フィリピンの経済発展が始まった

1997年1月18日

 クーデターや政治腐敗、経済の停滞が長く続いていたフィリピンで、昨年あたりから経済成長が始まっている。経済全体の活況ぶりを示すGDP(国内総生産)の伸びは、1995年の一年間で5.7%から、96年は1−6月分だけで7.1%の成長となった。この成長率はアジアで最も高いものとなった。これまでマイナス成長に近い状態が続いていたことと比べると、大きな変化だ。

 フィリピンは歴史的に、スペインの植民地から米国の支配下へと移っており、その過程が中南米と似ていることもあり、腐敗とクーデター、貧困の組み合わせや背後にある米国の存在、人々の気質などは、アジアより中南米に近いものがあった。今回始まった経済成長は、フィリピンが太平洋の向こう側から、ようやくこっち側に移ってきた、という印象も受ける。(中南米でも経済成長が始まっているので、ことはそう簡単ではないが)

 首都マニラでは、95年ごろから不動産ブームが始まり、街のあちこちでオフィスビルやコンドミニアムの建設が進んでいる。92年まで米軍基地があったマニラ北方のスービック(元軍港)やクラーク(元空軍基地)の跡地には非関税地域が作られ、東南アジアの中でも安いフィリピンの労働力を目当てに進出してきた外資系企業の工場などが並ぶ地域として生まれ変わりつつある。昨年11月にはスービックでAPEC(アジア太平洋経済協力会議)が開かれ、各国の首脳を迎えたラモス大統領は、自国の発展が始まったことを世界に誇示した。

 フィリピンの経済成長が始まったのは、92年に当選したラモス大統領が、外資導入と国営産業の民営化、反政府ゲリラとの和解による治安の安定化策などを進めた結果である。では、なぜ、ラモス氏の時代になって、急に経済成長につながる政策が打ち出されたのだろうか。フィリピンでは1986年にマルコス政権が倒され、独裁と腐敗はなくなったはずなのに、その後5年間続いたアキノ政権の時代に発展できなかったのはなぜか。

 それは、アキノ政権を発足させた86年の2月革命が、20年間続いたマルコス政権を倒すことだけが目的で、軍から社会主義者までの寄り合い政権となったため、一貫した政策を打ち出せなかったからだ。しかも、マルコス政権はフィリピンを帝国主義的に支配し続けたい米国が、その陰で支えていたから長く独裁を続けられた、との見方をする人がアキノ政権の中に多く、その反米の立場の強さゆえ、米国からの支援を受けにくくなっていた。このようにアキノ政権には社会主義思想を持った人々が多く、マルコス時代に国有化された産業体制はそのまま続き、親方日の丸の効率の悪さや賄賂をとる役人は減らず、電力会社の経営状態も悪いため、マニラでは大きな停電が毎日のように起きていた。

 アキノ政権は、中国の資金援助を受けていた共産主義ゲリラ「新人民軍」(NPA)のゲリラを獄中から釈放するなど、人民民主主義的な姿勢をとったため、NPAと戦ってきたフィリピン国軍の中で反発が強まり、クーデターが何回も起こされた。旧マルコス派の残党の軍幹部による蜂起もあり、次期大統領となるラモス将軍ら軍の主流派による鎮圧でアキノ政権は続いたが、任期の5年間に大小7回ものクーデターが起きた。

 また、釈放された共産ゲリラも活動を続け、テロや要人の誘拐を続けた。治安が乱れていたため、日本や欧米名どからの企業投資は結局、フィリピンを避けてタイやマレーシアなどの周辺国に奪われてしまうことになった。国内に仕事がない多くのフィリピン人が、建設作業員やメードとして海外に出稼ぎに行くようになった。「ピープルズ・パワー」とはネーミングこそ美しいが、実際は日本の旧社会党の政権が何もできなかったことにも似た結果となった。

 92年に当選したラモス大統領は、アキノ政権の支持層をそのまま受け継いだものの、「ピープルズ・パワー」のしがらみからは抜けることができた。ラモス氏は当選から半年ほど経った93年には、警察が汚職に手を染めているとして、警察幹部62人を更迭し、この国に長く続いた役人の腐敗体質に対して、毅然とした態度をとることを内外に示した。

 さらに、国営部門の民営化を進め、空港、電話会社なども民営化されることになった。電力会社にも外国資本が導入され、マニラの停電もなくなった。ラモス氏は軍の出身者だけに、クーデターもなくなった。マルコス政権時代からの実現困難な課題だった南部のミンダナオ島のイスラム教徒ゲリラとの和解にも一応、成功した。こうしたことから社会は安定に向かっており、外国企業の進出は95年から増えている。

 ラモス氏が民営化を進めるのは、米国の後押しがあるからとも考えられる。米国は80年代後半から、国家による産業保護をやめて、経済に市場原理を大幅に導入し、ある程度成功をおさめたため、米国の息がかかった海外諸国に対して半ば強制的に政府による規制緩和や市場原理の導入を布教して回っている。日本の民営化や規制緩和もこの流れを受けたものだが、フィリピンでも、反米的な色彩が強かったアキノ政権が終わり、ラモス政権に変わったところで、どつと市場化政策が導入された。

 92−94年ごろは国内の反対が大きく、累積対外債務の返済にも追われていたが、95年から自由化の効果が出るようになった。しかもタイやマレーシアでは、産業が活発になって労働力不足となり、賃金が急上昇し始めたため、企業経営者にとっては生産コスト高になった。そこで、ベトナムなどと並んでフィリピンが新たな企業進出先としてクローズアップされ出したという時期の良さもあった。

 とはいえ、フィリピンはまだ非常に貧しい。フィリピン人の平均年収は10万円程度で、日本やシンガポールの20−30分の一しかない。しかも、投資が増えているといっても、株式や不動産への投資が多く、雇用に結びつかない部分が多い。96年上半期にフィリピンに流れ込んだ投資資金16億ドルのうち、11億ドルが株式市場への投資だった。

 フィリピンでは14世紀から中国系の人々が移住してきており、中国人との混血が進んでいる。統計上では、中国系はフィリピン人の5%未満だが、血の量で測れば、国民全体の30%以上が中国系の血であるといわれる。こうした状態だから、投機的な分野のすばしこさにかけては世界一である東南アジアや香港、台湾などの中国系の人々が、フィリピンの経済発展を見越して金融、不動産市場に殺到してきても不思議ではない。金が金を生む世界は発展してきたが、実質的な成長はまだこれからなのである。

 だがフィリピンには、シンガポールやマレーシアなど、他の東南アジアにはない財産がある。それは言論の自由である。

 たとえば、シンガポールでは反政府的な発言を公の場ですることは非常に危険なことだ。新聞記者もうかつにスクープすると国家機密の漏洩容疑に問われかねない。インターネットも検閲されている。マレーシアやインドネシアでも、マスメディアは自由な報道を許されていない。その点、米国の植民地だったフィリピンは、アジアで最も言論の自由がある。官僚が大手マスコミを飼い慣らしている日本よりも自由だろう。

 92年にマニラを訪れたシンガポールの最高実力者、リー・クァンユー元首相は、フィリピン人へのアドバイスとして「民主主義を発展させる前に、経済発展に向けて努力しなければならない」と大きな口をたたいた。昨年11月、スービック基地でAPECを開いたラモス氏は「民主主義から先にやったって、うまくいくんですよ」と言い返せることを示した。

 そして奇しくも「ざまーみろ」的なことに、シンガポールの経済成長は、昨年後半から、スランプ状態に陥っているのである。(シンガポールの産業の重要な柱である半導体価格の低下が原因とされているが、もっと構造的な原因だとの見方もある)おっと、これ以上書くと、シンガポールでこのホームページを読めなくなるので、気をつけなきゃ。

 


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