優勢になるトランプ2016年9月27日 田中 宇古代ギリシャの教訓話の中に「ハリネズミとキツネ」というのがある。ハリネズミは、最重要な一つのことしか知らない。それは、攻撃されたら丸まってトゲだらけの背中を出すことだ。キツネは知識と経験が豊富で、いろいろなやり方でハリネズミを攻撃するが、結局勝てない。知識と経験が豊富で、慎重さや柔軟性を売りにする(こざかしい)人より、重要な一つのことを貫き通す(頑固な)人の方が良い、という趣旨らしい。97年に死去した英国の哲学者イザイア・バーリンはかつて、この2種類の人間像で芸術家や思想家を分類してみせた。バーリンがまだ生きていたとしたら、今年の米大統領選挙に際し、ヒラリー・クリントンをキツネに、ドナルド・トランプをハリネズミに分類したに違いない、という記事を、9月26日の2人の初めての討論会の前日に、雑誌ニューヨーカーが出している。 (The Presidential Debate Is Clinton's Chance to Outfox Trump) 大統領夫人、上院議員、国務長官と、30年近く米政界の上層部で政策にたずさわってきたクリントンは、行政や外交に関する知識と経験が豊富だ。彼女は、今回の大統領選でそれを大きな売り物にしてきた。26日のトランプとの討論会でも、自分の知識と経験の豊富さを売り込むとともに、トランプに政治家の経験が全くないことを批判した。対照的にトランプは、クリントンがその一人である米政界のエリート政治家たちの失策の繰り返しのせいで、米国がダメになってしまったことを繰り返し主張し、政治家の経験がなく政界のしがらみがない自分の方が斬新な政治ができることを武器にした。 (The first Trump-Clinton presidential debate transcript, annotated) 26日の討論会で、今の米国が経済的、社会的、世界戦略的に、つまり全面的にうまくいっていないことは、2人の候補が共通して認める点だった。その上でクリントンが、この悪い状態をどう改善するかという政策を語るたびに、トランプは、なぜその政策をこれからでなく、これまでにやらなかったのかと批判した。クリントンは国務長官として世界中を飛び回った経験を語ったが、トランプは、それによって米国の世界戦略がこんなに失敗していると逆批判し、クリントンの経験豊富さは、繰り返すべきでない「悪い経験」の豊富さでしかないと言い返した。 (Clinton, Trump Clash Over Race, Experience & Economy in First Debate) 状況が良い時の選挙なら、クリントンのような政権内に長くいた政治家が自分の過去の功績や経験を語ることがプラスになるが、今のように悪い状況の時は、それがマイナスになり、未経験を武器にするトランプにやられてしまう。シリアやリビアなど中東の混乱に拍車をかけたのはオバマ政権で、クリントンが国務長官だった時代だ。「偉そうに言っているが、中東を無茶苦茶にしたのはあんただろ」と論破されてしまう。 (Who Got What They Wanted From The First Clinton-Trump Debate?) クリントンは、300ページにわたる広範で詳細な政策を発表している。だが、政策を短い言葉で言い表すことができていない。クリントン陣営の統一スローガンは、政策を表現するものでなく、クリントンが女性であることに力点をおいた「I'm With Her」になっている。対照的に、昔からテレビ討論番組の常連だったトランプは、自分の主張を短い攻撃的な言い回しで表現するのがうまく、「build a wall」(米墨国境に壁を作って違法移民を阻止し、米国民の雇用を守る)、「keep out Muslims」(テロ対策としてイスラム教徒の入国を制限する)、「get tough on China」(中国の輸出攻勢に厳しく対処する)といった言葉を、演説の中に盛り込んできた。 (A huge moment for Clinton and Trump at first of three debates) (Trump-Clinton Debate Rules Leaked: 90 Minutes Straight, No Step-Stool, & No Coughing Breaks Allowed) クリントンはこれまで、トランプよりはるかに詳細な政策を立案し、文書で発表してきた。クリントン陣営は、トランプの言い回しなどを研究し、側近がトランプ役をつとめるかたちで、26日の討論会にそなえた討論の練習を何回もしてきた。クリントンは、約100分間休みなしの討論会をこなして健康不安説を払拭したが、成功はそこまでで、秀才型の弁護士あがりにふさわしく頑張って作った政策がわかりやすく聴衆に伝わったとは言えず、26日の討論会の勝敗は、私が見るところ、おおむね互角でしかない。(クリントンを勝たせたいマスコミは、クリントンの勝ちと書いているが) (米大統領選挙の異様さ) (Hillary Clinton takes round one) (Post-Debate Flash Poll Shows Hillary Clinton Won Slightly; Trump Gains 'Plausibility') クリントンの場合、トランプとの討論が互角でしかないのはまずい。クリントンの売りは、キツネ的な知識と経験、政策立案の上質さだ。経済、社会(人種対立)、外交安保など、分野ごとの討論会で、トランプの無策や無知、粗野、偏見性などを十分に引き出せればクリントンの勝ちだった。討論が互角なら、これまで何十年も政策立案の業界にいて今の米国の悪い状況を作ったクリントンより、政界の常識を打ち破って出てきたトランプにやらせた方がいいという話になる。互角の討論結果は、クリントンの現職性によるマイナスを差し引くと、トランプの優勢につながる。 (Clinton vs. Trump: Score their debate as a cliffhanger) (Who Won the First Clinton-Trump Debate?) ▼経済でエスタブに迎合しつつ安保で軍産敵視を続ける クリントン陣営やマスコミは、トランプに「ウソつき」「差別主義者」のレッテルを貼っている。討論会では司会者がクリントン側につき、以前にトランプが批判的に報じられた問題を問いただす場面がいくつかあった。トランプは、03年当時イラク侵攻を支持していたことを指摘されると「支持していない」と言い続け「記録(報道)では支持したことになっている」と言う司会者と論争になり、トランプは言ったことを言ってないことにしようとするウソつきだというレッテル貼りに貢献した。 (Trump criticizes NATO, says he didn't support Iraq War) (Something Odd Emerges When Fact Checking The "Fact Checkers") トランプがオバマが米国生まれでないとずっと決めつけ発言をし続け、最近突然撤回したことも司会者が問題にした。また司会者は、トランプが「クリントンはルックスが大統領にふさわしくない」と発言したことも取り上げ、トランプは「ルックスでなくスタミナを問題にしたんだ」と話をクリントンの健康問題にすり替え(転換し)、クリントンはトランプがいかに女性差別主義者であるかを、女性権利運動家とそれを嫌う中年男のよくある喧嘩みたいな感じで語り出した。 (Trump: Clinton has experience, "but it's bad experience") これらは、トランプの人間性の「悪さ」(政治論争番組の常連としての無責任発言性)を表出させることに成功したが、この程度のことは米国民ならみんな知っており、投票時のクリントンの優勢に結びつかない。むしろ、トランプがクリントンのメール問題を通り一遍しか批判せず、クリントン基金のあこぎな献金集めには一言も触れなかった点が注目される。トランプは、クリントン陣営による巨額の金をかけたトランプや家族を中傷するテレビ広告が倫理的にひどすぎると苦情も言った。トランプは、中傷合戦をやらないことで、クリントン側の中傷戦略の悪さを聴衆に印象づける戦略と考えられる。これは、新たなトランプの選挙参謀になったケリーアン・コンウェイ(Kellyanne Conway)による策だろう。 (US presidential debate hinges on an unpredictable Trump) ハリネズミとキツネの比喩で、クリントンはキツネ像に合致している。トランプは、以前なら、エリート支配体制、軍産複合体、政治的な正しさへの縛りなどの「エスタブリッシュメント」の世界を壊して米国を建て直す政治運動で、草の根の支持を集めて当選することをめざすハリネズミだった。だが最近のトランプ陣営は、選挙戦での経験値を積み、コンウェイ選挙参謀らの新策によって、反エスタブを隠すとともに(表向き)共和党の統一候補っぽい感じを付加し、キツネに近くなっている。 (Donald Trump will be next US president) 以前のトランプは、マスコミが歪曲報道を続けるいくつかの分野について、歪曲を指摘する発言をしていたが、それらの多くについて、今回の討論会で、彼自身がクリントンの指摘に対し「そんなことは言ってない」と、発言をなかったことにしている。地球温暖化人為説がインチキであるということ、ロシアのプーチン大統領をほめたことなどを否定した。マスコミにたたかれる発言をしない方が、マスコミの歪曲報道に頭に来ている有権者を獲得するよりも重要だ(得票数が増える)と考えたのだろう。 (Trump's Big Debate Lie on Global Warming) トランプは経済分野に関し、今回の討論会で、レーガノミクスの再来を打ち出した。規制緩和と、法人と金持ちへの減税によって経済成長を生み出すのだという。この政策は80年代のレーガン政権から実施され、すでに失敗が確定している。クリントンは「でっちあげの(trumped-up)トリックルダウン」と、的確な指摘をしたが、レーガノミクスを持ちだしたことで、トランプは共和党主流派からの支持を集められるようになった。規制重視・増税の民主党と規制緩和・減税の共和党という、エスタブ政治の伝統的な経済論争のかたちになり、討論会の勝敗を互角に近づけた。 (Donald Trump said he’d be a job creator like ‘Ronald Reagan.’ Workers may not actually want that.) (Clinton: Trump's tax plan is ‘trumped-up trickle-down') (得体が知れないトランプ) トランプは、経済分野でエスタブ政治に迎合した。トランプが大統領になっても、米国の中産階級の貧困転落、貧富格差の拡大は変わらないことになる。だが同時にトランプは討論会で、以前からの主張である、米連銀の金利政策が政治的で危険であり、次期政権下で(長期)金利が上昇しそうなこと、株式市場の巨大で醜悪なバブルがひどくなっていて金利が上がるとバブル崩壊することを、あらためて指摘している。長期金利の上昇とは、債券金融システムの再崩壊(リーマン危機の再来)のことだ。株と債券が崩壊するなら、実体経済に対してどんな政策を打とうが悪化を防げない。 (Donald Trump Attacks Federal Reserve, Yellen During Debate) ('We are in a bubble': Trump says the economy is unstable) 次期政権で重要なのは、経済政策よりも、軍事安保政策だ。トランプは討論会で、プーチンを称賛してないと強弁しつつも、クリントン(やエスタブ全体)がロシアばかり敵視していることを批判し、NATOが存続するならロシア敵視のためでなく、中東に行って関係国(イラン?、ロシア?)と協力しつつISとの戦いを展開すべきだと主張した。ロシア敵視は、軍産複合体の生き残り戦略であり、それをやめさせようとするトランプは、軍産と敵対する姿勢を崩していない。 (In the debate, Trump shifts on NATO, to the relief of Europe) トランプは、日本、韓国、サウジアラビア、ドイツといった同盟諸国を名指しし、米国に安全を守ってもらっているのに対価を十分に払っていないとの批判を繰り返した。この発言も、トランプが米国政治の軍産支配を壊す宣戦布告であると受け取れる。これに対してクリントンは、わざわざ日本の国名を出して、日本などの同盟国を条約どおり守ると発言した。トランプは「金を出さない日本にそんなことしてやるのはおかしい」と反論した。 (The debate showed just how scary a Commander in Chief Donald Trump would be) (In first debate, Clinton rips Trump over Japan comments, reassures nervous Asian allies) 米国(や日本)のマスコミは軍産の一部だ。軍産に楯突く限り、トランプはマスコミから好意的に報じてもらえないし、世論調査の結果はトランプに不利に出る。しかし、不利に出ているのに、しだいの多くの世論調査が、トランプの若干の優勢もしくはクリントンとの接戦を伝えるようになっている。世論調査がクリントンに加勢する方向で歪曲されていることを勘案すると、世論調査上の接戦は、実際のトランプの優勢を示している。 (Trump, Clinton Deadlocked in Bloomberg Poll Before Key Debate) (Trump 44%, Clinton 39%, Johnson 8%, Stein 2%) (Trump Leads Clinton in a New General Election Poll. You Still Don’t Have to Worry.) (Troops prefer Trump and even Johnson over Clinton: New poll) (Q-Poll Finds Clinton and Trump in Dead Heat) また、トランプの支持者は熱狂的で投票率が異様に高いが、クリントンの支持者には「世論調査だとクリントン支持(トランプ嫌い)だが、当日実際に投票場に行くかどうかわからない」という弱い支持の人がかなりいる。これは、クリントン支持のマイケル・ムーアが以前に指摘したことだ。この点も、世論調査で接戦だと実際の投票時はトランプの勝ちになってしまう要素だ。 (米大統領選と濡れ衣戦争) 私の以前の予測は、投票1か月前の10月前半までにクリントンの優勢が減って接戦になっていると、その後、投票1-2週間前の10月半ばから後半にかけて、マスコミが歪曲を修正する(さもないと誤報になるので)傾向が強まり、トランプの優勢が表面化していく、というものだった。9月末の今、クリントンの優勢が減って接戦が伝えられる傾向が高まっている。討論会の練習を何度もやったと討論会で自ら認めたクリントンは、こつこつ努力の秀才型で、即興的な方向転換や、予定外の奇策を突然始めることが不得意だ。今後短期間にクリントンが意外な策を始めて支持を急に増やす可能性は低い。AP通信もそのように分析し、クリントンの苦闘を報じている。オバマは最近、接戦になって困っていると認める発言を発している。トランプが次期大統領になる確率が増している。 (As Trump rises, Clinton struggles with traditional playbook) (Obama: Election 'shouldn't be close, but it's close') ▼負けそうなクリントンだけに会った安倍の愚策 トランプが次期大統領になると、日本や韓国、サウジなど同盟諸国に対する要求が厳しくなる。ロシア敵視も目に見えて低下する。NATOの有名無実化が進み、EUは独仏主導の軍事統合を加速し、対米自立・対露和解していく。ロシアへの敵視を解いて、中国への敵視(軍事面)だけ残すとは考えられないので、南シナ海を理由にした中国包囲網策も雲散霧消しそうだ。フィリピンのドゥテルテや、英国のメイ政権には先見の明がある。 (ロシアと和解する英国) (逆効果になる南シナ海裁定) トランプは討論会で、北朝鮮問題の解決は中国の責任だとあらためて明言している。中国は、北に一応の核開発中止(3つのノー)をさせて、見返りに南北和解、米朝和解、朝鮮戦争終結、在韓米軍撤退を米韓側に認めさせるシナリオだ。朝鮮半島全体を非核化するなら自国の核も廃棄すると言っている北も、その線で了承するだろう。在韓米軍を撤退させたいトランプは、中国主導でこの策が進むことに賛成だろう。米中の協調で朝鮮半島の緊張が緩和されると、在日米軍の駐留理由も失われる。 (Did Trump really suggest that China should invade North Korea?) (北朝鮮に核保有を許す米中) 米大統領選の趨勢は、歪曲好きなマスコミ的にさえ、クリントン優勢から接戦へと移行する傾向が9月に入って続いている。国連総会出席のため訪米したイスラエルのネタニヤフ首相は9月25日に、トランプとクリントンの両方に順番に会っている。接戦なので両方に会うのが得策だ。しかし、同じく国連総会出席のため訪米した日本の安倍首相は9月19日、接戦の中でしだいに不利になっているクリントンだけに会い、トランプには会わずに帰ってきた。 (Israeli Prime Minister Benjamin Netanyahu Meets With Clinton, Trump) (Abe, Clinton Express Commitment to Strengthening Japan-US 'Alliance of Hope') 日本外務省は、もともと安倍と親しいクリントンから要請されたので会っただけで、トランプに会うつもりはなかったと説明しているようで、クリントンは、自分だけに会ってトランプに会わなかった安倍の「忠誠心」に報いる意味で、1億人の米国民が見守る26日の討論会でわざわざ日本の国名を挙げて「日本などの同盟国を守る」と明言したのだろう。クリントンの勝算が高まっているのなら、こうした賭けもあり得る(外交的には良くない)が、今のようにクリントンの勝算が低下している中で、負けそうなクリントンにだけ会い、勝ち目が高まるトランプに会わずに帰るのは、まったくの愚策だ。 (Japan PM stresses importance of TPP trade pact in Clinton meeting) トランプが勝った場合、今回の日本の動きは大きなマイナスになる。トランプは、ますます日本に批判的になる。各国がトランプに媚を売り出す中で、日本が対米関係を挽回するのは難しくなる。安倍は、クリントンに会うならトランプにも会うべきだった。安倍は政治家なので、そうしたバランス感覚が少しはあるはずだが、おそらく日本外務省がクリントン圧勝しかありえないのでトランプに会う必要などないと歪曲情報を安倍に吹き込んだのだろう。外務省のせいで、わが国はまたもや無条件降伏だ。
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