マンガンぱらだいす(3)田中 宇李貞鎬さんの「ほるもん事業」には、裏の部分もあった。京都市で損害保険の調査員をしている貞鎬さんの友人の宮尾一郎さんが、そのあたりの事情を知っていた。
保険には、事故の怪我や物損について損害の等級を決める、料率算定会という公的な組織がある。貞鎬さんは娘の怪我の等級を上げてもらうため、そこにも乗り込んだ。一族をつれて行き、係官に要求を断られると「あんなひどい怪我なのに、何でこれしか保険金がおりへんのや」「おまえら朝鮮人を差別しとんのか」などと、口々に怒鳴った。 お昼前になると「ちょっと昼飯の場所を借りるで」とか言って、職員の机を借りて、持ってきた弁当の包みを開ける。中にはキムチが入っていて、そのにおいが部屋中に漂って、職員はもう仕事どころではない。一日目は駄目だったので、翌日もまた押し掛けて、結局、等級が上がるまで、毎日一家で通い続けた。 貞鎬さんはそのころ、同じようなやり方で、交通事故の示談屋をしていた。在日同胞や鉱山の知り合いが交通事故にあったとき、保険会社や事故の相手と交渉して保険金を多く受け取れるようにする代わりに、手間賃をもらっていた。
▼孤児だった李貞鎬さん 李貞鎬さんは、自分の誕生日を知らない。育ての親だった伯父と伯母が言う誕生日が食い違っていて、どちらが本当か分からないからだ。外国人登録証には、伯父が教えてくれた誕生日が記載されている。
貞鎬さんの両親が日本に来るきっかけとなった「土地調査事業」は、明治43年に朝鮮を植民地にした日本が、その直後から朝鮮全土で実施した、地形、所有権、地価などについての調査である。それまで朝鮮には土地の登記制度が確立していなかった。そこに登記制度を導入し、税収入の増加を狙ったのである。 朝鮮の村では、共同所有地など所有権がはっきりしない土地が多く、急に登記せよといわれても無理だった。また、手続きは複雑で、農民が自分で申請することは難しかった。登記をしなかった土地はすべて、朝鮮総督府のものとなった。耕していた農民は、追い出されるか、高い小作料に泣かされることになった。多くの農民が、貞鎬さんの父母のように生活に困り、日本へ出稼ぎに行くことになった。 総督府に取り上げられた土地の多くは、後で国策会社である東洋拓殖株式会社に払い下げられた。東洋拓殖はさらに、日本からの移住者に土地を売り、日本の農家の二男、三男らがこの土地を買って、農業を始めた。朝鮮の村には日本人の地主が増え、土地を取られた朝鮮人が日本人を恨み、今も消えない根強い反日感情が残った。 朝鮮では、明治43年の日韓併合から、昭和5年までの20年間に、人口が約30%増えた。土地調査事業と人口の増加により、慶尚南道など南部の人を中心に、日本に出稼ぎに行くようになった。その数は昭和五年までで40万人近くにのぼる。 小学校に入学したばかりの昭和14年に、貞鎬さんと伯父一家は、京都市内から、京都府日吉町殿田に引っ越した。日吉町は丹波のマンガン地域にある町で、殿田は鉱石の集散地だった。当時は、マンガン鉱山の採掘が盛んになり出したころで、伯父は知り合いの朝鮮人を集め、採掘の請け負いを始めた。 伯父は事業家だった。マンガン鉱山の飯場経営のほか、戦時中には人夫を集め、軍需工事の下請けもしていた。今なら小さな建設会社のオーナー社長というところだろう。貞鎬さんは、伯父から企業家精神を受け継いだ。中学校を卒業した昭和23年から鉱山で働き出し、21歳になった昭和30年からは、伯父とともにマンガン鉱山の鉱業権を買って独立。初めはノウハウがなかったため、鉱石を高く売れず、失敗続きだったが、やがて大きな鉱脈を当てた。日本語が不自由な伯父の代理で、鉱業権を買う交渉もした。 伯父からの影響と、孤児として育ったという境遇からくる、頼るものがないという貞鎬さんの意識が、いろいろな「ほるもん事業」を展開し、マンガン記念館を作るエネルギーとなった。 貞鎬さんには、まだまだやりたいことがたくさんある。貞鎬さんが入院している病室には、新聞の切り抜きを張り付けたスクラップ帳や雑誌、近代史に関する本などが並んでいる。一ヶ月に10冊ぐらいの本を読むという。背表紙に「他山の石」と書いた厚いスクラップ帳には、各地の鉱山博物館や町おこし活動についての記事が貼ってあり、ほかに朝鮮人に関連するテーマの記事を貼ったノートもあった。病院にいる間も、次の「ほるもん事業」の計画に、頭をめぐらせているのだ。 たとえば、貞鎬さんの知人の鉱山技術者たちが講師になって、北朝鮮の鉱山で働く人たちを丹波に呼んで、鉱山跡を使って鉱山技術を教える学校を作りたい、という計画。だが、これは日朝関係が改善されない限り実現は難しい。それから、マンガン記念館で培ったノウハウを使い、自治体が鉱山の記念館を作るのを手伝うコンサルタント事業。これには京北町の隣の日吉町が乗りかけたが、「アイデアだけとられてしもた。わずかな金にしかならへんかった」。 なかなかうまくいかないが、アイデアは次々と湧いてくる。うまくいきそうだとなると、最近、病室に置くようになった携帯電話で息子の龍植さんを呼び出し、乗用車で迎えにこさせて、調査や交渉に出かける。アイデアマンを父親に持った息子も、なかなか大変だが、親孝行の心があつい龍植さんは、黙って父親についていく。 ▼良心派にとっての札所 記念館がオープンしたのはちょうど、強制連行や朝鮮人従軍慰安婦のことがクローズアップされ出した時期だった。日本の戦争責任を考える市民グループには、学校の先生が多い。それで記念館には、ドライブなどで訪れる人々に混じって、課外授業で先生に連れられてやってくる小中学生や、市民グループの団体も多くなった。在日朝鮮人が自分たちの歴史を残すために作った博物館は、日本でここだけしかないということも、遠くから人々がやってくる理由となった。 マンガン記念館には、朝鮮人が鉱山で過酷な労働をしていたということをはっきりと書いてある展示はほとんどない。看板やパンフレットにも「鉱山のロマンを実体験」「二億年の地底のロマン」などと、明るいうたい文句のみ。これは、日本の戦争責任の問題を取り上げると、拒否反応を示す客が多いのではないか、という配慮からだ。客が入らなければ商売にならない。下手に告発調の展示をすれば、スピーカーをがんがん鳴らす凱旋車がやってきて、営業妨害をしないとも限らない。 告発調の展示がないにもかかわらず、記念館に置いてある感想文ノートには、ざんげ調の文章が多い。「日本人がひどいことをしたことをすまないと思います」「在日朝鮮人の人たちにこんなひどいことをしたとは、ここに来るまで知りませんでした」。まるで奉納した写経か絵馬のように、同じような文章が並んでいる。日本の戦争責任を重く考える「良心派」の人々が書いたものだ。 それは、巡礼のお遍路さんが、自分たちの現世での罪を減らすために札所を回って写経をするのと何だか似ている。記念館は「良心派」の人々が訪れて貞鎬さんの話を聞き、ざんげの文章を書き連ねることで、自ら背負っている「原罪」を減らすことができる「戦争責任の札所」でもある。もちろん、記念館を作った李貞鎬さんが在日朝鮮人であるから、その札所としての価値が高いのである。 記念館がオープンすると、貞鎬さんは次第に有名になり、京都市内や大阪の市民団体が開く講演会や学習会に招かれるようになった。貞鎬さんの話を聞いた市民運動への参加者たちは、貞鎬さんたち坑夫の生活力や「生きるための知恵」を賞賛し、独力で記念館を作った貞鎬さんを讃えた。だが息子の龍植さんは、なぜ貞鎬さんがしきりに賞賛されるのか、どうも納得いかない。ある晩、龍植さんと飲みながら話していると、こんなことを言った。
龍植さんが「良心派」の日本人たちと比べ、マンガン記念館や坑夫たちのことを覚めた目で見ているのは、父親をはじめとする在日朝鮮人一世、二世たちの仕事ぶりを、つぶさに見てきたからだ。 在日朝鮮人は、差別されてきた。在日朝鮮人が経営している企業以外には、今でもなかなか就職できない。自分で事業を始めようにも、ほとんどの銀行は金を貸してくれない。生活していくためには、法律違反すれすれの、少々やばいことでもしなければならない。貞鎬さんが交通事故の示談屋をしたり、企業恐喝まがいのことをしてきたのも、そうした背景があったからだ。 だが、良心派の人々は在日朝鮮人のこうした各種のやばい事業について、詳しく知りたいとは思っていない。知ってはいけないし、在日朝鮮人にそのことを穏便に尋ねることすら良くないこととされている。それは、日本が朝鮮を植民地支配し、戦後も在日朝鮮人を差別してきたことについて、罪の意識を持っているからだ。良心派の人々の多くは、日本人には、朝鮮人を批判する権利が全くないと思っている。 こうした掟ゆえ、良心派の人々は、貞鎬さんのことを賛美することはできても、批判することはできない。「ほるもん事業」の闇の部分の存在を感づいても、貞鎬さんにそれをあれこれ尋ねることはタブーである。かくいう私も、そのタブーを長く感じていた。 龍植さんは、そういった良心派のいかがわしさを批判しているようだ。こんな風に書くと、龍植さんから「わしはそんな難しいことは考えてへんでっせ。難しいことを考えてる田中さんも、良心派の一人ちゃいますの?」などと指摘されそうではあるのだが。 ▼将来への不安 そこそこ有名になった記念館だが、経営は苦しい。平日など、店番をしている静子さんや、龍植さんの妻の富久江さんが一日中待っても、誰もお客さんがこない日もある。記念館の入場料は800円で、最近600円から値上げしたが、収入は知れたものだ。
龍植さんの本音である。お客を呼ぶために、新しい展示物を作ったり、雨の日に来た団体客が休める屋根つきの東屋を建てたり、けっこう金がかかるのだ。「良心派」の人々だけに来てもらっても、入場者数は知れたもの。李さん親子は、記念館をもっとレジャーランドのような、遊べる場所にしたいと考えている。 それで思いついたのが、かつて鉱石などを運搬するために、鉱山で使われていたトロッコの軌道を記念館の敷地内に再現して、子供たちがトロッコを押して遊べる施設を作る、という計画だった。丹波のマンガン鉱山の研究が専門で、李貞鎬さんと親しい、京都教育大学の井本伸広教授が、記念館の運営に関する知恵袋となって考えたものだが、資金難から軌道作りは途中で止まっている。 このままでは記念館は近い将来、たちゆかなくなるかも知れない。記念館の運営は、ぎりぎりのところで続けられている。
(続く)
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