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薄熙来の失脚と中国の権力構造

2012年3月26日   田中 宇

 3月15日、中国で全人代(国会)が閉幕した翌日、中国共産党が、重慶市の党書記をしていた薄熙来の解任を発表した。ことし中国は10年に一度の権力中枢の世代交代の時期にあたる。薄熙来は、共産党中央政治局員(25人)の一人で、今秋の共産党大会で、政治局のさらに上、中国の権力最上層部に位置する中央政治局常務委員(9人)に任命されると、失脚するまで予測されていた。

 解任の表向きの理由は、薄熙来が重慶で手がけていた経済犯罪の取り締まり政策の中で、無実の財界人が犯罪者扱いされて拷問された疑いが強まるなど、度を超えたやり方が問題視されたからだ。薄熙来の側近として経済犯罪の取り締まりを担当していた重慶市警察幹部の王立軍が、薄から「とかげのしっぽ切り」をされて逮捕されたり暗殺されるのを恐れ、成都の米国領事館に駆け込んで亡命を試みる事件が2月に起こり、それ以降、中国内外の分析者らの間で、薄熙来の政治生命が危ぶまれていた。 (Chinese infighting: Secrets of a succession war

 もう少しうがった見方として、薄熙来の失脚は、政治局常務委員会など中共中枢の2大派閥である共青団(共産党青年団)派と上海派(太子党)との権力闘争の表れだというのがある。今年まで中国の最高権力者である胡錦涛は、共青団の出身だ。その下で首相をしている温家宝は、共青団出身でないものの、共青団派の親分である胡耀邦につかえ、胡耀邦を深く信奉していた。胡錦涛も、胡耀邦に育てられた。

 半面、薄熙来は、父親が中国革命に参加して中共成立後に副総理などを歴任した薄一波であり、太子党(二世政治家)である。胡耀邦の死去を悼む市民運動から始まった89年の天安門事件で、薄一波は反政府的な市民運動を武力で鎮圧することを主張し、当時の最高指導者だったトウ小平の支持を得た。天安門事件後、武力鎮圧に反対した趙紫陽や胡耀邦系の人々は外され、代わりにトウ小平は江沢民ら上海派を出世させ、薄一波ら保守派も権力の座に残った。上海派は、二世政治家たちを取り込んで権力を維持した。江沢民は天安門事件で薄一波に恩義があり、薄熙来は江沢民のもとで出世した。

 その後、共青団系の勢力がしだいに復権し、今の政治局常務委員会(9人)は、共青団系が3人、上海派が3人、その他の勢力が3人というバランスの上に立っている。この権力システムを作ったトウ小平は生前、自分の次の10年間の権力者として上海派の江沢民を任命し、その次の10年間の権力者として共青団系の胡錦涛を指名した。中国の権力中枢における、上海派と共青団派の絶妙な均衡状態をシステム化したのはトウ小平だった。胡錦涛は、共青団出身の李克強に、自分の次の最高権力者を継がせたかったが、上海派などから反対され、結局、来年からの次の権力者は、上海派で太子党の習近平になった。習近平は元上海市党書記で、父が元副総理の習仲勲だ。 (Hu draws blood in Wang Lijun scandal

 今回、薄熙来の失脚が発表される前日、全人代の終了日に記者会見した温家宝は「文化大革命を再来させようとしている者がいる」と表明し、重慶で毛沢東時代の革命歌を歌うキャンペーン(唱紅)など文革の再来を思わせる政策を展開してきた薄熙来を批判する発言を放った。温家宝は同時に、政治改革の必要を強調し、天安門事件に対する再評価の必要性を示唆した。温家宝は以前から、天安門事件の再評価を求め、昨年4月の胡耀邦の命日には、胡耀邦を絶賛する論文を人民日報に載せている。 (劉暁波ノーベル授賞と中国政治改革のゆくえ

 天安門事件の時、胡耀邦や趙紫陽といった温家宝や共青団系の勢力の恩師にあたる人々が失脚し、代わりに上海派や太子党の台頭を招いたことを考えると、温家宝の天安門再評価の提案は、上海派に対する挑戦状であると読み解ける。温家宝は、これまで何度か政治局の会議で天安門再評価を提案したが、薄熙来は提案に強く反対していたという。 (Wen lays ground for Tiananmen healing

▼カリスマを廃して政治を安定させたトウ小平

 今回の薄熙来失脚をめぐるもう一つの読みは、薄熙来が文革の再来を思わせる大衆動員型の政治キャンペーン(唱紅など)を重慶で展開し、文革後の毛沢東派の失脚以来、中共中央で禁止されていた大衆動員型の政治を、薄熙来が強めそうだったため、失脚させられたというものだ。この見方は、すでに述べた共青団と上海派との対立構造よりも一つ上の層に位置する。

 1966年から76年までの文化大革命は、中国で独裁的な権力を保持した毛沢東が、大衆を動員して社会秩序を破壊する政治運動を急拡大させ、経済成長を優先する党中枢の多数派を排除するとともに、伝統に根ざした中国人の精神構造を破壊することで、社会を刷新(リセット)できると考えて引き起こした。だが結局は、混乱を招いただけで、経済が破壊されて人々は貧しくなり、国力も大幅低下して失敗した。

 76年の毛沢東死去後、復権して最高指導者になったトウ小平は、中共の国是を経済成長優先(改革開放)に切り替え、米中国交を正常化して米国から経済技能の支援を受けるとともに、党中枢での一人独裁を防止するために、党中央で集団指導体制を定着させた。中共の国家的な意志決定は、中央政治局、特に常務委員会の合議によって全会一致か多数決で行われ、政治局内の勢力であっても、大衆を動員して政治力を強めて政治局内の意志決定をくつがえそうとすることが禁じられた。温家宝は、薄熙来失脚前日の3月14日の記者会見で「毛沢東派は、権力を得るために人々の人気を獲得する画策をしませんと、81年に約束した(それ以来、大衆動員による政治力の獲得は禁じられている)」と、繰り返し述べている。 (The Fall of Bo Xilai

 政治家が大衆を扇動して人気を獲得し、自らの政治力を強めるポピュリズムの手法は、西側民主主義諸国で良く行われている民主主義の基本である。だが中国では、毛沢東が大衆を扇動して中共中央を破壊しにかかり、秩序全体を破壊した教訓から、トウ小平によって民主主義が棚上げされ、代わりに、中央政治局内の集団指導体制が敷かれた。文革の破壊策が成功した理由が、毛沢東のカリスマ性が強かった結果なのか、中国人が扇動されやすい人々であるからなのか、どちらなのか不明だが、文革後の中国では、政治家に大衆扇動(民主主義)を許すと危険だという判断になった。 (The threat to the post-Mao consensus

 トウ小平は最高指導者の後継者として江沢民、胡錦涛を選んで死去したが、この2人、特に胡錦涛は、堅物すぎて大衆を熱狂させるカリスマ性に欠けている。トウ小平がなぜ胡錦涛を選んだのか、私は疑問に感じていたが、もしトウ小平が、毛沢東の大衆扇動の再来を恐れ、有能だがカリスマ性が薄い政治家が集団体制の頂点に立つ指導者としてふさわしいと思っていたとしたら、堅物すぎる胡錦涛こそ、後継者にふさわしい。加えてトウ小平は、中央政治局内で共青団と上海派とがバランスをとるシステムを導入し、一人独裁も一派独裁も排除し、カリスマ性の薄い党幹部たちが対立しつつも談合していかざるを得ないようにした。文革後、中国の政治は以前より変動の少ない、退屈なものになったが、これはトウ小平の作戦が成功した結果だった。 (What the rise and fall of Bo Xilai tells us about China's future

▼薄熙来を放置していたら中国政治が不安定化?

 このような中共政治史をふまえると、薄熙来が失脚させられた理由が見えてくる。薄熙来は、重慶市の党書記だった時代も、その前に大連市や遼寧省の市長や党書記だった時代にも、役所内の汚職摘発、貧困対策、出稼ぎ労働者に対する社会保障の新設など、市民が喜ぶ政策を積極的に展開し続けてきた。大連では今でも「薄熙来が市長の時代は良かった」と回顧する市民がいるという。 (Bo's downfall triggers Chinese outpouring

 今の中共中央は、共産党独裁に反対する人々を容赦なく弾圧する半面、公害や貧富格差の増大、地方幹部の汚職など、人々が生活上で持つ不満に対しては、できる限り対処しようとしている。人々の不満増大を放置すると、政治が不安定になって現体制が崩れるからだ。薄熙来の路線は、国民の不満をできるだけ解消したい国策に合致しており、中央から評価された。

 だが、地元の市民から熱烈な支持を受けるほど、薄熙来は、党中央から、大衆扇動型の指導者でないかと懸念される傾向が強まった。薄熙来と対立する共青団系の胡錦涛や温家宝は、薄熙来が重慶市に移った08年以来、一度も重慶を訪問しなかった。薄熙来は重慶で、愛国精神発揚の一環として、毛沢東時代の革命歌を市民に歌わせるコンテストを行った。これが全国的に注目され、北京など他の大都市にも同様の運動が拡大していく流れになった。

 同時に薄熙来は、上海派などの重鎮に取り入って、ヒラの政治局員から政治局常務委員に昇格するための活動を中枢で展開した。これらは、大衆扇動型の政治家の再来を禁じる党中枢の不文律に抵触するとみなされるようになり、昨秋以来の重慶市の経済犯罪撲滅運動のスキャンダル化を機に、共青団系だけでなく上海派も薄熙来排除をやむなしと考えるようになり、今回の失脚につながった。

 薄熙来は、政治局常務委員になっていたら、大衆動員の政治力を使って、来年から最高権力者になる習近平の政策に影響を及ぼしていただろう。習近平は、胡錦涛・温家宝が自分の権力就任前に薄熙来を排除するのに大賛成したはずだ。薄熙来の動きを放置すると、薄熙来を真似て大衆扇動で政治力を獲得しようとする党幹部が他にも現れ、トウ小平が作った集団指導体制が崩れ、中国の政治が不安定化していたかもしれない。

▼経済でも重慶モデルの終わり

 経済政策の面でも、薄熙来は特記すべき存在だった。薄熙来は重慶において、役所や国有企業が経済の方向性を決める傾向を重視する「重慶モデル」を推進していた。重慶モデルと対照的なのが「広東モデル」で、これは私企業や市場が経済の方向性を決める傾向を重視している。これまで広東モデルを推進してきたのは、広東省の党書記で共青団系の汪洋だった。薄熙来の失脚で重慶モデルに対する重視も終わり、今後の中国政府は、私企業の自由な活動を容認するリベラル型経済運営の傾向を強めると予測されている。 (Bo Xilai's ouster seen as victory for Chinese reformers

 薄熙来が失脚した直後、中国のネット上で、上海派が薄熙来の失脚に対して怒ってクーデターをしそうだ、北京市内に戦車が配備された、という情報が飛び交い、中国国債の相場(CDS価格)が短期的に下落した。米国のタカ派新聞WSJは「クーデターの噂が流れて国債相場が下落することなど(民主主義の)米英では考えられない。中国の政治制度は、有能な指導者を輩出するかもしれないが不安定で、共産党は安定が最重要だと常に言い続けねばならない。これが中国の弱さだ」と書いた。 (China's Coup Jitters

 確かにそうだが、それは、35年前の76年にトウ小平が作った今の中国の一党独裁で集団指導制の政治システムが、100年以上前に作られた米英の「二党独裁(二大政党制)」のように時間をかけて巧妙に作られておらず、まだ粗野で未熟だということを示しているにすぎない(近年の米国のクーデターは、911テロ事件のような形で行われる)。

 温家宝は、薄熙来失脚前日の発言で、政治の改革(体制改革)を提唱したが、これは欧米型民主主義への転換を意味しない。逆に、トウ小平が作った集団指導制をより洗練された形にしていくという意味だろう。カリスマ欠如体制の中で好印象の「好好爺」の役をつとめる温家宝よりも、大衆扇動で権力を得ようとして排除された薄熙来の方が、はるかに「民主主義」を実践している。

 上海派の習近平も薄熙来排除に賛成したと推測される以上、薄熙来の失脚が中国中枢での新たな権力闘争の激化につながるとは考えにくい。中国の権力体制は崩壊せず、持続するだろう。少し前まで、中国の権力体制が崩壊した方が、日米など自由主義諸国にとって好都合だという考え方が全般に強かったが、世界の政治経済における中国の影響力が今のように強くなってくると、中国が政治崩壊したら世界的に大きな悪影響をもたらす。薄熙来の失脚は、少なくとも経済面で、日米にとっても良かったということになる。



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