えひめ丸事故と「謝罪する技能」2001年3月5日 田中 宇ハワイで「えひめ丸」が米軍の潜水艦にぶつけられて沈没してから1カ月近くが過ぎた。この間、日本の新聞に載った「社説」、特に地方新聞の社説をネット上でいくつか読んだが、大体どれも「アメリカ側はきちんと謝罪し、情報公開しながら原因究明と再発防止策を徹底せよ」「森首相は恥ずべき存在だ」などという点に、論旨が集約されている。 別々の新聞の社説なのに、どれも論旨が似かよっているのはなぜなのか、と考えてみると、思い当たることがあった。地方新聞のほとんどは、共同通信社から記事を配信してもらって新聞を作っているが、共同の配信記事の中には、社説の書き方の手本となるようなものも含まれている。各地方紙の社説担当記者にとって、最もお手軽な社説の書き方は、共同が送ってきた「お手本」を習字のようになぞることだろう。 たとえば2月28日の四国新聞の社説「原潜衝突 米側は情報開示徹底を」と、山陰中央新報の社説「原潜衝突できしむ日米」は、違うのはタイトルだけで、中身はほとんど同じだ。まったく同じではなく、語尾などがわずかに食い違っているところに、両社の論説委員の「丸写しは恥ずかしい」というわずかな良心が感じられて興味深い。 新聞の社説は大して読まれていないのだから、各紙の論旨が似ていてもかまわないのかもしれないが、記者が「お習字屋さん」になっているとしたら、森首相を馬鹿にできたものではないようにも感じる。 ▼アメリカは世界で最もきちんと謝る国??? モノトーンの日本の新聞の論説とは対照的に、アメリカの新聞の、えひめ丸事故に対する論説は、いくつかのトーンに分かれている。その中で、日本のメディアでも報じられて有名になったのは、ワシントンポストが2月26日に載せた「日本にはもう十分に謝った」(We've Apologized Enough to Japan)という論説である。 この論説記事の論旨は「アメリカ側は、大統領も国務長官も、国防長官も駐日大使もみんな謝ったのだから、それで十分ではないか。遺族が厳しいことを言うのは理解できるが、日本のマスコミの主張は明らかに度が過ぎているし、この機会を自らの利益として使おうと考えて発言している日本の政治家も多い」というものだ。 またこの記事は、従軍慰安婦や南京大虐殺といった日本の戦争責任問題に触れ「そもそも日本人は自らの問題について謝罪していない。一部の日本人は謝ろうとしないどころか、それらの戦争犯罪が行われたことすら認めていない」などと主張する。 そして返す刀で「それに比べてわれわれのアメリカは、世界で最もきちんと謝っている国だ。クリントン前大統領はアフリカに行って黒人を奴隷にしたことを謝罪したし、アメリカインディアンなど差別を受けた人々にも、すでにきちんと謝った」と、アメリカの「立派さ」を高らかに自慢している。記事は「アメリカは戦後、日本を軍事的に守ってやり、経済再建も助けてきた」と結び、だから日本がアメリカを強く批判するのはおかしい、と主張している。 この記事に対して、日本側の報道やネット上では「日本の戦争責任問題と、えひめ丸事故とは何の関係もないのに、それを無理矢理関係づけて書くのは悪意に満ちている」「アメリカは謝罪する国などではなく、逆に世界有数の謝罪しない国だ。アメリカにおける差別は、陰湿さを増して今も続いている」という反論がなされていた。 それでは、えひめ丸事件と日本の戦争責任とが全く関係ないかといえば、私はワシントンポストとは違う次元で関係していると考えている。日本人は、戦争責任問題で戦後50年以上「謝罪」をめぐって苦しんできたので、それは日本人の心の傷になり、自分たちが戦争責任を負った際の「勝者」であるアメリカが間違いを犯して謝りにきたとき、遺族と関係ない多くの日本人までもが、心の中で「そんな謝り方じゃダメだ」と叫ぶことにつながったように感じる。 ▼ドイツが敢行した「土下座外交」 アメリカにいる私が、テレビ番組や身近なハーバード大学関係者などの様子から感じるところでは、この事件に対するアメリカの世論は「米軍の方が悪いのだから、アメリカはきちんと対処すべきだ。遺族や日本人の怒りは理解できる」というものだ。 好戦的なワシントンポストの論説は、アメリカ上層部でも「日米関係に悪影響を与える」と批判されたようだ。民主党寄りのワシントンポストとは対照的な立場をとる、共和党寄りのウォールストリート・ジャーナルは、2日後の2月28日に、著名な政治学者である日系アメリカ人のフランシス・フクヤマ(元国務省勤務)の論文「残念な状況」(A Sorry Situation)を載せた。 この記事では「奴隷問題をめぐるクリントンの謝罪は何の補償も伴うものではなかったし、クリントンが過去を謝罪したことで、ルワンダの民族浄化をめぐる虐殺など、現在のアフリカの人権侵害や独裁を、アメリカが正当化する結果となってしまった」という反論や、アメリカ政界における謝罪が言葉だけのご都合主義に陥っていることを指摘して「これでは日本がアメリカの謝罪に納得しなくても不思議はない」という主張がなされている。 日本人でアメリカの国内政局に詳しい人は少ないだろうから、日本人がアメリカの政局を見て謝罪が口だけだと批判する世論が生まれた、という主張は的外れであり、ワシントンポストに反論する目的で、アメリカ国内でしか通用しない理論を展開している。フクヤマ論文で私が印象に残ったのは、違和感が残る冒頭部分ではなく、結論部分であった。 彼はまず、戦争責任問題をめぐって西ドイツが日本よりも徹底的に謝罪し、自分たちの国民内部でナチスを肯定しないという自己規制を課したことを指摘した。1970年に西ドイツのブラント首相は、戦争でドイツに占領されたポーランドのワルシャワを訪問した際、ひざまづいてポーランド人に対して謝罪する行為を行った。日本では「アジアの国々に対して日本の代表が土下座して謝ることはぶざまであり、日本人の尊厳を傷つけるだけなのでやめた方が良い」という「土下座外交」批判の論調があるが、ドイツがやったことは、まさに「土下座外交」であった。 そしてフクヤマ氏は結論部分で「謝罪する相手に対して、どうやって自分が本当にすまないと思っているかを伝えるのは、個人にとっても国家にとっても、がんばって磨くべき大切な政治手腕(技能、skill)である。最近のアメリカでは、弁護士主導の裁判が増え、謝ることより言い逃れをする技能の方が重視されているが、えひめ丸の事件を機に、われわれアメリカ人は、きちんと謝る技能を改めて身につけるのが良いのではないか」と述べている。 フクヤマ氏は、日本がドイツより戦争責任の解消に積極的でなかったと指摘しながらも、結論では日本批判をせず、代わりにアメリカが謝罪技能を高めることで問題を解決しようと提案している。それは「アメリカが謝罪技能を高め、謝罪技能の低い日本に対する模範を示そう」という提案にも読み取れるが、日本を批判しないことで、ひとりよがりの自国礼賛が目立つワシントンポストの論説に比べ、格調高い文章となっている。 ▼日本の外交技能は磨かれるか 私がなるほどと思ったのは、フクヤマ氏が謝罪にまつわる難しさを「心」の問題ではなく「手腕」や「技能」の問題ととらえたことだった。「被害者に謝罪の気持ちが伝わらないのは、謝罪する側の申しわけないという気持ちが足りないからだ」と考えられがちだが、そうではなくて、たとえ気持ちが十分にあっても、伝える技能がなければ謝罪として有効ではないということなのである。「土下座外交」にも、やりがいがあるものと、無駄なものがあるともいえる。 私が感じているところでは、政治家、官僚、企業人、マスコミなど、日本のエリート層を成している人々の大半は、日本による植民地支配と戦争行為を悪いことと考え「アジアに対してきちんと謝罪すべきだ」と考えている。しばらく前に、外務省の上層部の人と話をする機会があったのだが、そのとき驚いたのは、その人が日本の戦争責任について、私よりはるかに強く「きちんと謝罪すべき」と思っていることだった。そういう人々が動かしている国なのに、日本が海外からいつも「謝罪する気がない」と批判されるのは「心」の問題ではなく「政治手腕」の問題だということになる。 最近、若い人を中心に、日本人の間に「もう戦争責任について謝り続けるのはたくさんだ」という気持ちが広がっているように私には思われる。「謝りたくない」というのではなく「いつまで謝ればいいのか」という感情である。これに対してフクヤマ氏は、ドイツでも同様の現象が起きていると指摘する一方で「中国などは、日本に対する謝罪要求を外交の道具として使っており、日本人がうんざりするのは当然といえる」と述べている。しかし同時に、日本政府が外交技能を磨いていれば、こうした状況をある程度防げたことも事実だろう。 日本の戦争責任が別の用途に使われている点では、小林よしのり氏の著作「台湾論」が、従軍慰安婦の事実を歪曲しているとして、台湾で非難されている問題も同様である。台湾では、国民の約1割しかいない大陸出身の「外省人」と呼ばれる人々が、最近まで約50年間、エリート層を独占してきた。その支配が昨年の総統選挙で崩れ、台湾に古くからいた「台湾人」を自称する人々(本省人)の支配力が増している。 台湾のマスコミ各社の経営の大半は、今も外省人が握り、増長する本省人の力を削ろうという意図を持ち続けている。そこに、小林よしのり氏が李登輝前総統ら本省人の親日派長老などの話を聞いて書いた、日本の植民地支配を肯定的に考える「台湾論」が出版されたため、その中の攻撃しやすい点を狙い、外省人系のマスコミと政治勢力が非難キャンペーンを始めたというのが、この問題の本質と思われる。つまり、台湾の政治内紛に、日本の戦争責任問題が利用されているのである。
こうした現状のもとで憂慮すべきは、日本の外交は今も、技能を磨くこととは逆の方向に動いていると思われることだ。たとえば最近、南北朝鮮の和解が進み、どうやら北朝鮮(金正日)は本気で対外開放を行うつもりであることが明らかになっており、南北朝鮮がある種の統一を遂げる可能性が高まっている。こうした時期にこそ、日本は北朝鮮に対する政策を緩和し、南北朝鮮との関係を一気に好転できるかもしれないチャンスであるはずだ。だが日本政府は逆に、拉致問題などを日朝間の障害物として残すことで、北朝鮮との外交関係を緩和させない方針を貫いている。 読者の中には「北朝鮮は人権侵害の独裁国家だから大嫌いだ」という人も多いと思う。しかし、隣国である朝鮮半島の人々と仲直りをしない限り、日本人はいつまでも心のどこかに重荷を感じながら生きていかねばならず、長い目で見るとそちらの方がもっと苦しいのではないだろうか。
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