他の記事を読む

イスラエルの戦争と和平

2008年9月9日   田中 宇

 記事の無料メール配信

 1967年6月に起きた第3次中東戦争(六日戦争)は、画期的な戦争だった。イスラエルが、エジプト、ヨルダン、シリアの3カ国に先制攻撃をしかけ、わずか6日間の戦争で、エジプトからガザとシナイ半島を、ヨルダンからヨルダン川西岸地域を、シリアからゴラン高原を奪取し、現在まで続く占領体制の始まりとなった。

 イスラエルはこの戦争まで、1947年に国連が決議したパレスチナ分割案のイスラエル側の地域に限定して統治していた。しかし、この戦争でイスラエルは従来の戦略を打破し、アラブの土地を奪取していく拡張戦略に転換したと考えられている。

 しかし実は、六日戦争当時にイスラエル政府が考えていたことは、それとは全く逆の戦略だったかもしれない。イスラエルの元大統領であるハイム・ヘルツォーク(Chaim Herzog)は、1989年に出版した回顧録の中で、六日戦争の停戦からわずか10日後の67年6月19日に、イスラエル政府は、戦争相手だったエジプト・シリアとの平和条約を結ぶことができた場合、戦争によって両国から奪取占領したシナイ半島とゴラン高原を返還するという決議を、秘密裏に閣議決定したと書いている。(関連記事

(この秘密閣議決定は、別のサイトでも事実として紹介されている)

 六日戦争を起こしたのはイスラエルである。開戦した理由はアラブ側との対立の積み重ねであり、決定的な事由がない。しかも、停戦直後に、早々とエジプト・シリアとの和平を前提に、占領地の返還を秘密閣議決定していたとなれば、イスラエルは、最初からエジプト・シリアと和平する目的で、和平材料として占領地を獲得するために先制攻撃の短期戦を起こした疑いが強い。

▼アラブとイスラエルの対立を扇動したイギリス

 和平するつもりなら、戦争などせず、最初からエジプトとシリアに、和平しましょうと直接に提案すれば良いではないか、と思う人が多いだろう。しかしイスラエルは、アラブ側に和平提案できる状況になかった。

 イスラエルは1948年、イギリスの植民地(国際連盟の委任統治領)だったパレスチナの西側4分の1の地域で建国した。中東全域を支配していた英は、中東の各勢力をできるだけ分割し、相互に敵対状態を永続させることで、外部から支配している英が漁夫の利を得て仲裁役に立てる均衡戦略(バランス・オブ・パワー)を採っていた。

 その一環として、英はユダヤ人国家の領土が大きくなりすぎないよう、パレスチナの東半分(ヨルダン川東岸)でアラブ人の国王(ハーシム家)に建国を許し、トランスヨルダン(今のヨルダン)を作った。さらに、トランスヨルダンとイスラエルの間には、1947年の国連決議などによって、パレスチナ人の国家建設が予約された。欧州の国際政治の舞台裏で長く活躍し、国家運営の技能に長けたユダヤ人に広大なパレスチナ全土を与えたら、英を中東から追い出すほど強いイスラエル国家が建設されると恐れ、英はイスラエルの領土をできるだけ小さくしたのだろう。

 加えて、英はアラブ側にイスラエル敵視の感情を植え付けた。英は、第二次大戦でアラブ諸国がドイツの味方をしないよう、アラブが夢見る「民族統合」のための組織「アラブ連盟」(アラブ諸国の連合体)を1945年に作ってやったが、その後約60年のアラブ連盟の歴史を見ると、米英に都合の良いように分裂され続けている。アラブ連盟は、英の傀儡組織と疑われるが、同時に同連盟は、イスラエルを強く敵視する組織であり続けてきた。

 1948年のイスラエル建国時に、イスラエルに宣戦布告したのはアラブ連盟だったし、1979年にイスラエルと和解したエジプトは、連盟から除名された(10年後に復帰した)。英(米の軍産英複合体)は、アラブ連盟を使って、アラブとイスラエルとの永続的対立を維持してきたといえる。覇権国によって作られた敵対構造の中で、イスラエルがアラブに和解を提案しても、拒絶されるだけだった。

▼英のスエズ以東撤退との関係

 英米覇権からやられっぱなしのアラブ諸国の為政者には「戦力こそ正義」と考える風潮があった。シリアとエジプトという、イスラエルの南北に位置する有力なアラブ2国の領土をイスラエルが戦争で剥奪し、その後、土地を返還するから和平しよう、と提案することは、イスラエルが優位に立ちつつ和平を実現するための、効果的な戦略だった。

 この「戦争による和平戦略」が1967年という時期に行われたことも、私は意味を感じる。67年は、英がスエズ運河以東(キプロスより東)の全地域からの撤退を行っている年だった。スエズ以東からの英軍撤退は、68年におおむね完了した。

 英は第2次大戦後も大英帝国を維持していたが、60年代の国内経済不振の中、アジアからすべての軍隊を引き揚げる方針を決定し、撤退を実施した(グルカ兵を除く)。撤退の準備としてマレーシアなど英植民地は独立し、東南アジアでは67年にアメリカ主導でASEANが作られた。ペルシャ湾岸諸国ではこの時期、通貨の英ポンドに対するペッグ(為替連動)が終わり、代わりに米ドルへのペッグとなった。71年にはシンガポールにあった英軍の極東司令部が廃止され、アジアは英覇権下から米覇権下への移行が完了した。代わりに英は欧州とのつながりを強め、73年にEC(欧州共同体)に加盟した。

 この英の戦略転換は、世界的に重要な節目だったが、米英は覇権の移転を人々に知られたくなかったらしく、関連するすべての動きは、深い意味づけが表明されないまま実施された。英から米への覇権移転が始まった第二次大戦時に「覇権移転は25年かけて行う」といった米英密約があり、それに沿って挙行されたのかもしれない。1956年のスエズ動乱(エジプトがスエズ運河を国有化し、英が仏イスラエルを誘って国有化を阻止しようとしたが、米がエジプトの肩を持ち、英は敗退した)の失敗も、スエズ以東からの英撤退と関係ある。

(余談だが、英軍の最東端の拠点となった地中海のキプロス島では、63年にトルコ系とギリシャ系の対立が扇動され、島内の南北分断が固定化されていき、紛争仲裁の名目で、英軍が国連軍の看板を掲げ、国連の資金援助を受けて駐留し続ける体制が作られた。キプロスは、中東からトルコ、ロシア、バルカン方面の電波傍受や有事即応ができる要衝の島である。昨年から、トルコとギリシャがキプロス問題で急速に歩み寄っているが、これはブッシュ政権の自滅的過激策によって米英覇権体制が崩壊し、英の支配力が低下したことと関係がありそうだ)

 1968年の英撤退は、それまで英覇権下にあったイスラエルとアラブにとって大事件だった。英から覇権を引き継ぐ米は「民族自決」を推奨していた。アラブ連盟は64年、パレスチナ人に、イスラエルと戦って民族自決を勝ち取るための組織としてPLO(パレスチナ解放機構)を作らせた。PLOの後見人はエジプトだった。アラファトらが率いるPLOのゲリラ部隊は、西岸やヨルダンを拠点に「パレスチナ解放」のための対イスラエルのゲリラ戦をやり出した。

 イスラエルとアラブとの恒久的な敵対を扇動してきたイギリスが中東から撤退することは、イスラエルにとって、アラブとの和解のチャンスだった。この機会を逃してアラブとの敵対が放置されると、PLOなどパレスチナ人によるゲリラ活動が活発化し、イスラエルの国家存続を脅かしかねなかった。そこで、英がスエズ以東から撤退していく1967年に、イスラエルは六日戦争を起こし、その後に予定されていた和平の取引材料としてのシナイとゴランを獲得した。

▼米中枢の暗闘開始と六日戦争

 しかし、その後の展開は、イスラエル政府が思っていたようにならなかった。前出のヘルツォーク元大統領によると、イスラエル政府は、エジプトとシリアが和平を結ぶなら占領地を返すという提案を、アメリカ経由でエジプト・シリアに伝えることにした。だが、アメリカはイスラエルからの依頼を受けたものの、エジプトとシリアにこの話を伝えなかった。ヘルツォークは、その理由を明らかにしていない。

 当時の米政府は、ケネディ暗殺後に昇格・再選された民主党ジョンソン政権で、米中枢は軍産複合体が強かった。米政府がイスラエルの和平提案をエジプト・シリアに伝えなかったのなら、おそらくそのことと関係ある。ケネディは、キューバ危機の解決策としてソ連との対話を開始し、冷戦を終わらせようとしたために、危機感を持った軍産複合体によって63年に暗殺されたと考えられ、後継のジョンソンは、軍産複合体に操られる傾向が強くなっていた。

 イスラエル秘密閣議決定から2カ月後の67年8月、アラブ連盟は首脳会議を開き「イスラエルと和平しない、交渉しない。イスラエル国家を承認しない」という「3つのノー」の方針を決議した。エジプトとシリアは、奪われた領土の返還を望んでいたが、イスラエルの意志を米から伝えられていなかったこともあり、イスラエル敵視の傾向が強いアラブ連盟に流された。イスラエルは同年10月、和平と占領地の交換提案を放棄した。

 六日戦争に負けた側のエジプトでは、全アラブの英雄だったナセル大統領が、敗戦直後の67年6月、惨敗の責任をとって辞任を表明した。しかし、アラブ全土で100万人以上が街頭に繰り出し、ナセルに辞任を撤回し、イスラエルと戦い続けるよう求めた。ナセルは辞められなくなり、エジプト軍はその後3年間にわたって停戦ライン(スエズ運河)から低強度でイスラエルを攻撃し続け、何とか軍事力を向上させようと、ソ連に頼る傾向を強めた。形として、これは中東への冷戦構造の波及だった。

 すでにこの時期、アメリカでは、冷戦を終わらせる準備が始まっていた。ヘンリー・キッシンジャーによると、もしケネディが1963年に暗殺されなかったら、1964年の米大統領選挙に共和党からネルソン・ロックフェラー(ニューヨーク州知事)が立候補し、そこにキッシンジャーも入閣する予定になっていた。ケネディが暗殺されたため、64年の選挙は民主党のジョンソン(ケネディ政権の副大統領)が圧勝し、事前に負けるとわかっていたのでロックフェラーは出馬しなかった。(関連記事

 キッシンジャーは、次の68年の選挙で勝った共和党ニクソン政権に入閣し、中国との関係を劇的に改善し、ソ連との関係も和解方向に持ち込み、事実上、冷戦終結への道筋をつけた。ケネディが暗殺されず、ロックフェラーが大統領になっていたら、冷戦終結の始まりは1964−67年に早まっていただろう。ロックフェラー家は、中国に投資して儲けたい「多極主義」の勢力である。

 そもそもケネディ自身、冷戦を終わらせようとして軍産複合体に暗殺されている。米政界では60年代前半から、冷戦を終わらせようとする(多極主義的な)動きと、冷戦の永続を画策する軍産英複合体との暗闘が激化していた。この暗闘はおそらく、すでに述べた60年代後半のイギリスの衰退とスエズ以東撤退、英から米への覇権移転の完了と関係している。英の力が失われたので、米では、かつてヤルタ体制を作って世界を多極化しようとした多極主義の勢力が盛り返し、ロックフェラーやキッシンジャーが出てきたのだろう。

 そんな中でイスラエルは、英衰退のすきを突いてアラブと和平しようと六日戦争を起こしたが、米中枢の暗闘の中でイスラエルの戦略は無効化され、逆にその後エジプトがソ連寄りになり、米寄りのイスラエルとの間で長期戦になりそうな雲行きとなった。

▼英雄になりたいサダトに「戦勝」を贈呈

 しかしこの流れは、1969年にニクソンとキッシンジャーの政権ができたことで一転した。ニクソン政権は、ジョンソン政権が無視したイスラエルの和平提案を復活し、1970年にロジャース案としてアラブ側に提案した。同時期に米政府はソ連との対話を強めていたので、ソ連もアラブ和平に乗り、2万人もいた駐エジプト軍事顧問団を72年に撤収した(表向きはエジプトが追い出したということになっている)。

 エジプトのナセル大統領は米のロジャース案を受諾し、アラブ連盟としてイスラエルと和解する話を進めていたが、その最中の70年9月、ナセルは過労で急死してしまった。後継には副大統領だったサダトが昇格したが、それまで英雄ナセルの操り人形としか見られていなかったサダトには、権威が全くなかった。英雄ナセルが「イスラエルと和解しよう」と言うなら、アラブ民衆は納得しただろうが、サダトが同じことを提唱しても「アラブ団結の裏切り者」としか見られなかった。サダトは「イスラエルともう一度戦争して勝つ」という方針を掲げざるを得なかった。ロジャーズ案は棚上げされた。

 事態は冷戦派の勝ちとなるかに見えたが、ここでイスラエルは、驚くべき秘密の奇策を挙行した。それは「イスラエルに勝ってナセルのような英雄になりたい」と熱望するサダトに「戦勝」を贈呈すること、イスラエルがわざと負ける戦争をやることだった。こうして起きたのが1973年の第4次中東戦争(ヨームキップール戦争)だった。

 公式な歴史では、この戦争は、何も仕事をしてはいけないユダヤ教の大休日でイスラエル社会全体が休みに入る「贖罪日」(ヨームキップール)を狙ってエジプトとシリアの軍隊が奇襲をかけ、成功した戦争とされている。

 しかし、イスラエル側は、アラブ側が攻撃してくる前夜には攻撃を察知していた。イスラエルのマスコミは、シリア軍が国境に進軍していると報じていた。攻撃を受ける6時間前には、閣議でイスラエル側からの先制攻撃の必要性について議論し、軍首脳は、アラブ側からの攻撃が間近だと言って先制攻撃を主張したが、ゴルダ・メイア首相は、先制攻撃はアメリカを怒らせるので駄目だと却下した。その直後、メイアの判断を補強するかのように、キッシンジャー米大統領顧問から「先制攻撃するな」と連絡が入った。

 イスラエル軍が先制攻撃していたら、第4次中東戦争はイスラエルの勝ちになっていただろうが、メイア首相が先制攻撃を却下したためイスラエルは負け、停戦後のエジプトとの交渉でシナイ半島を返還した。その後の両国は和平に向けて話を進め、77年にはサダトがイスラエルを訪問し、78年には米の仲裁で正式に和解した(キャンプ・デービッド合意)。メイアは、イスラエル政界の右派から「エジプトと和平するために、奇襲を知りながら先制攻撃案を却下した」と非難され、戦争から半年後に辞任した。

▼チェイニーはメイアの逆張り

 エジプトのサダトは、戦争の半年前から「イスラエルと戦争して勝つ」と公言しており、イスラエル側が大休日だからやられてしまったという話は茶番である。サダトは、70−71年にはソ連に接近したが、72年にはソ連と仲違いし、アメリカに接近し始めている。おそらく、この時にはすでに、メイアとサダト、それからキッシンジャーの間で「イスラエルはちょっとエジプトに勝たせてやり、サダトはそれで面子を立て、イスラエルと和解する」という談合ができていたと推測される。

 サダトはこの戦争によって念願の英雄となり、開戦日はエジプトとシリアで「戦勝記念日」となった。しかしサダトは、その後イスラエルと和解したため世論の激怒を受け、イスラエルとの国交回復から2年後の81年に暗殺された。イスラエルとの恒久敵対を維持する「軍産英複合体のエージェント」であるアラブ連盟は、イスラエルと和解したエジプトを除名した。「アラブの盟主」だったエジプトにあったアラブ連盟の本部は、チュニジアに移転した。

 イスラエルでは、67年の六日戦争後、建国以来の与党である労働党(マパイ)の政府が、占領地の返還と引き替えにアラブとの和解を目指したのに対し、政界の右派勢力は、占領地の返還に反対し、返還を阻止するため、政府が禁止した占領地への入植運動を拡大した。この動きは米のユダヤ人社会に波及し、従来の左派的な米ユダヤ政治運動とは全く異質な、右派的なユダヤ政治運動が出てきた。右派は70年代に米の軍産複合体と結託して米議会を動かす強い政治勢力となり、批判者に「ユダヤ人差別」「親ナチス」のレッテルを貼って黙らせつつ、80年代のレーガン政権や、今のブッシュ政権を牛耳り、ネオコンの過激な国際戦略を展開した。

 米政界でのイスラエル右派の台頭は、イスラエル本体に逆波及し、1973年にはいくつかの右派政党が結集してリクードとなり、77年の選挙で労働党を破って与党になり、中道左派勢力は建国以来初めて下野した。

 ゴルダ・メイアによる、73年のヨームキップール戦争の意図的な敗北を通じたエジプトとの和解戦略は、米イスラエルの政界で好戦的な右派勢力が拡大し続ける中で、何とかアラブ側と和解してイスラエルの安定を確保しようとする中道派の対抗戦略として行われた。

 メイアは、外務大臣をつとめた後、いったん66年に68歳で政界からリタイアしていたが、六日戦争後に請われて政界に復帰し、69年に首相となった。彼女の首相としての最大の任務はエジプトとの和平であり、ヨームキップール戦争でわざと負けて悪者扱いされ、辞職させられることを予期しつつ、任務をこなしたのだろう。彼女は首相を辞任した4年後に80歳で死去したが、中道派のユダヤ人の間では今も英雄である。(関連記事

 メイア同様に、意図的に負けて悪者になりつつ、軍産複合体の戦略を「やりすぎ」によって破綻させる任務を、まさに今こなしていると思われるのがアメリカのチェイニー副大統領である。彼はユダヤ人ではないが、側近にはネオコンなどユダヤ人が多く、ユダヤ的な政治手法が身についているのだろう。チェイニーがやっていることは、今は戦争ばかりだが、長期的には軍産複合体の世界支配を破綻させ、世界を安定させる。

 ただし、メイアはイスラエルを右派の乗っ取りから守るために動いたのに対し、チェイニーは右派に乗っ取られたイスラエルを潰すために動いている。今のイスラエル政界では、次期首相と目されるツィピィ・リブニ外相が、メイアの跡を継ぐ、イスラエルを守る女性指導者として期待されている。チェイニー対リブニの暗闘の結果が、今後の世界体制を決めるとも言える。

▼鈍重なシリア

 イスラエルは、1967年の六日戦争で獲得した占領地を返還しつつアラブと和解していく戦略だったが、占領地のうち返還されたのはエジプトのシナイ半島だけだ。それも、79年の国交回復後、米イスラエルでは右派の力が強くなり、エジプトとイスラエルは国交再断絶寸前の冷たい関係が続いている。

 ゴラン高原を奪われたシリアは、英雄好きの派手で軽薄なエジプトとは対照的に、目立たず安定を重視する鈍重な独裁のアサド父子の政権がずっと続き「やらせの戦勝」もない代わり、イスラエルとの和解や領土の返還もないまま、今に至っている。

 イスラエルの中道派は、米イスラエルの右派にずっと阻止されつつ、今でも「ゴラン高原を返還する代わりにシリアと和平し、相互不可侵の約束をする」という戦略を何とか実現したいと考えている。米政府が妨害するので、最近ではサルコジのフランスや、ロシアに仲裁を頼んでいる。9月3日には、サルコジが米制裁を無視してシリアを訪問したし、8月末にはシリア大統領とイスラエル首相が相次いでモスクワを訪問している。(関連記事その1その2

 今回の記事は、レーガン政権前までしか詳述できなかった。ここからは早回しである。この後、81年に就任したレーガン政権は、軍産複合体に牛耳られており、最初はソ連を「悪の帝国」と呼び、イスラエルを巻き込んでレバノンに侵攻した。だが、政権内には隠れ多極主義者が多くいたようで、政権末期には冷戦を終わらせ、88年にはアラファトをチュニジアからガザに移転させ、ヨルダンに西岸を放棄させ、アラブ連盟にエジプトを復帰させて、93年のオスロ合意(パレスチナ国家建設合意)への布石を敷いた。

 このレーガン政権の大転換が、どのようなからくりで起きたのか、私には今一つわかっていない。95年のイラン・コントラ事件によって政権内の右派が外されたことにより、キッシンジャー以来の中道派(現実主義派)が台頭し、冷戦終結・中東和平となったのではないかとの仮説を以前に考えた。だが「新レーガン主義」を自称していた現ブッシュ政権の流れから逆類推すると、現政権と同様に、最初から「やりすぎ」によって軍産複合体の戦略を破綻させ、冷戦を終わらせる隠れた戦略があったのかもしれない。



田中宇の国際ニュース解説・メインページへ