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マンガンぱらだいす(4)

  田中 宇

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▼強制連行の聞き取り計画

 李貞鎬さんに初めて会ったのは、貞鎬さんがじん肺で入院している、京都市右京区の高雄病院の病室だった。マンガン記念館がオープンしてから半年ほどたった後の平成元年秋、記念館について記事を書こうと思い、貞鎬さんの話を聞きに行ったのだった。私は、共同通信社の京都支局で記者をしていた。

 記念館を作ったいきさつについてひとしきり話した後、貞鎬さんは少し息が苦しくなったらしく、吸入器で薬の入った霧を吸い始めた。吸入器を使いながら貞鎬さんは、「マンガン鉱山には、強制連行で連れてこられた人もようけおった。だが皆、いつの間にかいなくなって、残ったもんも歳をとっている。死んでしまう前にマンガン山で働いた証言を残して、ビデオに撮って記念館に保存できればと思っとるんやけど、誰か記者さんで手伝ってくれる人はおらへんやろか」と、独り言のように言った。

 「新聞で読んだんやけど、ドイツには、町の産業の歴史を展示した産業記念館が小さな町にもあって、産業発展に貢献した人たちの経歴が分かるようになってるっちゅう話や。マンガン鉱山で働いた坑夫も、日本の産業に貢献した連中や。そやからわしは、マンガン鉱山で働いた坑夫たちの話を聞き集めて記念館に残して、マンガン記念館をドイツの産業記念館のようにしたいんや」。

 マンガン鉱山に強制連行(徴用)された朝鮮人が多くいた、という話は、その少し前に記念館に取材に行ったときに、すでに息子の龍植さんに聞いていた。貞鎬さんに会いに病院まで来たのは、マンガン鉱山に強制連行された人たちの話を聞きたいと思ったからだった。何人ぐらいの人が強制連行されたのか、貞鎬さんに尋ねると、

 「わしのおやじがやっていた飯場には、朝鮮人の坑夫が出たり入ったりしていたが、誰も自分の過去のことはあまり喋らなかったな。そやから、わしも先輩坑夫たちのことは、ほとんど知らんのや。朝鮮人坑夫のうち、今も丹波に住んでいるもんは50人ぐらいや。その連中に話を聞けば、強制連行できたもんが結構おるんちゃうか」と言う。

 貞鎬さんは、昭和30年代から50年代にかけて、在日朝鮮人の民族団体である朝鮮総連や、その前身の在日朝鮮統一民主戦線の活動にたずさわっていた。その組織づくりのため、丹波の朝鮮人の家や飯場には、ほとんど全て行ったことがあるという。その人脈を使い、聞き取りに回ろうという計画だった。

 マンガン鉱山で強制連行があったという話は、まったく知られていなかったし、報じられたこともなかった。それに、強制連行された人たちの悲惨な体験談、具体的な苦労話が聞けることに興味を引かれた。私は「その取材に興味があるので、近いうちにまた来ます」と言い残し、高雄病院をあとにした。

▼根無し草のつき合いばかりの新聞記者

 だが、その後1年以上、貞鎬さんに再び会いに行くことはなかった。私の記者生活は、誰かに取材して、その人ともっとつきあえば記事になるような話が出てくるはずだ、と思っても、多くの場合、最初の取材が終わると縁遠くなってしまうようなものだった。そしてまた次の人たちと会い、同じようなことを思うが、そのまま通り過ぎてしまうことの繰り返しで、そのうちに担当替えや転勤で、関係が切れてしまう。貞鎬さんのところにも、いずれ行かねばと思いつつ、連絡をとらなかった。私だけでなく、そのような根無し草のつき合いを続けている記者は多いはずだ。

 私が次に貞鎬さんに会いに行ったのは、最初に会ってから1年半ほど後の平成2年暮れだった。貞鎬さんの人脈をたどって朝鮮人元坑夫たちへの聞き取り取材をして本にしたい、と頼みに行ったのである。そのころ、私は記者の仕事を始めてから3年半ほどたち、仕事に限界を感じていた。

 広く浅く、根なし草的な人間関係を続けながら、自分が書く記事はステレオタイプなものから抜け出ることができない。警察、役所、大企業の経営陣など、権力を持った組織にいる人々への取材は、嫌がる相手の自宅に深夜、押しかけて会ってもらうほど、仲良くしてもらおうと努力することが良い記者だとされる一方、一般市民への取材は「ヒマネタ」と呼んで一段下の扱いになる。しかもほとんど毎年、担当する記者クラブが変わるので、腰を据えた取材が難しい。

 そんな事情から、仕事を離れて土・日曜日を使い、じっくりと何かテーマを決めて取材したいと思い、李さん親子のことを思い出したのだった。貞鎬さんは、長い沈黙の後、突然連絡してきた私の申し入れを喜んでくれたようだった。

 貞鎬さんは「最近の人は本を読まないから、ビデオの作品の方がいい」と言う。それで、聞き取り取材は活字のほかに、ビデオ作品も作ることにした。知り合いだった読売テレビ京都支局のテレビカメラマンをしている大西正彦さんと、京都でフリーカメラマンをしている中山和弘さんに協力を求め、一緒に丹波を回ることにした。

 貞鎬さんは、じん肺による呼吸困難に備え、龍植さんに小さな酸素ボンベを車に積ませた。話を聞かせてもらった在日朝鮮人一世たちは高齢で、じん肺などの病気にかかり、収入が少ないから、環境のあまり良くない家に住んでいる人が多かった。貞鎬さんは湿ったところや、暑いところに長くいると息が苦しくなる。そのため、酸素ボンベや吸入器の助けを借りても、30分ぐらいで苦しくなり、聞き取りを早々に切り上げなければならないことも何度かあった。

▼加害者の自意識から質問できず

 最初に訪れたのは、マンガン記念館がある京北町の西隣の日吉町に住む、李学南さんという、昭和11年生まれの在日一世の女性だった。学南さんの夫、金庚泰さんは、貞鎬さんと一緒にマンガン坑夫をしていたが、昭和52年にじん肺で亡くなった。

 私たちは張り切って取材に取りかかった。大西さんは李さん親子が乗った乗用車が学南さんの自宅に到着し、学南さんがそれを迎えるシーンをもう一度再現してもらい、ビデオに撮ったほどだった。

 学南さんは12歳のとき、「日本に行けば、白いご飯がお腹いっぱい食べられるから」と両親に言われ、韓国の故郷から兵庫県姫路市の親戚のところに子守りをするために日本へ渡った。

 韓国の家は百姓をしていましたが、田を作っても米は食べませんでした。日本人が持って行ってしまうから。白いご飯が毎日食べられると聞いて、嬉しかった記憶があります。釜山で船に乗るところまで、親に送ってもらい、喜んで手を振って別れました。

 でもその後は、何も覚えていないんです。姫路の親戚の家では、楽しかったことは一つもなかったさかい、全部忘れてしまいました。故郷の親兄弟のことを思って、泣いてばっかりいたと思います。それから30年後、次に韓国へ帰ったときには、両親はすでに亡くなっていました。

 私は、学南さんの子供のころのつらい経験を、根掘り葉掘り聞きたかった。だが、学南さんが子守り奉公をしたのは、日本の植民地支配が一因だったことを考えると、私は「加害者」である日本人の一人ということになる。ずけずけと尋ねるのははばかられた。

 私は何をどう聞いたらいいのか分からなくなり、黙りがちになってしまった。その後の取材で分かったのだが、在日一世たちの多くは、自分の苦労話を多弁に話さなかった。学南さんもまた、問われたことに対して簡単に答えるだけであった。ビデオ撮影のライトがやたらまぶしくて、沈黙がいっそう重苦しかった。

▼行き詰まった「悲惨さ探し」

 その後、京北町の北にある美山町に住む在日一世の男性、全谷介(チョン・コルゲ)さんに会いに行った。谷介さんは平成4年に87歳で亡くなったが、私たちはその少し前、平成3年4月に、谷介さんがじん肺で入院していた美山町平屋の病院を訪れた。

 谷介さんは明治38年、今の韓国南部の海の近くの農村で生まれた。「父親が酒ばかり飲んでいたので、家を出た」という谷介さんは、中国に行って働くつもりで釜山の港まで来たが、着いてみると中国行きの船はなく、仕方がないので下関に向かう船に乗った。昭和元年、21歳のときだった。

 その後、奈良県のお菓子工場を皮切りに、愛知、北海道、東京、九州などの工場や土木工事の現場を転々とした。昭和12年に美山町に来てマンガン鉱山で働き出し、結婚して安掛に落ちついた。戦後もマンガン鉱山や工事現場で働いていたが、昭和48年に土方の仕事をしている時に事故に遭い、左足の膝から下を失った。

 取材の日、李貞鎬さんは、谷介さんの病室にたどりつくまでが大変だった。病院ではちょうど、改装工事の最中で、壁にペンキを塗っていた。ペンキに使う有機溶剤のにおいが、わずかに廊下に漂っていた。これが貞鎬さんを呼吸困難に陥れた。廊下を歩いている途中で苦しくなって、近くのベンチにへたり込んだ。

 龍植さんが急いで車から酸素ボンベを運んできて吸わせ、貞鎬さんは何とかひと心地ついたが、酸素を吸いながら谷介さんの病室に入ることになった。片足をなくして横になっている谷介さんと、鼻にチューブを差し込んで、酸素を吸いながらゆっくりと歩いてくる貞鎬さんの対面は、痛ましさを越えて、鬼気迫るものがあった。大部屋の病室のほかの病人たちが皆、何事かと不安げな顔をしていた。

 「田中さん、質問してください」と貞鎬さんに促されたものの、私は谷介さんの痛ましい姿を前にして、「加害者」である日本人としてどう振る舞って良いか分からず、萎縮してろくな質問ができなくなってしまった。その日はちょうど、朝鮮日報の記者で、在日二世の女性、鄭容順(チョン・ヨンスン)さんが同行していた。私は「在日朝鮮人の容順さんなら、質問しても大丈夫だろう」などと思い、容順さんに質問してもらった。すると、話の中にこんなやり取りがあった。

 容順「日本人に言いたいことはありませんか」
 谷介「ありません。みんな大切にしてくれるから」
 容順「今は、大切にしてくれますからね」
 谷介「今じゃなくても、その時(昔)でも」

 日本語がたどたどしく、言葉が聞き取りにくい谷介さんが、日本人への恨みを聞かれ、「ありません」と、意外にはっきりとした口調で言ったことが、強く印象に残った。その言葉は、聞き取りに来た私が、日本人に酷使された朝鮮人、という先入観を持っていることを戒めるような、きっぱりした口調だった。

 丹波の在日朝鮮人一世の話を聞くにあたり、日本人につらい思いをさせられた、苦労させられた、という話が多いと思っていた。だが、出会った人たちは、淡々と体験談を語り、日本人がいかに悪かったか、という視点で描くことは難しかった。

 そこでさらに「悲惨さ探し」をしようとすれば、全谷介さんの話を聞いたときのように、「朝鮮人=悲惨な人生」というステレオタイプを壊すことを迫られる結果になった。日本人につらい思いをさせられた朝鮮人の話を綴ることで、加害者としての日本人の立場を問い直す、という当初のストーリーは、朝鮮人元坑夫やその未亡人に20人近く会った段階で、見直さざるを得なくなった。

▼語りの中に見つけた味わいと歴史の重み

 しかも、私たちが取材した範囲では、朝鮮半島から直接、丹波のマンガン鉱山に国家の計画による強制連行(徴用)をされてきた人は見つからなかった。唯一、強制連行で来たのは金甲善さんという人だったが、甲善さんが強制連行されたのは、マンガン鉱山ではなく、京都府亀岡市にあったタングステン鉱山だった。

 タングステン鉱山は、マンガン鉱山より規模がかなり大きかった。丹波のマンガン鉱山で強制連行があったかどうか、この取材だけで確定することはできないだろうが、丹波のマンガン鉱山は、いずれも規模が小さかったので、強制連行で労働者を集める必要はなかった、と私は推測している。

 貞鎬さんは団体客がマンガン記念館を訪れると、求めに応じて自分の体験談や鉱山の歴史について話をするが、そのときに言う言葉が「マンガン鉱山に強制連行された朝鮮人もたくさんいました」から、「炭坑などに強制連行され、その後マンガン鉱山にきて働いた朝鮮人も、たくさんいました」に変わった。

 ただ、本当に丹波のマンガン鉱山では強制連行がなかったかどうか、はっきりとは分からない。李龍植さんは「朝鮮人を坑内に入れたまま働かせ続けたとか、夜明け前から一日中、重い鉱石を朝鮮人に運搬させたとかいう昔話を、間接的にときどき聞くんです。そやから、私はやっぱり、強制連行や強制労働は、あったと思うんです」と言っている。

 朝鮮人の元坑夫たちが、日本人の鉱山関係者に世話になったという話も多かった。たとえば、マンガン記念館のある新大谷鉱山周辺の土地は、地元に住む川端敏夫さんの所有だが、川端さんは記念館の主旨に賛同し、貞鎬さんに土地を貸している。貞鎬さんが最初に鉱業権を取ったときは、同僚の日本人坑夫に名義を貸してもらった。貞鎬さんは外国人だから、個人で鉱業権が取れなかったためである。

 地質学の調査のため、マンガン鉱山を30年以上にわたって見てきた、京都教育大学の井本伸広教授は「鉱山関係者には、差別意識や偏見を持たずに朝鮮人とつき合っていた日本人が多かった。地域の日本人と朝鮮人との関係は、日本政府が在日朝鮮人を差別してきたこととは、分けて考えなければならないと思います」と言っている。  日朝合計で30人以上の人に会い、取材をしたが、悲惨な話は見つからなかった。私は行き詰まってしまった。

 閉塞を打ち破ってくれたのは、取材を録音したテープだった。話を聞いたときは、悲惨な話、日本人にひどい目にあった事例ばかりを探していたので気づかなかったが、一世の多くは、味のある人々だった。何人かは日本語がやや不自由だったが、たどたどしく、ぶっきらぼうな語りの中に味わいがあった。

 苦労話も、暗い話としてでなく、ユーモアのある体験談として聞こえた。淡々と体験したことを話していたが、そのためにかえって「歴史の重み」のようなものを感じた。話の間合いの取り方や、貞鎬さんと一世の人たちとの掛け合いの絶妙さも印象深かった。テープを聞き返すと、そのときの光景がよみがえり、笑いをさそった。

 考えてみると、在日朝鮮人一世の身の上話は、都会でサラリーマンをしている人々の個人史より、聞いていてはるかに面白い。一世たちの語りは、今の中年や若者には真似のできない。現代に生まれた私たちが失ってしまった人間味を持っていた。マンガン鉱山の興亡とともに生きた一世たちの個人史を中心に書いてはどうだろう。そう思い直し、再びワープロに向かった。



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