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ペルー・フジモリ前政権の本質

2001年8月13日   田中 宇

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 南米ペルーでフジモリ前大統領の特別顧問をしていたモンテシノスは、フルネームをウラジミロ・イリイチ・モンテシノス・トレスという。父親がペルー共産党の党員で、親戚にも党員が多いという左翼の家系に生まれたため、ロシアの革命家レーニン(ウラジミール・イリイチ・レーニン)の名前をもらって命名された。

 ところが、彼がフジモリ政権下でやったこととして有名なのは「センデロ・ルミノソ」と「MRTA」という、ペルーを代表する2つの左翼ゲリラ組織を壊滅させたことだった。MRTAは1996年末のリマ日本大使館公邸占拠事件を起こした組織で、フジモリがこの事件を解決できたのはモンテシノスの作戦力と情報力によるところが大きかった。

 このことに象徴されるように、モンテシノスは左翼と右翼、ソ連とアメリカ、犯罪組織と警察、テレビ局と映される側など、正反対の勢力の間を行ったり来たりしながら絶大な権力を獲得し、最後は自分が作った陰謀のメカニズムに食われて失墜してしまった。

 私には、彼の戦略の錯綜ぶりや奇想天外さが、中南米文学の最高峰といわれるガルシア・マルケスの「百年の孤独」とも通じる、中南米に特有の迷宮状態であるとも感じられる。

▼CIAがフジモリ政権を生み出した?

 モンテシノスは19歳だった1965年にパナマにある米軍の士官学校で学び、諜報を担当する軍人としての道を歩み出した。彼は当初からアメリカCIAと関係が深く、1975年のクーデターで反米色の強いソ連寄りの左翼軍事政権が誕生すると、リマに駐在していたKGBに接近し、そこから得たソ連とペルーの軍事関係についての情報をCIAに流すというアメリカのためのスパイ行為をしていた。

 これはやがて上司に察知され、77年に軍籍を剥奪されて投獄され、国家反逆罪で死罪の可能性が高まったが、上(アメリカ?)からの圧力がかかり、1年間だけの服役ですむことになった。出獄後、軍に戻れなくなったモンテシノスは、弁護士の資格をとり、検挙された麻薬組織の弁護を引き受けるようになる。

 当時ペルーでの麻薬取り引きは、農村のかなりの地域を支配する「センデロ・ルミノソ」など左翼ゲリラが手がけていた。モンテシノスは左翼の家系に生まれたため、ゲリラの麻薬ビジネス人脈に入り込みやすかったのではないか。ペルーでは麻薬取り引きを政治資金源にしていた政治家が多かったので、モンテシノスの政界へのパイプは太くなり、ペルー検事の顧問までするようになった。(このときの経験を生かし、彼はフジモリ政権に入った後、検察庁と裁判所を操作できる体制を作った)

 1990年の選挙にフジモリが立候補したとき、モンテシノスはすばやくフジモリに接近した。有権者の投票行動に関する世論調査の結果など、ペルー政府が持っている選挙関係の重要な情報をフジモリに渡して選挙戦略の策定を手伝い、選挙期間中に対立候補がフジモリの資産隠し疑惑を問題にしたときは、上手に葬り去ってやった。

 モンテシノスの伝記の著者によると、フジモリはペルーで生まれたのではなく、日本で生まれて間もなく両親に連れられてペルーに渡航し、出生証明書にもそう書いてあったが、外国生まれだと大統領に立候補する資格がないため、モンテシノスは当局に手を回してフジモリの出生証明書の原簿を書き換え、ペルー生まれということにしたのだという。

 フジモリ政権は、誕生前からCIAと親しいモンテシノスが中枢に入っていたということで、当初からのアメリカの関与を勘ぐりたくなるが、そこまでは明確ではない。とはいえ、フジモリは当選後、すぐにアメリカの中南米政策に共鳴する方針を打ち出し、国営企業の民営化、汚職撲滅、左翼と麻薬組織の退治などを掲げて動き出した。

▼国家を支配した「顧問」

 モンテシノスはフジモリ政権の誕生によって権力を得たものの、公職につくことを嫌がった。彼は、ペルーの諜報機関である国家情報局を牛耳って自らの拠点とし、軍隊と警察をも指揮下に置くようになったが、肩書きは国家情報局の「顧問」でしかなかった。

 その後の彼の動きを見ると、なるべく人前に出ず陰謀を行うのが流儀であり、そのためマスコミや野党から責任追及されやすい公職に就くことを避けたことが分かる。

 フジモリ政権が始まったころ、ペルーでは左翼ゲリラによるテロや麻薬ビジネスが活発化していたが、新政権はこれを厳しく取り締まり、ペルーにおけるコカ栽培を半減させるという成功をおさめた。モンテシノスは以前に麻薬組織の弁護士をしていただけあって、麻薬取り引きの実状に詳しく、どこをどう叩けばいいかよく分かっていた。

 取り締まりは残虐なものだったが、これはモンテシノスが仕返しにゲリラから自らの昔の悪事などを暴露されないようにするためだったのかもしれない。だが、彼の作戦は功を奏し、フジモリ政権はペルーにおけるコカインの栽培を半減させた。中南米での麻薬栽培を潰すのに苦労していたCIAはモンテシノスの功績に満足し、彼と緊密な関係を維持した。

 そのうちに取り締まりの効果が出て左翼ゲリラ組織が力を失ってくると、モンテシノスはゲリラと関係ない人々をゲリラ関係者に仕立て、そこを襲撃することで、取り締まりを続行しているかのように見せかけるようになった。この疑惑は、フジモリとモンテシノスが失脚した後、2人が「殺人罪」で立件されるかもしれないという現状につながっている。

▼盗撮マニアだったモンテシノス

 フジモリがモンテシノスとの二人三脚で進めた政策の一つに、報道の自由化がある。フジモリ以前のペルーでは、マスコミの多くは国営や準国営であったが、フジモリは新聞発行を自由化し、民放テレビの設立を許可した。国有企業の民営化と並び、この「自由化=アメリカ化」によってフジモリはアメリカで賞賛されるようになった。

 しかし、これにも裏があった。マスコミが政府に都合の悪い報道をすると、モンテシノスがその会社の上層部を呼びつけ、もうその手の報道をしないよう、賄賂を渡した。鼻薬を効かされたマスコミは、フジモリを賞賛する番組を流し、左翼テロのひどさを誇張して報道した。

 モンテシノスは国家情報局の応接室の絵画の中にテレビカメラを隠しておき、マスコミの幹部を呼んで金を渡す際、こっそり映像を撮っていた。そのマスコミが後で意にそむいた場合、このビデオテープが効果を発揮した。

 放送の自由化によってペルーのテレビはバラエティ番組などが面白くなり、それまでテレビを見る習慣がなかった貧しい人々が、なけなしの金をはたいてテレビを買って見るようになった。しかしニュースの時間にはフジモリ政権の礼賛が流れ、人々はフジモリに対する好印象を維持した。

 フジモリは高支持率を背景に、自分に反対する議会を解散させ、イエスマンばかりの新しい議会に衣替えさせた。ペルーでは他の中南米諸国と同様、大統領の再選が禁止されていたが、反対勢力がいなくった段階でフジモリは憲法を改訂して自らの再選、三選に道を開いた。選挙の際、テレビ各局がフジモリ批判をせず、逆に野党候補を不当に扱うよう「指導」するのは、モンテシノスの役目だった。

▼アメリカも使っていた超法規的存在

 モンテシノスはマスコミだけでなく、野党政治家や裁判官、軍や警察の幹部、金融機関、税務当局の幹部などにも、フジモリ政権への支持をとりつけるため金をばらまき、その様子をビデオカメラに隠し撮りし続けた。ペルー社会の上層部でモンテシノスのビデオコレクションの中に映っていない人を探す方がたいへんなぐらいだった。テープは分かっているだけで2700本にもなった。このうち800本はフジモリが持っていた。

 逆に、ペルーの政財界で何か解決したい難しい問題があったらモンテシノスに相談するのが最も早道だ、と言われるようになり、彼は超法規的な存在となり、軍隊と警察を支配するようになった。

 モンテシノスを便利に使おうとしたのはペルー国内の人々だけではない。1998年、南米最大の金鉱山であるペルーのヤナコチャ鉱山(Yanacocha)の部分所有権をめぐり、フランスとアメリカの鉱山会社がペルーの法廷で争った裁判で、アメリカ側が勝訴する判決が言い渡されたが、後にマスコミが暴露したビデオテープの一つには、モンテシノスがこの裁判の担当裁判官に対し、アメリカ側企業を支持する判決を出してくれと頼んでいるシーンが映っていた。

 モンテシノスはそのビデオの中で、アメリカ側勝訴の判決が出れば、アメリカ政府がエクアドル政府にペルーとの国境紛争を止めるよう圧力をかけてくれることになっている、と説明している。ビデオが暴露された後、これはアメリカ政府ぐるみの不正ではないかと問題になったが、もちろん米当局も鉱山会社も、それを否定した。

 彼はまた、麻薬組織を徹底弾圧する作戦を指揮する一方で、麻薬組織の活動の一部を黙認し、その代償として金を要求することで、麻薬取引の利益が自分にも入ってくるようなシステムを作った。また、ペルー軍が調達した武器を隣国コロンビアの麻薬組織に転売して利益を上げた。その金が賄賂用の裏金となっていた。

(続く)



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