代替わり劇を使って国策を転換する北朝鮮2010年7月8日 田中 宇北朝鮮の権力中枢で、最高権力者(国防委員長)金正日の義弟(妹の夫)である張成沢(チャン・ソンテク)が急速に台頭している。金正日信頼している人物の一人に妹の金敬姫(金慶喜、キム・ギョンヒ)がいる。張成沢は、金日成総合大学の経済学部に在学中に金敬姫の同級生だった縁で金敬姫と結婚し、義兄となった金正日の側近となったが、2004年から06年まで失脚していた。 しかしその後、06年に金正日のとりなしで復権し、08年9月には朝鮮労働党の最重要ポストの一つである行政部長に就き、検察、警察、裁判所の権限を握った。同時に、張成沢の数十人の側近も要職に復活した。09年4月には、張成沢は、北朝鮮の最高権力組織である国防委員会の委員に任命され、1年後の今年6月には副委員長に昇進した。国防委員会の副委員長は4人いるが、張成沢以外は高齢の将軍たちで、経済など実務の国家運営を担当できるのは張成沢だけだ。金正日は張成沢を自分に次ぐナンバー2の地位に就けたとみられている。 日韓などでは、張成沢は、金正日の後継者となる予定の金正銀(キム・ジョンウン。25歳)の摂政であり、正銀に政治手腕がついた時点で権力を譲る予定だとの見方が日韓マスコミで主流だ(金正銀の名前は、ハングルのみで漢字が発表されておらず「正恩」かもしれないといわれる。以前は「正雲」と思われていた)。 金正日には、金正男(37歳)、金正哲(27歳)、金正銀という3人の息子がいる(ほかに初婚の妻との間に娘がいる)。正男の母は成恵琳(金正日の略奪婚の相手、金日成に結婚を許されず愛人のままとの説も)、正哲と正銀の母は高英姫(金正日が再婚した妻)である(金正日は、今は金玉【キム・オク】という女性と2回目の再婚をしているとされる。正銀は金玉の子供だという説もある)。 北朝鮮は1970-80年代に、金日成から金正日へ最高権力者の父子世襲をしたので、金正日も3人の息子のうちの誰かに最高権力を世襲すると、日韓などでは推測されている。以前は長男の金正男が後継者とされていたが、正男が01年に偽旅券で日本に入国しようとして捕まった後、後継者ではないとみられる傾向が強まり、その後次男の正哲が後継者になるとの説が出たが、最近では三男の正銀だという説が主流になっている。 ▼張成沢は金正銀の摂政ではない? しかし張成沢が金正銀の後見人ないし摂政役だというのは、従来の流れからすると矛盾している。張成沢は以前、金正銀ではなく金正男の後見人とされていたからだ。金正銀の後見人は、張成沢のライバルの李済剛(イ・ジェガン。労働党組織指導部第1副部長)だった。 (金正日は、権力の所在をわかりにくくする権力維持策、もしくは側近政治の結果として、北朝鮮の党や政府の組織で、大臣にあたる部長より、副部長や次官、副官などの方が権力を持つ制度を作っている。外交の最高責任者は、朴宜春外相ではなく姜錫柱外務次官だし、金永春国防大臣より諜報担当の呉克烈大将の方が軍の権力を持っている)。 (大臣よりも次官が偉い北朝鮮) 李済剛は、04年に張成沢を失脚させる運動を推進した人物とされ、失脚前に張成沢が就いていた組織指導部第1副部長を継承したが、張成沢の復権とともに追い込まれ、張成沢を国防副委員長に昇格させる最高人民会議(国会)が開かれる5日前の6月2日、交通事故で死亡した。北朝鮮では建国以来、多くの高官が権力闘争の挙げ句、交通量がほとんどない道路を官用車で走行中に「交通事故」で死んでいる。おそらく李済剛は殺されたのだろう。張成沢も06年に交通事故にあっている。 (金容淳・呉振宇・高英姫の交通事故と金正日の秘密パーティー) (North Korea: Drastic dynastics) 張成沢が金正銀の摂政と思えない理由はまだある。張成沢がこれだけ権力を持ってしまうと、金正日の死後、金正銀に権力を渡さず、張成沢自身が独裁者になる恐れが大きい。金正日が、自分の死が近いと考えて、息子が権力者になれるまでの暫定として摂政を立てようと考えたのなら、摂政は一人ではなく数人に権力を分散し、摂政どうしが競う仕掛けを作るはずだ。 金日成が金正日に権力を継承した際、1970年代に10年かけて朝鮮労働党内で金正日が隠密に権力を拡大するよう活動させ、80年の党大会で金正日が後継者として突然登場し、その時すでに金正日が党内の権力をかなり握っているという手法をとった。これは、中国やソ連など主要国の共産党が世襲を禁じていたため、金日成が事前に権力世襲を発表すると、党内や中ソから反対され実現できないおそれがあったからだと思われる。 この故事から、すでに金正銀が労働党内で隠密に権力を拡大する活動をしており、今年9月に開かれることが決まった党代表者会議、もしくはその後開く党大会で、まだ顔も知られていない金正銀が後継者として登場し、張成沢はうやうやしく金正銀にかしづくだろう、という予測が出ている。 しかし、金日成から金正日への継承時には、まだ共産主義(社会主義)の理想を求める人々が北朝鮮内部や、北を支援していた中国ソ連におり、だから金親子はクーデター的な父子世襲のやり方をしたのだが、今や北朝鮮内部は世襲を嫌う社会主義ではなく、逆に父子世襲を大歓迎する金日成主義(主体思想)が浸透している。ロシアは社会主義をやめたし、中国も社会主義は形式だけだ。金正日が息子に世襲したいなら、堂々と発表して実行できる状況にある。むしろ、金正日が後継者を決めないので、側近らが個別に3人の息子たちのいずれかを担ぎ出し、跡目争いをしている。 9月に朝鮮労働党の代表者会議が開かれれば、金正日が何をしたいのかわかってくるかもしれないが、今のところ、私の分析では、金正日は息子ではなく、張成沢自身を後継者にしようとしている感じがする。 ▼先軍政治から中国式への転換 私の分析では、金正日が張成沢に権力を与えた背景に「中国」がいる。冷戦後、北朝鮮経済が崩壊して党内や軍、国民の反乱が懸念される中で、金正日は一族の権力を守るため、軍を最も優遇し、軍人に権力を分配する「先軍政治」を展開した。軍人や軍事が優先され、経済発展や経済専門官は軽視された。軍の最高機関である国防委員会は、朝鮮労働党の傘下から外されて独立し、金正日は国防委員長の肩書きで最高権力者となった。軍は党より上位になった。党の行政専門官の意見は軽視された。この20年、何度か経済改革や外資導入が試みられたが、先軍体制に阻まれて成功しなかった。 先軍政治体制下の北朝鮮の国際戦略は、一方で核兵器開発などの強硬姿勢を貫き、他方で米国や韓国と交渉して譲歩と援助を引き出し、米韓日からの援助資金や、世界への武器販売などで北朝鮮経済を回していこうとするものだった。北朝鮮は、米国の先兵として中国と対峙すると米国に持ち掛け、米中対立を利用して、韓国をさしおいて米国と友好関係を回復する構想まで持っていた。 しかし、08年秋のリーマンショック後、米国の経済覇権が弱り出し、中国が経済台頭して米中逆転が進んだ。09年に就任したオバマ大統領も、期待に反して北朝鮮と交渉してくれなかった。北朝鮮は米国の仲間にしてもらう戦略をあきらめ、経済台頭する中国の傘下につく傾向を強めた。金正日は、冊封の家臣よろしく旧正月に平壌の中国大使館を訪問したりした。中国は、北朝鮮に、中国と同じ改革開放経済体制と、父子世襲ではなく集団指導体制による一党独裁制度をとり、政治を安定させて経済発展するよう勧めていると考えられる。 金正日は90年代まで、中国の改革開放政策を「修正主義」とののしっていたが、00年に訪中したときには中国の改革開放に学ぶ姿勢をとった。それ以来北朝鮮は、先軍政治に基づく軍事強硬策で米韓と交渉する戦略と、中国型の改革開放を真似る戦略の間を、行ったり来たりしながら、しだいに中国型をとる傾向を強めてきた。この流れの中で、もともと妻の金敬姫とともに経済学部を卒業した経済専門家である張成沢は、中国式の改革開放策を進める中心人物として機能してきた。 張成沢は、04年春に失脚する半年前の03年夏、米国のキッシンジャー元国務長官らが立案して韓国政府に提案した、北朝鮮の政権を穏健な権力者と交代させる構想の中で、金正日後の北朝鮮権力者にふさわしい人物として出てくる。構想が出てきた03年夏は、米国が中国をけしかけて6カ国協議を主催させ、そこに北朝鮮が出ていく時期である。 (米国の北「リーダーシップ・チェンジ」シナリオ) キッシンジャーは、1972年のニクソン訪中を企画して以来40年かけて、中国を、東アジアの覇権国、経済大国へと発展する方向に誘導したロックフェラー系の「隠れ多極主義者」だ。そして、03年からの北朝鮮核問題の6カ国協議は、朝鮮半島の分裂を中国主導で解決させ、朝鮮半島に対する覇権を米国から中国に委譲しようとする、米国の隠れ多極主義的な戦略だった。 隠れ多極主義者のキッシンジャーは、北朝鮮を中国の傘下に入れて安定させようと考えていた可能性が高く、張成沢は、米国にとってではなく中国にとって「金正日よりもましな指導者」であるということで、キッシンジャーの推薦対象になったと考えられる。そもそも、キッシンジャーに張成沢を推したのは中国かもしれない。 この構想から半年後、張成沢は失脚し、その理由は部下の朴明哲(パク・ミョンチョル。体育関係の党幹部。在日朝鮮人のプロレスラー力道山の娘婿)が子供の結婚式を豪勢にやりすぎて失脚した余波ともいわれている。しかし、こんな微罪だけで国家戦略上重要な高官一派を全員失脚させるとは考えにくいので、実のところは、米国や中国が張成沢を「金正日に代わる権力者」と考えたことが北側に漏れ、金正日が脅威に思ったか、張成沢のライバルたちが騒いだ結果かもしれない。 (朴明哲オリンピック委員長、「子女の豪華結婚式」物議で追放) ▼張成沢に国防委員会を乗っ取らせた金正日 04年に張成沢が失脚したのは「中国と通じているのではないか」と疑われた可能性があるが、06年に金正日が張成沢を復権させたときには、むしろ「おおいに中国と通じろ」という意図で復権させた感じだ。金正日は06年1月に中国を訪問し、改革開放政策の現場を視察して回ったが、その直後に金正日は張成沢を復権させた。張成沢は同年3月に中国を回り、北朝鮮が改革開放策を導入する際の具体策を中国側と協議した。 (張成沢訪中の狙い) 張成沢は中国政府と密接な関係を築き、09年6月には、張成沢は「後継者」と騒がれ出していた金正銀(金正雲)をつれて中国を訪問している。今年5月の訪中時、北京で胡錦涛が主催した晩餐会の席順では、張成沢が党内序列より高いナンバー3の席(金正日、金英春に次ぐ)についたことが確認されている。 (5日の中朝首脳夕食会テーブルの座席配置) (金正雲の中国訪問など) 金正日が、張成沢を重用して中国式の改革開放策の導入を試みる際、最大の阻害要因は軍最優先の「先軍政治」である。これを乗り越えるため、金正日は、08年秋に倒れる前後の時期に、かつて先軍政治の拡大時に廃止した労働党中央委員会の行政部を復活し、その部長に張成沢を就けた。以前からの張成沢の部下たちも行政部に結集した。金正日は、党を軽視して軍を重視する先軍政治の流れを、20年目にして逆流させ始めた。このころから「張成沢は北朝鮮の鄧小平(改革開放をやった指導者)になるのではないか」と韓国で言われ出した。 (張成沢は北朝鮮の鄧小平なのか?) こうして金正日は、まず張成沢に党内で行政部という基盤を作らせた後、翌09年4月の最高人民会議(国会にあたる)で、張成沢を国防委員に就任させ、今年6月の最高人民会議で国防副委員長に昇格させて、党より上位にあった軍になぐり込みをかけさせた。金正日は、張成沢に国防委員会を潰させるのではなく、国防委員会の権限を経済など行政分野に拡大するため、張成沢を副委員長にするという理屈を作り、張成沢に国防委員会を乗っ取らせる策をとった。先軍政治をやめるのではなく、先軍政治を拡大するのだといって、事実上軍人から権力を剥奪した。 金正日は独裁者といわれるが、冷戦終結期の財政破綻時に、軍にすり寄って権力を保持しただけに、将軍たちが結束して反対したら金正日は譲歩せざるを得ない。だから金正日は、暗闘的、クーデター的なやり方でしか、先軍政治を脱却できない。クーデター的な感じは、今年の最高人民会議が、定例の4月だけでなく6月にも臨時で開かれ、6月の臨時大会で張成沢の国防副委員長への就任が決まったことにも表れている。 4月の会議は例年同様の形式的なもので、金正日は出席しなかった。そして5月初旬、金正日は張成沢らをつれて中国を訪問し、胡錦涛と会談して、中国が国有企業などを通じて北朝鮮に対し、インフラ整備など100億ドル規模の投資を行うことで合意した。この額は、北朝鮮のGDP(260億ドル)の3分の1以上にあたる。 この巨額資金を得て帰国した後、金正日はおそらく「中国が巨額投資の条件として、張成沢に経済の全権を持たせることを望んでいる」などと言って将軍たちをしぶしぶ納得させ、6月に臨時の人民最高会議を開いて張成沢を国防副委員長に就けた。6月の会議で、金正日は議場の中央に座った。それまで3人の高齢の将軍たち(金永春、呉克烈、李勇武)が握っていた国防委員会の権力のうち、経済の全権が張成沢に渡され、3人の将軍の権限は、軍事や諜報に限定されていくことになった。同時期に、偶然であるかのように張成沢のライバルたちが消えた。李済剛は交通事故で死に、李容哲は心臓麻痺で死んだ。 (北最高人民会議 張成沢国防副委員長抜擢と外資誘致(下)) 韓国の脱北者からは「北朝鮮のナンバー2は張成沢ではなく、諜報と軍事を握っている呉克烈である」という見方が出ている。北朝鮮が従来どおりの先軍政治体制をとっているとしたら、この見方は正しいが、私の分析では、金正日は先軍政治を脱却して中国式改革開放策へと、北朝鮮の国策を隠然と転換しようとしている。もはや「軍を握るものが北朝鮮のナンバー2だ」という見方は古いと思う。 (「北朝鮮のナンバー2は呉克烈氏」韓国の報道に対し脱北者が語る) ▼中国の辺境安定策としての北朝鮮投資 台頭する張成沢と、権力防衛を試みる呉克烈は、経済の利権で闘争している。張成沢は、中国からの投資の受け皿として今年3月、国家開発銀行を設立し、金正日の個人資産の管理人(39号室長)をしている全日春が理事長に就いた。同時期に、中国共産党と党どうしの協力を担当してきた金養建・党元国際部長を理事長に据えて、開発銀行に資金を引っ張ってくるための政府系企業「大豊国際投資グループ」も作られた。 (北朝鮮、平壌で国家開発銀行の初理事会) この動きより前の09年2月、呉克烈は機先を制するように、中国からの資金を受け入れる企業として「朝鮮国際商会」を設立し、09年7月には最高人民会議常任委員会の認可も取り付けた。国防委員会が経済政策も担当し、中国からの資金を受け入れるのなら、それを張成沢がやる前に自分がやり、張成沢の台頭を防ごうと呉克烈は考えたようだ。両者の対立が激化していると報じられている。 (北朝鮮、外資誘致めぐり内部対立 張成沢氏vs呉克烈氏) 中国が北朝鮮のインフラ整備に投資するのは、北朝鮮だけに対する政策ではなく、中国が周辺地域の全体に対して行っている総合的な戦略の一部である。中国は、雲南省など西南辺境の外縁部では、ラオスやカンボジアのインフラ整備に資金を出し、西方辺境である新疆ウイグル自治区の外縁部では、カザフスタンやキルギスタンのインフラ整備に資金を出している。いずれも、自国の辺境地域と、その向こう側にある貧しく不安定な国々の経済インフラを整備してやり、それによって経済発展を起こし、国境周辺を安定させようとする中国政府の長期戦略に基づいている。 (China bridges last Mekong gaps) これらと同様に、中国は、東北辺境である吉林省の外縁部に位置する北朝鮮のインフラ整備に金を出そうとしている。中国は、北朝鮮に対するインフラ投資を、東北地方(旧満州)の辺境開発事業と結びつけて計画している。 ( Facing Food Shortages and Sanctions, Kim Jong Il Appears to Reach Out to China) (東北辺境では、いずれ中国がロシア極東の開発を手がけることも視野に入ってくるだろう。すでにロシアのプーチン首相は、中国がロシア極東の経済開発に入ってくることに歓迎を表明している) (中国の内外(3)中国に学ぶロシア) 北朝鮮は従来、国有の開発銀行を作っても、資金が活用されず、投資家が損をするだけだったので、今回の動きについて疑問視する向きが韓国などで強い。しかしすでに中国企業は、北朝鮮の鉱山や港湾などの権利を買い漁っており、韓国勢が「北に投資しても無駄だ」と思っている間に、北朝鮮は経済的にどんどん中国の傘下に入っている。 (The hermit economy Pyongyang hobbled and getting worse) ロシアなど、中国以外のBRIC諸国や新興市場諸国、欧州諸国などが、今後、北朝鮮に対する投資や貿易関係を活発化する可能性もある。たとえば、BRICの一つであるブラジルは、北朝鮮との経済関係を急速に拡大している。BRICは、それぞれの大国が自国周辺を安定させるための経済政策の分野で、相互に協力し合っている。北朝鮮は、世界の多極化の波に乗って投資を集めようとしている。 (Brazil, North Korea: Brothers in trade) ▼世襲劇や瀕死説の裏側 北朝鮮では08年ごろから「2012年に強盛大国の大門を開く」ことを国家目標に掲げている。12年は金日成の生誕100周年だ。北朝鮮側の説明では、強盛大国とは政治的・軍事的・経済的に大国になることを指しているが、政治的と軍事的には、すでに北朝鮮は大国なので、あとは急いで経済発展することが目標なのだという。日韓では一般に、強盛大国は先軍政治の戦略だと考えられているが、08年に張成沢が台頭したことや、軍事も政治もといいつつ実は経済重視の政策であることを考えると「2012年に強盛大国の大門を開く」という言葉には「2012年から改革開放経済を導入できるようにする」という隠れた意味が盛り込まれているのではないかとも思えてくる。 北朝鮮は昨年11月に通貨切り下げ(デノミ)を行って失敗し、この責任をとらされて朴南基(パク・ナムギ)労働党計画財政部長が失脚した(一説には銃殺された)。これについて、デノミは本当は張成沢がやったことなのに、朴南基の責任にされてしまったという説がある。しかし、デノミは北朝鮮の自由市場経済が急拡大したことに歯止めをかけようとした強行策だ。 張成沢が中国式の経済政策をやる人なら、デノミは張成沢がやったことではない。中国は、かつて自国で自由市場経済が急拡大したときに、ほとんど抑制をかけず、市場経済を定着させている。デノミはむしろ、張成沢ら中国派の台頭を抑止する軍人側の抵抗策だった観がある。張成沢は経済専門家を元山に集め、デノミの混乱の収拾策を立案したと報じられている。 (北朝鮮デノミ混乱収拾を張成沢部長が主導) (◆北朝鮮通貨切り下げの意味) 張成沢の台頭について日韓では「金正日が病気で死にそうなので、息子の金正銀を後継者に定め、その摂政役に張成沢を置くことにした」という分析が主流だ。だが私は「金正日が北朝鮮の経済発展を実現するため、将軍らを出し抜いて先軍政治を脱却し、張成沢を台頭させて中国式の改革開放政策に転換しようとしている」と分析している。08年秋に金正日が倒れて瀕死の状態になったのは事実だろうが、その後回復し、間もなく死にそうな状態ではないかもしれない。09年8月に米国のクリントン元大統領が訪朝した時、金正日は元気だった。「病気で死にそうだから張成沢を摂政役として台頭させる」という話は、将軍らを納得させるための誇張かもしれない。 (◆クリントン元大統領訪朝の意味) 後継者と言われて日韓で騒がしく報じられる子息の名前が、金正男、金正哲、金正銀と、2-3年ごとにころころ変わるのを見ると、金正日が権力の父子世襲を考えていると人々に思わせるのも、金正日お得意の攪乱作戦の一つではないかと思えてくる。北朝鮮は主体思想ばかり宣伝しているが、土台は共産主義であり、金正日自身は、権力の世襲は封建的であって共産主義的でないと考えている可能性もある。中国は金正日に、政治を安定させたければ中国のように党中央を集団指導体制にした方が良いと忠告し、金正日が愚鈍でないなら、それをもっともな話だと思っているはずだ。 それらの可能性をふまえつつ、張成沢の台頭を見ると、これは意外に北朝鮮が国策を中国式改革開放策に転換していく動きの始まりなのかもしれないと思えてくる。(北朝鮮の内情は見えないので、いずれまた張成沢が失脚して先軍政治が復活するとか、将軍たちが金正銀を担ぎ出して権力世襲を実行するといった、元のもくあみ的な展開もあり得るが) 今年3月末に韓国で天安艦の沈没事件が起こり、5月に韓国政府が「北朝鮮の犯行だった」という調査結果を発表し、北朝鮮が「大ウソだ。わが国はやってない」と反論して、南北間の対立が劇的に高まった。この件と同じ時期の4-6月に、北朝鮮では張成沢が台頭している。この時期的な同期にも、何か意味があるかもしれない。この点は、今後考えていきたい。
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