策に乗って入ってきた外国の銀行が多かったが、金融界は自国の先行きに不安を持った人々が銀行の預金を引き出し始めているのを見て、アルゼンチン政府に圧力をかけた。 その一方で、いよいよ資金難に陥ったアルゼンチン政府は外国から借りた金の利払いが難しくなり、IMFからの緊急支援を必要としたが、融資の条件となっていた緊縮予算案は議会を通らないままだったので、IMFは融資を断った。 これに対して怒った国民は、12月13日に再びゼネストを敢行した。国民が250ドルしかおろせなくなっている間に、外国系金融機関は大口取引が規制されていないため、12月から1月にかけて150億ドルもの資金をアルゼンチン市場から引き出してしまっていた。アルゼンチン政府が国民から「欧米金融機関の手先」と思われるのは当然だった。 アルゼンチンは、労働組合を重用した1940年代のペロン大統領以来の伝統で、人々が政府に何かを要求するときは、労組の旗を押し立てて行う傾向が強かった。だが人々はすでに、政府の擁護しかできない多くの組合に対して愛想を尽かしていた。今回のデモには組合の旗はほとんど出ず、旗として出てきたのは「愛国心のない政府など要らない」というメッセージを持ったアルゼンチン国旗だった。(関連記事) 国内と外国の両方からの圧力が高まる中、国民の反政府デモが暴動と化し、12月19日には暴動が悪化し、全国で20人ほどの死者が出る事態となった。大統領のフェルナンド・デラルアは進退を迫られた。 デラルアの最後の切り札は、連立政権への移行だった。デラルアは、1999年の選挙でペロニスト党(正義党)を破って政権についた急進党の大統領である。野党となっていたペロニストを政権に引き入れて連立を組めば、自分への反発を抑えられるかもしれない。そう考えて12月20日にデラルアはペロニスト党に連立を申し込んだ。しかし、ペロニスト党の方は、このままデラルアに経済政策失敗の責任を押しつけて辞めさせ、自分たちが政権をとる道を選んだ。その日の夜、デラルアは議会に辞表を提出した。 ▼8日間で終わった暫定大統領の野望 デラルアに代わって大統領になったのは、ペロニスト党のアドルフォ・ロドリゲスという人物だった。彼はサンルイスという小さな州の州知事から昇格した。アルゼンチンは州ごとの政治勢力が強く、ペロニスト党の中でも人口が多い州の知事や上院議員が強い政治力を持っていた。 そんな中で小さな州の知事にすぎないロドリゲスが党内協議で大統領に選ばれたのは、2002年3月までの90日間の暫定政権だったからであった。3月に選挙を行い、そこで正式な大統領を決める予定だったから、大きな州の知事たちはその選挙に打って出ることを目指し、国民の反感をかうに違いないこの難しい時期の暫定大統領には、誰もなりたがらなかった。 とはいえ、ロドリゲスも彼なりの野心を持っていた。彼は就任した翌日から矢継ぎ早に、前政権が決定した公務員給与と公的年金を13%削減する政策を破棄すると発表したり、最低賃金を2倍の額に引き上げると宣言したり、100万人分の雇用を生み出す計画を打ち出したりした。また、外国から借りている資金に対する利払いを停止すると宣言した。アルゼンチンの対外債務は1500億ドル(約20兆円)で、史上最大の国家の破産宣言となった。 ロドリゲス大統領は、これらの政策で国民の歓心をかい、3月の大統領選挙に自分も立候補しようという腹だったようだが、発表された政策はいずれも素人が見ても、難局の真っ最中にいるアルゼンチンには実現不能なものだった。伝統的なペロニスト政策は、今や国民から見向きもされず、国民の政治不信を募らせ、やかんやフライパンを騒がしく叩きながら大統領官邸に押し寄せる、反政府デモ隊の人数が増えただけだった。 ロドリゲスが大統領になって1週間後の12月30日、上院議員や知事など政界の有力者を集めて政策会議を開いた。しかし、会議に集められた人々のうち、出席したのは半分もいなかった。野党ばかりでなく、与党であるペロニスト党の有力者たちも大半が欠席した。この会議の後、大統領を支えるはずの閣僚も全員、辞表を大統領に提出するに至った。暫定大統領としての権限を越えたふるまいに対して周囲からそっぽを向かれたロドリゲス大統領は、この日の深夜にテレビ演説し、辞任を表明した。彼の在任期間はわずか8日だった。 ▼大統領になりたい人がいない大晦日 アルゼンチンの憲法では大統領が辞任した場合、上院議長が大統領に昇格することになっている。しかし、上院議長のラモン・プエルタは、ロドリゲス大統領が辞任した数時間後、自らも議長を辞めてしまった。国民に憎まれる政策を実施する暫定大統領をあえて引き受ける人材がもう与党内にいない以上、自分が上院議長のままでいたら、その暫定大統領を3月まで続けねばならなくなるからだった。 上院議長も辞任してしまったので、大統領職は下院議員に移り、ペロニスト党の下院代表が「形式的に」という条件をつけて引き継いだ。一国の大統領という地位が、これほど人気のないものになる状態も珍しいといえる。 窮したペロニスト党内では、大統領になる条件を変えることが協議され出した。3月に予定されていた大統領選挙を取りやめ、次に大統領になった人は暫定ではなく、任期が2003年までの正式な大統領になる、というものだった。大統領選挙をやらないとなると、野党になった急進党などには不利になるが、彼らはデラルア元大統領の政策失敗が国を破綻させた責任を有権者から問われ、選挙で勝つことはまず無理だったから、選挙なしの新政権づくりに同意した。 こうなると話が違ってきた。ペロニスト党はアルゼンチンの24州のうち14州の知事を出しているが、このうち6人の州知事が大統領になりたがっていた。このうち誰が大統領になるか、党内での駆け引きが始まった。 1989年にメネムが大統領になって以来、ペロニスト党内は市場原理の大幅導入を推進する親米の「メネム派」と、貧者を苦しめる市場原理導入に反対して大衆重視路線を貫く「伝統派」とに分裂し、内部対立が続いていた。今回、メネム流の経済政策が破綻して国が行き詰まった経緯から、伝統派が優勢となり、以前から市場原理導入に反対してきたブエノスアイレス州知事のエドゥアルド・ドゥアルテが大統領になることが決まった。 ドゥアルテはペソの対ドル固定相場を廃止し、売買市場で為替が決まる変動相場制に戻した。彼が属するペロニスト党は議会の多数派だったが、固定相場にこだわるメネム派も多かったので、1月1日のドゥアルテの就任から1月6日の固定相場制の廃止まで、1週間近い日数がかかった。ドゥアルテは経済難を乗り切るための政策に関しては、議会の反対を受けても大統領が実行することができるよう、大統領の権限を強化するべきだと主張している。
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