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RANDOM DIARY TOUR
鳴海諒一日記 SINCE 6/18.2000



2月24日

▼渡辺 葉さんの思い出

 ニューヨーク在住の役者・翻訳家・エッセイストの渡辺葉さんが飲みに来た。彼女
は5年ほど前に当店で働いていた元アルバイトである。とても知的で時に大ボケをか
ます素敵な女性で、帰国するたびにいつも店に突然現れては、僕を驚かすことを楽し
みにしている。

 彼女は今回も突然やって来た。厨房で夕飯を食べていたら、アルバイトがやって来
て「あの〜、確かアメリカに住んでいるというお知り合いがいらっしゃいました」と
言う。「うむむ、ヤツだな」と、店に出ていくと案の定そうである。ニコニコと屈託
のない笑顔を浮かべてこっちを見ている。僕は思わず、「また突然現れやがったな!」
と歓迎の挨拶を述べ、女性バーテンダーのSさんからは、「店長! 何てこと言うん
ですか!」と叱られた。

 葉さんが当店の面接を受けに来たときのことは、昨日のことのように鮮やかに覚え
ている。分厚い原書を小脇に抱え、しゃなりしゃなりと入ってきたっけ。言葉遣いが
とても丁寧で人柄もよく、本当にうちの店で働いてくれるのだろうか、と思わせてく
れた歴史上初の人だった。きっとこのような才女は、長く務めないのだろうなと思っ
たが、たとえ数ヶ月だったとしても、店にとっては大きなメリットだと判断して採用
した。

 葉さんの接客には、彼女の人柄の良さが溢れていてとても素敵だった。あんな笑顔
で話しかけたら、誰だって彼女と話したくなってしまう。それゆえに彼女がカクテル
を運ぶと、そのテーブルのお客に必ず話しかけられる。その結果、彼女はいつも“行っ
たきり娘”だった。運搬業務に支障は生ずるものの、それは他の者にやらせればいい。
僕は葉さんをフォローした。

 たまに他のバイトが、「全然戻ってこないし〜」と不満を漏らしたりすると、僕は
すかさず「ばかやろ〜、お前もお客に興味を持たれて、戻って来れなくなってみやが
れ。相手の方に喜んでいただくこと、それがお前の仕事だろ〜が。お客に話しかけら
れるかどうかが、お前の魅力のバロメーターなんだよ。ったくもう」と、ぶちかまし
た。ったくもう、僕は口が悪い。

 葉さんが働きはじめて1ヶ月が過ぎた頃、僕の公休日に店に電話をかけたら、バイ
トが「店長、たたた大変ですよ! 聞いてください!」と慌てふためいていた。

「今ですね、作家の椎名誠さんがお見えになってるんですけど、葉さんが椎名さんと
親しげにお話をしていたんですよ。それで葉さんに、椎名さんとはお知り合いなんで
すかって聞いたら、『父なんです』っていうんですよお。葉さんは、椎名誠さんの娘
さんだったんですよ〜!」

 バイトはめちゃめちゃ興奮していた。彼はただのミーハー男なのである。正直言っ
て僕もその話を聞いて少し驚いたが(名字も違ったので)、しかし、彼女は彼女、親
父は親父である。全然関係ない。結局、この話は何も聞かなかったことにして、僕は
この後、この話題には触れなかった。(つづく)
 
 なんかとりとめのない話になってしまった。この続きはまた後日書くことにする。


2月21日

▼「ほんものの酒を!」

 ネットの本屋で「ほんものの酒を!<あなたはニセモノを飲んでいる>」(日本消
費者連盟編著:三一新書)という本を買った。これは1982年に出版された古い本
なのだが、中身はめちゃめちゃ面白い。出版当時の日本の粗悪な(と著者が判断した)
酒類を、様々なデータを元に、メーカー名、製品名を挙げてめった切りにしているの
である。こんなに書いて大丈夫かと心配してしまうのだが、今でも売られているぐら
いだから、ちゃんとした裏付けがあるのか、もしくは、この本があまり売れなかった
のでメーカーがシカトしたのか、そのどちらかだと思われる。

 この本を読むと、戦後の日本のウィスキー、ビール、焼酎、日本酒、ブランデー、
ワインなどなど、あらゆる酒類がどういう製品だったのかがわかる。いや、正確には、
批判者の考え方がわかる。書いてあることを鵜呑みにすれば、40歳以上の方々は、
オレたちはこんな酒を飲まされていたのかよおおおお〜〜っ、と嘆き悲しみ、そして
憤ること間違いなしである。しかし怖いのは、今の世の中にはこの本に書いてあるよ
うな製品は絶対に存在しないとは言い切れない点だ。考えてみると思い当たる製品は
いくつか浮かんでくる。

 「ほんものの酒を!」は「買ってはいけない」の著者の1人、船瀬俊介氏が書いて
いるので、「買ってはいけない」を読んでむかついた方は、お読みになると拒否反応
を示すかもしれない。ぜひ御興味のある方だけ、機会があったらお読みになることを
お勧めしたい。書店で見つけるのは難しいと思われるが、案外、古本屋で埃をかぶっ
ているかもしれない。

 さっき、ネットの書店から「「続ほんものの酒を!」を本日発送したとのメールが
届いた。果たして続編にはいったい何が書かれているのか、ネタは尽きていないのか、
とても気になる。読むのがとても楽しみだ。


2月20日

▼純米吟醸無濾過生原酒

 近所の酒店で、「天覧山・純米吟醸無濾過生原酒」(1.8P 2800円)とい
う日本酒を購入した。最近、純米酒をよく飲んでいるのだが、我が家の日本酒のストッ
クが切れそうだったので、新たに飲んでみたい酒を酒屋に探しに行って、そこで見つ
けたのだ。

 栓を空けた途端に酒の芳香が部屋中に漂った。とても良い香りだ。グラスに注ぐと、
香りがどんどん立ち上ってくる。もの凄いパワーを感じる。少し口に含んでみた。甘
くて柔らかい香りとは裏腹に、しっかりとした腰のある力強さを感じる。これはうま
い。うますぎるぞ。「なんてこったい・・・」 間の抜けた言葉が口をついて出た。
今まで飲んでいた日本酒は、いったい何だったんだろう。

 無濾過生原酒は、もろみを搾った段階でビンに詰めて出荷した酒である。僕たちが
普段飲んでいる酒は、もろみを搾った後、「濾過 → 火入れ → 加水 → 火入れ」の
行程後、製品となる。「濾過」で雑味や色を取り除かれ、「火入れ」で発酵を止め、
「加水」によって水で薄められる(アルコール分を調整する)のである。無濾過生原
酒はそのいずれも行わないため、生まれたままの生命力旺盛な状態を味わうことがで
きる。

 無濾過生原酒は、その味わいに凄まじいパワーを秘めている。こんなに素晴らしい
味わいをなぜ変化させてしまう必要があるのか、このままでいいじゃないか、むしろ
この状態を味わうべきじゃないか、と僕はそう思い、エキサイトした。

 この酒がとても素晴らしかったので、慌ててもう1本、酒屋へ買いに行った。ラベ
ルに「限定品」と書かれており、酒造メーカーのHPを見てみると「完売御礼」と表
記されていたからである。

 僕は純米酒派で、醸造アルコールを添加してある日本酒に対して、常々疑問を持っ
ている。日本酒は、米、米麹、水だけで作ることが出来るのに、なぜ他に何かを足さ
なければならないのかが、いつまでたっても理解できずにいる。その答えを探すため
に、純米酒以外のアルコール添加酒も飲んでいる。同メーカーの同じ名前の純米と吟
醸を飲み比べ、いったいこれのどこがいいんだろうと、よく悩んでいる。しかし無濾
過生原酒は、そんな僕の悩みを払拭してくれた。日本酒には醸造アルコールはいらな
い、必要ない、と答えを出させてくれた。

 この「天覧山」が他の無濾過生原酒に比べて優れているのかどうなのか。現在の僕
には知る由もない。いま保有している2本の「天覧山」をじっくりと味わい、記憶に
刻み込んだ後、僕は無濾過生原酒の旅に出るつもりだ。様々な無濾過生原酒を味わっ
てみたい。「天覧山」を初めて飲んだときのようなショックを受けてみたいのだ。きっ
と上には上の酒があるのだろう。


2月19日

▼エフゲニー・キーシン2

 1971年生まれの天才ピアニスト、エフゲニー・キーシンは10歳の時、モーツァ
ルト・ピアノ協奏曲第20番でデビュー。11歳の時、モスクワでソロリサイタルを
開催。12歳の時、モスクワフィルとの共演で、ショパンピアノ協奏曲1番・2番を
演奏して一躍世界の注目を浴びた。このようにキーシンは神童の名を欲しいままに活
躍していたのだが、僕が一番驚いたのは次の出来事である。

 1986年、キーシンはモスクワで開催された「チャイコフスキー国際コンクール」
のオープニングコンサート(記念行事)で演奏した。コンクールに参加したのではな
い。いわゆる模範演奏と考えていいだろう。ロシアが誇る逸材を、国家をあげて世界
にアピールしたのだと思われる。キーシンは、その後も国際ピアノ・コンクールには
1度も参加していない。そして、今や29歳にして巨匠の仲間入りをしつつある。


2月18日

▼エフゲニー・キーシン

 最近、フランツ・リスト(Franz Liszt : 1811-1886)のハンガリー狂詩曲第12
番にハマッている。ハンガリー狂詩曲は、ハンガリー・ジプシーの音楽をもとに作ら
れた華麗なピアノ曲で、第12番はゆるやかなラッセンと急速なフリスカからなり、
ピアノの華やかな技巧を聴かせる10分程度の長さの曲である。

 ハンガリー狂詩曲12番は、僕が所持している天才ピアニスト、エフゲニー・キー
シンが演奏するビデオで聴いて射抜かれた。とても素晴らしい曲だ。キーシンはこの
高難度の曲を得意としており、当時17歳の若さで軽々と弾ききっていた。

 僕は一度ハマると、決まって他の演奏者の同曲の演奏を聴き比べる癖を持っている。
以前も、ショパンのバラードや、ラフマニノフのピアノコンチェルト3番にハマり、
僕が気に入っている何人もの演奏家が演奏しているCDを購入して聴き比べたことが
ある。これにより、各演奏者による曲の解釈の違いや、自分の好みがよりはっきりと
わかるので嬉しい。

 ハンガリー狂詩曲12番は、残念ながら僕が好きな演奏家(アシュケナージ、ポリー
ニ、ホロヴィッツなど)はCDに収めていないようなので、今まで聴いたことのない
演奏家、ボレットとシフラ、それにキーシンが16歳、17歳、18歳の時に演奏し
ているCDを聴き比べてみた。ボレットとシフラは、キーシンよりも重い感じがして、
今のところまだ馴染めずにいるのだが、12番に関して僕は全くの初心者なので、い
ずれその良さがわかる日がやってくるかもしれない。

 それよりも、キーシンの演奏が1年ごとに大きく違っていたのが、非常に興味深かっ
た。16歳の演奏は、東京のサントリーホールでのリサイタルのラストに弾いていた
のだが、その若々しくて軽快でテクニカルな演奏に、僕は度肝を抜かれた。CDのジャ
ケット写真のキーシンの顔はまるで子供なのに、演奏は凄まじいの一言に尽きる。さ
すが、中村紘子が「一流ピアニストのテクニックは16〜17歳で完成する」と言っ
ていた通りである。彼は既に完成していた。

 キーシン17歳の演奏は、曲としてのまとまりが増し、みずみずしく華やかな演奏
を披露している。18歳の演奏は、これはもう巨匠の風格十分といった成熟した曲に
仕上がっていた。どれも素晴らしい演奏だ。このキーシンの成長期における演奏表現
の変化を1年ごとに順を追って聴き比べられるなんて、なんだかとても幸せな気分だ。

先日、キーシンが一昨年に録音した「ショパン:24のプレリュード」を聴いて、
プレリュードがとても好きになった。それまであまりプレリュードは積極的に聴かな
かったのだが、彼の演奏によって目覚めてしまった。現在はまだキーシンのプレリュー
ドだけを聴きまくりたい気分だが、きっとそのうち他のピアニストの演奏を聴かずに
はいられなくなるのだろう。今でもすでに、若きホロヴィッツのプレリュードはどん
な演奏だろうかと、思いをはせてしまっている。深みにハマる前兆である。やばい。


2月13日

▼JASで行く ミステリーツアー 3

 旅行会社などで、黒地に「謎旅」と書かれた大きなポスターを御覧になったことは
おありだろうか。これは3年前から始まった「JASで行く ミステリーツアー」の
宣伝ポスターなのだが、ずいぶん人気があるツアーらしく、今年も引き続き行われて
いる。

 「謎旅」はその名の通り、出発当日、空港へ着くまでどこへ行くのかわからないツ
アーだ。とはいえ、行き先はおおよそ決まっている。札幌、釧路、旭川、帯広、徳島、
高松、広島、出雲、大分のいずれかである。料金は、往復の航空運賃、宿泊費(一泊
分)込みで20000円〜24000円で、現地に何泊するかは自由だ。

 「謎旅」のことは一昨年、当店の女性客から聞いて知った。その当時、彼女は失恋
直後で激痩せしており、傷心旅行をするためにこのツアーを選んだのだ。僕はビック
リした。だってこういうツアーは、ラブラブカップルがこぞって参加するんじゃない
の? そんな中にいて傷を癒すことができるの?と、そう思った。

 僕が失恋したら、だいたい旅行に出かけたりしないし、少なくとも雑踏を避け、一
人孤独に過ごす方を選ぶ。僕にとって、ラブラブカップル軍団の中にあえて身を置く
などという行為は、自虐行為、果てしなきチャレンジャー、はたまた、危険を求めず
にはいられない男、に等しい。

 その女性客は「謎旅」帰りのその足で、当店にやって来た。

「御旅行はいかがでしたか」

「ええ、とっても楽しかった」

「行き先はどこだったんですか」

「札幌です。ビール園でジンギスカンを食べちゃった」

 うぐっ。ビール園で一人でジンギスカンって、僕だったらめちゃめちゃ辛い。だっ
てワイワイガヤガヤあははのはって、みんな楽しく食べてるんだろ。そんなとこで、
一人で鉄板に野菜のっけてラム肉のっけて、バカヤローこれはオレの肉だぞ、自分の
肉は自分で焼けよ、やめろやめろ、がはははは、などということも一切無く、誰にも
邪魔されずに淡々と舌鼓を打つ、なんてことはとてもじゃないが、僕には出来ない。

 彼女はいったいどんな席でジンギスカンを食べたんだろう。ビール園に一人席はあ
るのか? それとも相席? 相鉄板? 鉄板共有はヤバイよな、相鉄板はないか。う
へ〜、聞きて〜、どんなふうに食べてたのか知りて〜、でも聞けね〜。

「そうなんですか。ビール園は僕も行ったことがありますけど、いいですよね。僕も
謎旅に行ってみたいなあ(大嘘)」

 うへっ、なんでえ、やっぱ聞けなかった。ジャンジャン!

 今でも「謎旅」のポスターを見るたびに、その女性客のことを思い出す。彼女はい
まどうしているのかな、の後には決まって、“ジンギスカンはどの席で? 鉄板は相
鉄板!?”などと週刊誌の見出しのように疑問が生じ、その状況を妄想してしまう。

ったく、女性客にとっては迷惑な話だ。


2月12日

▼山形弁講座

 新人アルバイトの女の子は山形県出身である。今日、お客からの差し入れを厨房で
 食べていた時、ふと気になって彼女に尋ねてみた。

「ねえ、山形では“美味しい”は何て言うの?」

「“んめ”です」

「あはははは。すげ〜〜、“んめ”って言うんだ。“ん”から始まるのかよ。斬新だ
 なあ。しかも超短いんだ。じゃ、“まずい”って何て言うの?」

「“んまぐね”です」

「がはははは、すげ〜よすげ〜よ。“んまぐね”かよ。また“ん”始まりかよ。でも
 さあ、オレの質問は“まずい”だよ。“んまぐね”は美味しくないって意味なんじゃ
 ないの?」

「いえ、山形弁には“まずい”にあたる言葉はないんです」

「マジかよ。じゃ、““すごくまずい”ときは何て言うの?」

「“うわっ、んまぐねっ!”です」

「だはははは、それは“んまぐね”を大袈裟に言ってるだけじゃん。文章じゃ相手に
 伝わらないじゃん。ホントかよ。“まずい”の言い方を知らないだけじゃないの?」

 さあ、そこへ副店長が登場して彼女に尋ねた。

「“気持ちいい”って何て言うの?」

「“きもづえ〜な〜”です」(一同爆笑)

「“おならをする”って何て言うの?」

「“屁をこぐ”です。屁っこぐ娘・・・」(一同爆笑)

「誰が“娘”をつけろって言ったんだよ。じゃ、“ボートを漕ぐ”は?」

「“ボートさ漕ぐ?”です」

「どうして疑問形なの? いやあ山形弁って不思議だなあ。面白い。面白すぎるぜ。
 これからもぜひいろいろ教えてくれよ、な」


2月10日

▼読者が店にやってきた

 「やっぱりランダムヒストリーツアーの鳴海さんでしたか。ずっとそうじゃないか
と思っていました」 マ、マジっすか〜〜、ど、読者さんですか、ひえ〜〜っ。

 30代のAさん(会社員)は、10回ほど当店を訪れている顔見知りのお客様であ
る。作家のNさんが、「鳴海くん、僕のHPにコラムを3本書いてくれ、頼む」と僕
に迫っていたのを、Aさんは隣で聞いて確信し、最初の言葉が飛び出した。只者では
ないような気配は感じていたのだが、そうか、そういうことだったのか。

 Aさんは半年ほど前から僕のメルマガを購読していて、どういう興味からか知らな
いが、僕が働く店を探していたそうだ。コラムや日記から場所を推測し、周辺の店を
くまなく廻ったらしい。

 Aさんが初めて当店を訪れたとき、僕は彼の接客をしているのだが、その時から、
“何か臭う”と感じていたようだ。しかし僕の文章から想像するイメージと実際の姿
にギャップがあり、決めかねていたらしい。って、いったいどんなギャップなのだ?

 それにしても、まさか顔なじみの客が読者だとは夢にも思っていなかった。知らな
い客から尋ねられることはあるかもしれないと思っていたが、こういうケースは予想
していなかった。

 この後、Aさんは僕の話に「ああ、それは以前、日記にお書きになっていましたね」
とか「コラムに書いてありましたね」と相槌をうつのだが、やけに僕が書いたものに
詳しくて驚く。思わず「Aさんは僕のファンなんですか?」と直球を投げてみたのだ
が、「いえいえそんな」と、曖昧な返事をしただけだった。

 はっきり言って、僕の考え方や内面を知っている方との接客は辛い。当たり障りの
ないことばかり書いているのならともかく、普段人に決して語らない不満や暴露話を
目の前の客が知っていると思うと、話していても居心地が悪い。それはこういう状況
に不慣れなせいもあるのだろうが。

 うかつにも以前、当店の常連客数名にこのHPの存在を教えてしまい、その方々に
知られては困る事柄はここには一切書いていない。書きたくても書けないことが山ほ
どある。自業自得とはいえ、これはけっこう辛い。次第に書けることが減ってきて、
いったい何のために日記を書いているのか、わからなくなることがある。

 まあしかし、こういう状況をどのように切り抜けていけるかは、僕の器量次第であ
る。田口ランディさんなど、日記で出版社の編集者を名指しで批判していて、すげえ
なあといつも感心させられる。日記に書かれた本人は、読んでビックリ仰天している
だろう。僕も早くランディさんのように、思ったことをド〜ンと書ききれる太っ腹な
人間になりたい。


2月6日

▼一流ホテルマンが教えるお客様対応術

 今日は仕事前に「一流ホテルマンが教えるお客様対応術」という講演会を聴きに行っ
て来た。講師は某ホテルグループの代表であるY氏で、彼は若かりし頃、サービスマ
ンとしてヨーロッパの有名ホテル数軒で勤務した経験をお持ちである。

 講演時間は1時間30分で、とても短かったが、サービスで最も大切な笑顔、挨拶、
感謝する心、サービス精神という基本中の基本を様々なエピソードを盛り込んでわか
りやすく話して下さった。僕は瞬きするのも忘れて話に没頭した。

 Y氏の講演はとても素晴らしかった。その内容は普段僕が考えていること、実践し
ていることが間違っていなかったと再認識させてくれた。もちろんY氏と僕とでは、
サービスに対する造詣の深さに雲泥の差があるだろう。しかし、僕がいつも心に抱い
ている迷いや悩みは吹っ飛び、とても癒された。

 講演が終了し、せっかく良い気分だったのに、それを主催者がぶち壊した。司会者
が「それでは質疑応答に移らせていただきます」と言ったのだ。

 おいおい、この講演内容に質問が必要な部分は1つもないだろう。形式だけの質疑
応答など全く以て不要だ。Y氏も少々困惑して「そういうのがあるんですか?」と尋
ねていた。案の定、質問など出るはずもなく、場つなぎ的に主催者側の1人がつまら
ない質問をしただけだった。Y氏はとても一言では話せないその愚かな質問に、少し
閉口した様子だった。

 それでもなんとか手短に答えて下さり、「というわけで、(もう)よろしいですね」
とY氏が腰を浮かせた途端、司会者が「それではYさんの著書が20名の方に当たる
抽選会を行います。番号を呼ばれたらその方は前に来て下さい」と抽選会を始めた。
Y氏は再び困惑顔である。おまけに著書にサインまでさせられて、踏んだり蹴ったり
ではないか。僕はほとほと呆れてしまった。

 タダで講演を聴きに来た客にタダで本を配って、おまけにサインまでさせてしまう
ことがいかに愚かな行為であるか、主催者は気付かない。講演を聴いて共感した客は、
金を払って本を買う気満々なのである。身銭を切って本を買い、何かを学び取ろうと
読みふけることが、大切であり必要なのだ。

 Y氏は知人との絡みから、全くの好意でこの講演を引き受けたそうだ。ギャラが発
生しようと、普段、Y氏が講演を行っていないとしたら、それは好意に他ならない。
その好意を主催者は幾分踏みにじった。「感謝の気持ちを表現する」由の話を聴いて
いながら、彼らにその本意は伝わっていない。


2月4日

▼毎日新聞ウェブニュースに「放送禁止歌」掲載

 1月26日の日記で御案内した「放送禁止歌」上映のニュースが、毎日新聞ウェブ
の社会面に掲載されていた。ずいぶん話題になっているようである。以下はその記事
の全文。

特報・放送禁止歌:
高田渡さんらがライブ ビデオ上映も 東京
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 差別的表現が含まれていることなどを理由に、テレビやラジオで放送禁止とされた
歌をテーマにしたドキュメンタリービデオ「放送禁止歌〜唄っているのは誰? 規制
するのは誰?」の上映と、放送禁止とされたミュージシャンのライブで構成するイベ
ント「放送禁止歌ショウ」が3〜9日、東京都中野区東中野4の映画館「BOX東中
野」で開かれる。

 ビデオは、関係者の証言や放送禁止とされた歌の演奏などで構成され、規制された
背景が根拠のないうわさに基づいた放送業界側の自主規制だったことをあぶり出して
いく。1999年5月にフジテレビ系列で深夜に放映されて大きな反響を呼び、昨年
7月には監督の森達也さん(44)の著書「放送禁止歌」(解放出版社)も刊行され
た。

 イベントではフォークシンガーの高田渡さん、なぎら健壱さん、音楽評論家の湯浅
学さんらが日替わりでステージに立ち、放送禁止とされた自作の歌を披露。タブーを
つくり出していった背景が何だったのかを問い掛ける。

 オウム真理教(アレフに改称)を題材にしたドキュメンタリー映画なども手がけて
いる森さんは、「見たり触れたり聞いたりすることもないまま、危険や悪などの形容
詞で規定してしまう傾向が、私たちにはある。放送禁止歌も、そうした無責任な自己
規制によって生まれた。この国にまん延している無自覚な思考停止に気付いてほしい」
と話している。

 イベントは連日午後9時10分から。当日2200円(ワンドリンク付き)。問い
合わせはBOX東中野(03・5389・6780)。 


2月2日

▼ピアノ教師

 昨日は、妻が師事する大先生の門下生のピアノ発表会を聴きに行った。久し振りに
アマチュアの演奏を聴いたのだが、心に響く演奏の少ないことに仰天した。曲の素晴
らしさを観客に伝えたい、と願って弾いている人はいなかったように思う。

 どの演奏からも、間違わずに弾かなきゃ、私のテクニックを聴いて、ここが最も得
意な部分なのよ、ここは自分でもタルいのよね、という邪念ばかりが伝わって来た。
誰もが基本的なことがきちんと弾けていない。派手な部分ばかりを追求している。果
たしてこの人たちは、いったい何のためにピアノを弾いているのだろうか。僕は疑問
を抱きながら演奏を聴いた。

 演奏者は皆20代後半から30代の女性で、普段はピアノ教師、音楽教師をしてい
る人たちばかりである。彼女たちは自分の生徒に「音楽」の本当の意味を教えられる
のだろうか。

 ハイドンの曲を弾いた人は、曲のテーマも満足に弾けなかった。彼女にそれを弾き
こなすテクニックがないわけではない。曲はキッチリした4拍子で、テーマはトリル
を多用しているのだが、そのトリルが正確に弾けないので、まるで変拍子の曲のよう
に拍子が揺れて、こっちは船酔いしそうになる。

 この人は「私はハイドンがこの曲を作った意味と、この曲の素晴らしさをみんなに
伝えたい。だからハイドンになったつもりで弾くの」と語っていたそうだが、それを
聞いて僕はぶったまげた。ハイドンの良さを伝えたいなら、まずあの簡単なトリルを
マスターして、テーマをきちんと4拍子で弾くのが必須である。それが出来ずして何
が伝わるというのか。勘違いも甚だしい。

 彼女はこれでも音大卒業後、ウィーンに数年間留学しているそうだ。金さえありゃ
何でもありなんだな。せめて少しでも音楽の意味を学んでほしいものだが、これでも
昔に比べればずいぶんマシなピアノを弾くようになったそうである(大先生談)。

 驚いたことに僕のこの日の演奏家評は、全て大先生の評価と同じだったそうである。
これは僕に優れた批評眼があるせいではなく、それほどわかりやすい駄演奏だったと
いうことだろう。

 僕はどこの店へ行っても店員やサービススタッフが、いま一生懸命働いているか、
感謝の気持ちを持っているか、向上しようとしているか、己を知っているか、また、
知ろうとしているか等の内面をいつも覗き見している。この日の演奏家たちを同じ目
で見ると、彼女たちの音楽に対する気持ちや心構えが、はっきりと見えてしまった。

 ピアノは、それを教える教師によって、生徒たちを自分の分身に変えてしまう。薄っ
ぺらいピアノを弾く教師の下では、生徒も薄っぺらい音を奏でるようになる。鍵盤を
バンバン叩きつけるように弾く教師の生徒もまた同様である。生徒は教師色に染まっ
てしまうのだ。だからこの発表会で演奏した音楽教師たちの生徒が、とても心配にな
る。

 優秀な音大を出ていても、ちゃんと弾けない人は多い。ちゃんと教えられない人は
もっと多い。ピアノ教師は絶対に選ぶべきである。昨日はそのことをまた痛感させら
れた日であった。

 
2月1日

▼三國清三の修行人生

 昨日の日記に「僕はかつてミクニの生き方に圧倒され、彼の偉大さに多大なる敬意
を表している」と書いた。今日は彼の非凡な人生の歩みを御紹介しよう。

 ミクニは1954年に北海道の増毛(ましけ)町に生まれた。ミクニ家の生計は半
農半漁でなされ、ミクニは幼稚園に入る頃から漁に出ていた。中学卒業後、働きなが
ら夜間の調理師学校へ通い、洋食に目覚めて猛烈に勉強する。

 調理師学校の卒業前に、生徒たちのマナー教室が札幌グランドホテルで開かれた。
この時ミクニは、このマナー教室は自分がグランドホテルに入るためのもの、と運命
を感じたという。講義と調理場見学を終え、他の生徒が帰ってゆく中、ミクニは調理
場にいた50人ほどのコックの中で、いちばん怖そうな人に吸い込まれるように近づ
きそして言った。「ドブ掃除でも何でもしますから僕を雇ってください」

 コックはミクニをじろりと睨み、しばらくして口を開いた。「おまえは北海道の人
間か」「増毛です」「あんな遠いところから来たのか」「はい」「わかった。じゃ、
いつ来れるんだ」 ミクニは翌日から働きだした。札幌グランドホテルではわずか2
年でメインダイニングのストーブ前、そしてワゴンサービス(お客の前でステーキを
焼く)を行うようになる。

 その1年後、次なる目標は東京で働くことである。総料理長が帝国ホテルの村上信
夫総料理長宛てに推薦状書いてくれて、ミクニは上京した。1972年、彼は帝国ホ
テルのグリルの洗い場にパート採用され、その後の2年間、鍋だけを洗い続けた。

 ある日ミクニが村上料理長から呼び出しを受けた。「君をスイスの日本大使館の料
理長として推薦したい」と言われ、鍋洗いしかしてない自分がなぜ、と彼は耳を疑っ
た。後日おこなわれた面接の後、大使夫妻から「年が若すぎる」との不安の声が上がっ
たが、村上総料理長が太鼓判を押した。

 1974年、ミクニはスイス・ジュネーブへ旅立つ。彼は自分の修行の足りなさを
痛感し、仕事をしながらわからないことを学ぶことに奔走した。その後、ミクニは天
才料理人フレディ・ジラルデの三ツ星レストランを訪ね、彼の押しの強さで話を聞い
てもらい、休みを利用して働かせてもらえるようになった。ミクニは大使館勤務を4
年で辞め、ジラルデの元で4年間本格的に働いた。

 その後フランスに渡り、トロワグロ、オーベルジュ・ドゥ・リル、ムーラン・ドゥ・
ムージャン、ロアジス、アラン・シャペルなどの三ツ星レストランで修行した。この
頃のミクニは仕事の面接や契約の時、必ず相手に「僕は勉強しに来たのではなく、仕
事をしに来た」と交渉し、実力相当のギャラを受け取っていた。そしてヨーロッパで
の8年間の修行を終えて、ミクニは帰国した。

 帰ってきてすぐに、帝国ホテルの村上料理長から「新しいホテルの料理長はどうか」
と誘われたが、「ホテルではなく、レストランで僕はやりたいです」と断り、「ビス
トロ・サカナザ」の料理長を引き受ける。そしてその2年後、「オテル・ドゥ・ミク
ニ」をオープンする。       
 
 ミクニはこの後も人生の階段を急激に駆け上り、今や不動の地位と名声を得ている。
この生き方を読んで僕は叩きのめされた。彼の努力と才能と閃きと判断力の凄さに脱
帽した。あまりの凄さに、僕は自分が“お恥ずかし”すぎて、これ以上彼のことを語
ることが出来ない。よって今日は、ドッと落ち込みながらここで終わることにする。

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