イラン外相電撃解任を考える2010年12月18日 田中 宇12月13日、イランのアハマディネジャド大統領が、モッタキ外相を突然に解任した。モッタキは、欧米との核問題の協議を終えた後、アフリカのセネガルを訪問している最中に解任された。タイミング的に見て、大統領が外相本人に更迭を伝えてから発表されたのではなく、本人も知らないうちに解任されていた感じだ。解任の理由は発表されていない。 (Iran FM Mottaki Sacked During Senegal Visit) モッタキは、アハマディネジャドが大統領になって以来、5年も外相を続けていた。だが、もともとモッタキの外相就任は、アハマディネジャドの意志ではなく、その上司にあたるハメネイ最高指導者が決めたことだった。05年のイラン大統領選挙で、アハマディネジャドとラリジャニが戦ったが、モッタキはラリジャニ陣営の最高顧問だった。イラン政界の分裂を防ぐため、ハメネイは選挙後、政府のいくつかの主要ポストをラリジャニ陣営に割り振った。モッタキは外相に、ラリジャニは国家安全保障委員長になった。 (Tehran staggers and Mottaki falls) ラリジャニとアハマディネジャドは、米欧からかけられた核兵器開発の濡れ衣にどう対応するかをめぐって対立し、ラリジャニは07年に安保委員長を解任されたが、ハメネイのとりなしでラリジャニは国会議長に返り咲いた。 アハマディネジャドはモッタキの権力を削ぐこともやった。今年夏、アハマディネジャドは、モッタキ率いる外務省を迂回するため、側近4人を外交特使に任命し、外務省と関係なくアジアや中東諸国、ロシアなどに対する外交をやらせた。イランは近年、覇権の多極化に対応する形で、中国やロシア、中南米、中東アフリカ諸国などとの関係密接化に力を入れているが、アハマディネジャドはその部分を外務省の担当から外し、自分の側近に担当させていた。 (Iran Atomic Chief to Take Over Foreign Ministry as Mottaki Is Forced Out) モッタキの後任外相は、イランの原子力委員会の委員長をしているアリ・アクバル・サレヒになった。サレヒはMITなどで原子力工学を学んだ核学者で、イスラム主義の影響をあまり受けていないとされるが、アハマディネジャドの側近の一人だ。そのためか、彼は国連制裁の対象人物で、欧米などを自由に旅行することを制限されている。モッタキは欧米から一応の敬意を受けていたが、サレヒは敵視されるかもしれない。今年6月、トルコとブラジルが核問題でイランと欧米の間を仲裁した時、サレヒはイラン側の交渉担当責任者だった。 (Mottaki's exit) アハマディネジャドが、外相をモッタキからサレヒに代えることができたのは、イランの権力中枢で、アハマディネジャドがハメネイに服従しなくても良い力を持ってきたからとも考えられる。イラン中枢は全く不透明なので、確定的なことは言えない。イランでは2013年に大統領選挙がある。アハマディネジャドは親戚で副大統領のエスファンディアル・マシャイエを次期大統領に据えたいと考えて、モッタキなど邪魔な人々を消す作業に入ったという分析も、欧米で出ている。マシャイエは、アハマディネジャドがモッタキつぶしのために任命した4人の特使の一人だった。 (Tehran staggers and Mottaki falls) 二極モデルで考えると、モッタキやラリジャニが米英覇権と何らかの和解をしてイランを発展させようとした。半面、アハマディネジャドは、欧米との敵対をことさら激化させることで、過激化するイスラム世界や、反米化する途上諸国、米国に愛想を尽かす新興諸国などとの関係を強化し、米英覇権崩壊と多極化の波に乗ってイランを発展させようとした。結果は、アハマディネジャドの方が優勢で、それがモッタキの解任につながったとも考えられる。
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