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マンガンぱらだいす(2)

  田中 宇

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 龍植さんに、記念館の見学坑道を案内してもらった。坑道の高さは約2メートルだが、これは見学用に広げたもので、実際に採掘していたころの坑道は、高さが1メートル、幅は50センチほどだった。広げると仕事量が増えるため、狭く掘っていたのだ。「坑内は狭いので、中腰で歩かなければなりませんでした。鉱石を運ぶのも中腰で、その姿勢で30キロの鉱石を運ぶのは重労働だったんです」と、龍植さんが説明した。

 入り口から40メートルほど入ったところには、「ここまで掘るのに手掘りで2年半かかりました」と書いてある。手掘りというのはハンマーを振って、ダイナマイトを仕掛ける穴を開ける作業のことで、昭和30年代に削岩機が導入されるまでは手掘りだった。

 「毎日狭い坑道の先端でしゃがんでハンマーを振り続け、2年半かかって40メートルの穴を掘ったんです」という龍植さんの説明を聞くと、「2年半」とさらりと書いてあるが、実は大変な作業だったようだ。その作業のイメージは、手も足もないダルマになるまで、岩に向かって座り続けたという達磨大師の修行を思い起こさせる。

 しばらく歩くと、坑道が少し広がり、岩の間に、幅一メートル、長さ20メートルほどの割れ目が見えてきた。割れ目の底は、闇に消えて見えない。マンガン鉱脈を掘った跡だ。地中に斜めに鉱脈が走っていて、貞鎬さんがこの鉱山の採掘を引き継ぐ前の昭和20年代か30年代に、見学坑道から下に向かって掘ったものらしい。

 「ここを掘った坑夫も、朝鮮人が多かったんやないかと思います」と、龍植さんが言う。坑夫は毎朝、カンテラの灯を頼りに、支柱につかまったり梯子をかけたりして闇の先にある鉱床まで行き、一日中しゃがんだまま、狭い坑内でダイナマイトを仕掛けるための穴を掘っていた。掘った鉱石は30キロずつ麻で作った袋に入れ、背負って運び出した。

 薄暗い坑道をしばらく進むと右手に、家屋の縁の下に潜ったときに見えるような光景が見えてきた。水平ではなく、斜めに上に向かって広がっている。高さ70センチほどで、幅広く奥行きのある空間が闇に向かって伸びている。所々に天井の岩盤を支える支柱が林立しているため、縁の下のように見える。

 これは、上に向かって続く幅の広い鉱脈を掘った跡だ。鉱脈の幅は20メートルほど。木の支柱が無数に立ち並び、幽霊のように暗い光に浮かび上がる。不気味な雰囲気だ。「このあたりはいくつもの坑道が入り組んでいて、山の上の方の坑口にもつながっているんです」と、龍植さんが言う。坑内にはこのほか、地中の大聖堂とも形容できるような、大きな空洞や、かつて水を汲み上げて掘ったという、地下水の水面下に続く下向きの斜坑など、いくつもの掘り跡がある。

 お化け屋敷のような坑内の風景をいっそう異様なものにしているのは、あちこちに置いてある西洋人の顔をしたマネキン人形だ。これは、かつての採掘の情景を再現するために置かれている。中腰になって、鉱石を詰めた箱を押している人形。さざえの貝殻に油を入れた灯の光を頼りに、ハンマーで穴を掘っている、明治時代の採掘の様子を再現した人形など。それが全部、和服の作業着を着ているくせに、バタ臭くてカッコいい顔をしているので、何だかちぐはぐだ。

 とはいえ、西洋人が採掘をしていたわけではない。東洋人の顔をしたマネキンは値段が高いので買えず、デパートに置く普及品のマネキンを買ったので、こうなったのだという。

 マネキンだけでなく、資料館や、昔の坑夫たちの生活ぶりを再現した飯場の建物、京都に向かう国道脇に建てた大きな看板など、すべて素人仕立てである。看板の文字は手書きで、資料館の説明板の文章もぎこちない。いずれもその道のプロが作ったものでないことは一目瞭然だ。貞鎬さんたちの一家が、公的な資金援助を受けずに、記念館を独力で作ったので、こうなった。

 記念館のマネキンは、貞鎬さんの妻の任静子(イン・チョンジャ)さんが、電動ヤスリを使ってマネキンの手足の関節部分を斜めに削り、ポーズをつけたものだ。

 鉱山は「技術の百貨店」と呼ばれるほど、多くの種類の技術を必要とする。一家で鉱山を切り盛りしていた李さんたちは、建築や木工、土木、配線の仕事などを一通り、自分たちでこなすことができた。このことが、個人で博物館を作ることを可能にした。

 貞鎬さんはじん肺なので、激しく体を動かすことができない。そのため、工事は龍植さんたち息子が手がけた。「記念館を作るとき、ここに資料館を作れ、と言って、おやじが地面に足で線を描くんですよ、わしはそれを見て図面を引きました。でも、足で線を描くだけなら、曲がっていてもいいが、実際に作るときは、建物の敷地が正確な四角形になっていなければならないもんで、言うとおりに作れなくて、文句を言われたりしました。おやじについて行くのは大変です」とは、龍植さんの弁である。

 任静子さんは言う。「坑内は温度が低く湿っているので、肺が弱い主人は入れないんです。でも一回だけ、龍植がどうしても直接主人に坑内を見て欲しい、という場所がありました。主人は断層の表面を見て、模様の流れをつかんだだけで、マンガンの鉱脈がどこにあるか分かるほど、鉱山に詳しいんです。それで、ミルク缶の大きいのに炭火をガンガン焚いて、それを鉄の棒で主人の鼻の下にぶら下げて、暖かい空気が吸えるようにしながら、そろそろと坑内に入りました」。こんな作業を続けながら、2年間かけて家族だけで坑内を整備し、資料館を作った。

 貞鎬さんが体を張って、記念館を建てる資金を作ったこともあった。記念館が完成する少し前、貞鎬さんは交通事故にあった。思っていたより多くの保険金が保険会社から受け取れることが分かったとき、貞鎬さんは「これでマネキン人形が買える。これで人形が買える」と、友人に話して喜んでいたという。「自分の怪我の心配をするよりも、記念館のマネキン人形が買えることを喜ぶなんて、私は呆れましたよ」と、その友人は言う。

 日本各地には、閉山した鉱山の跡がたくさんある。最近は鉱山の跡を使い、採掘当時の様子を再現して、観光鉱山や鉱山博物館を始めるところが相次いでいる。そのほとんどは地元の市町村や鉱山会社、またはそれらが混ざった第3セクターが経営している。「町おこし」の美名のもと、実は町長の名を後世まで残すことを目的に、公共工事でこぎれいに作ってあるものの、中身は薄く、結局は建設会社が儲かっただけという博物館も多い。

 記念館はそのような主旨のものとは違う。むしろ、自分たちに都合の悪い歴史を忘れ、名ばかりの「町おこし」に励む日本人の忘却に、一矢報いようとする執念で作られたものらしい。

▼異端者の歴史

 李さん一家は、見たところ恐そうな感じがする人々だ。記念館ができてしばらくたったある日、パンフレットがほしいといって、町の職員がやってきた。記念館がマスコミに取り上げられ、役場に問い合わせの電話がかかってくるようになって、説明するのにパンフレットが必要になったという。

 いつも記念館のおみやげ販売コーナーに座っている静子さんが対応したが「役場の方は一回も坑内を見てなかったんです。だから私、怒りました。お宅ら、坑内を見もしないで、パンフの裏だけ読んだって、ろくな説明はできませんやろ。そんなんで、京北町においでになろうという方に、納得してもらえると思ってはるんですか、それとも、朝鮮人がやっていることだから、どんな説明でもええわと思ってはるんですか。坑内を見て、自分がどう思ったか、私に説明したら、パンフをあげましょう、と言ったんです。そうしたら、分かりました、と言って、帰りました」。普段は2人の孫娘と遊んだりして気さくな静子さんだが、怒るとすごい剣幕である。

 あるとき、自家用車で国道を走っていた静子さんは、速度違反のネズミ捕りに引っかかってしまった。警官が道の脇の納屋の陰に隠れて速度を測っていたのを見て、静子さんは「こそこそ隠れて取り締まるなんて、やり方が汚いやんか、と怒ったら、警官は、いや、仁川さんの奥さんとは気づきませんでした、と言ってたけど、結局切符を切られた。仁川の威光も落ちたもんだ」

 「仁川」というのは、李さん一家の通名である。もともと北朝鮮の体制に共鳴していた在日朝鮮人だから、京北署の警官は李さん一家の顔をすっかり覚えている。京都府警が平成6年初夏に、朝鮮総連の京都府本部に入って強制捜索をしたときは、前日の夕方、用もないのに京北署のパトカーが、巡回と称して記念館まで来たりした。李さん一家は監視される日々を送っているわけで、それに負けないように強気で対抗しているうちに、「仁川の威光」が発生したというわけだ。

 三男の龍植さんも、なかなかのものである。身長190センチ近い巨大な躯体で、頭はパンチパーマ。どすの効いた関西弁ですごまれると、かなり恐い。貞鎬さん、龍植さんと私の3人で乗用車に乗っていたときのこと。龍植さんが運転し、貞鎬さんは助手席にいた。と、道の脇から原付に乗ったおばさんが飛び出してきた。龍植さんは急停車して窓を開け、ものすごい形相で「コラーッ」。 おばさんは目を丸くしている。

 貞鎬さんは「まったくここいらのもんは、道路と家の庭の区別もつかん奴らばかりや」といまいましそうに言う。ヤクザの親分、子分と一緒に車に乗ったら、こんな感じなのだろうなあ、と思わせる光景であった。とはいえ龍植さんも、妻の富久江さんや2人の娘たちに対しては、子煩悩な優しいお父さんである。

 一家の人々が恐そうに見えるのは、よそ者に厳しい田舎町の京北町で、異端者として生活してきた歴史があるためだ。

 昭和40年代にマンガン鉱山が相次いで閉山してしまうと、林業と農業のほか、大した産業もない京北町で朝鮮人の元坑夫たちが生活していくのは厳しく、ほとんどが京都市内や大阪に引っ越していった。

 貞鎬さんも、他の坑夫たちと同じように、家族を連れて京都市内に出ることを考えたが、鉱石の市場価格が再び上がるかも知れないと考え、鉱業権を持ったまま京北町に残ることにした。マンガンは製鉄に不可欠な戦略資源だから、国際情勢が変われば国産品がまた必要になるかもしれない、という読みもあった(今のところ、まだその読みは当たっていないが)。

 貞鎬さんの頭の中には昔から、人が捨てるようなものを有効利用して事業をしよう、といういろいろなアイデアが去来していた。モツだとかタンだとか、豚や牛の内臓を焼いて食べる「ほるもん焼き」をご存知と思うが、あれは在日朝鮮人が戦後の食料難の時代に食堂を開いたのがきっかけで流行ったとされている。

 「ほるもん」というのは関西弁で、東京弁でいうところの「捨てるもの(放るもの)」のこと。日本人が食べないで捨てる内臓を使って料理にした、というのが「ほるもん焼き」の語源らしい。貞鎬さんがやったのはまさに鉱山のほるもん事業であった。

 マンガンの採掘が盛んなころは、品位の高い鉱石を掘り尽くした鉱山の鉱業権を買い、鉱石の相場が上がったときを見計らって、品位の悪い石でも売りさばいたり、坑道の支柱として残してある竜頭(りゅうず)と呼ぶ鉱石の柱を崩して売ったりした。坑内に電気を引き、地下水をくみ出しながら、地下水の底にある鉱石を掘り出したりもした。電気を引き込んだマンガン鉱山は、丹波では新大谷鉱山だけだった。

 品位の低い鉱石を機械で選鉱して、乾電池用に使えるように品位を高める試みをしたこともある。マンガンの選鉱は誰もやったことがなかったので、乾電池メーカーや通産局の技術者がおおぜい見学に来たが、乾電池に不可欠な成分が選鉱によって流れ出してしまい、失敗した。借金をしてつぎ込んだ金は無駄になってしまった。

 一家は、その後も新大谷鉱山を採掘をし続けたが、昭和53年についに鉱脈が切れた。一家でやっていた会社「白頭鉱業」(北朝鮮にそびえる白頭山から社名をとった)は倒産し、李さん一家は一時、奈良に住む長女の家に身を寄せていた。その後また採掘を試みたが、結局、鉱山で生活していくことはできなかった。

 鉱石が売れなくなってからは、坑道を使った事業を始めた。鉱山なんてもう誰も見向きもしなかったが、貞鎬さんは坑道が何かに使えるに違いない、と機転を効かせた。

 ある晩、家族がテレビで「なるほど・ザ・ワールド」という番組を見ていると、東京都八王子市で坑内をマッシュルームの栽培に使っているという話を、紹介していた。坑道内の空気は年間を通して13度から15度と、安定している。その温度がマッシュルーム栽培に適しているということだった。貞鎬さんはそれを見て「これや。これからここに行くで。お前ら車の準備をせい」と、息子たちをけしかけて、その晩のうちに出発し、夜中じゅう、高速道路を走って八王子まで話を聞きに行った。

 帰宅後、貞鎬さん一家も坑内でマッシュルームを作ってみた。坑口の脇に5棟のビニールハウスを建てて栽培したところ、どんどん栽培できた。だが、マッシュルームは関西ではあまり売れなかった。東京に送らねばならず、もっとたくさんの量を栽培しなければ採算がとれないということで、結局はうまくいかなかった。

 貫通した坑道を煙突に見立てて、自動車のバッテリーの鉛電極を燃やして溶かし、鉛の塊として再生する、小さな工場を作ったこともある。坑道にシャワーのような装置を取り付けて霧を発生させ、そこに鉛を燃やしたときに出る煙を通すことで、煙に含まれている有害物質を取り除けるはずだった。「ところが、建屋を作って始めようとしたら、町内で反対運動が起きた。回りの木が枯れるっちゅうんだが、そんなことはない。嫌がらせや。建屋も使わないうちにお釈迦や」。仕方がないからその材料を使って、今住んでいる家を作った。

 古タイヤを処分したら、一本につき600円払うと持ちかけた自動車整備業者がいた。貞鎬さんは、鉱石の掘り跡にタイヤを詰め込むことを思いついた。だが、京都府に許可をもらいに行ったら、20センチ角以下に切り刻まなければ、廃棄物処理の許可を出せないと言われ、採算が合わず実現しなかった。

 金鉱山の試掘もやった。鳥取県倉吉市の山の中でウラン鉱石の試掘をしていた人から「試掘中に金鉱が発見されたが、ウランが見つからなかったので放置した」という話を聞いた。貞鎬さんが試掘坑を掘った時に出た残土を分析すると、確かに金が含まれていた。

 そこで昭和53年に金鉱の試掘権をとって、家族全部で倉吉に引っ越した。飯場を作って生活しながら、貞鎬さんと3人の息子と娘婿の合計5人がかりで坑内を探した。だが、坑内は奥で無数に枝分かれしており、古くなって危険な支柱を入れ替えながら少しずつ坑内を進むのは、ぼう大な時間がかかった。資金がなくなると京北町のマンガン鉱山に戻り、しばらくしてまた倉吉に行くという生活を2年間続けたが、結局見つからず、あきらめた。

 事業を次々に思いつくが、なかなかうまく行かない。生活に困り、一家でトラックに乗り、町内の廃品回収もしたが、これも田舎では廃品が少ないので失敗した。農家が多い田舎町では、貞鎬さんのような人は奇異な存在だった。孤立無縁の状態が続いた。

 そんな貞鎬さんが、鉱山を使った事業として最後に考えたのが、マンガン記念館だった。この、最後の「ほるもん事業」は成功した。マンガン記念館には開館直後から、マスコミが取材に来るようになった。虐げられてきた在日朝鮮人が自分たちの歴史を残すため記念館を作った、というストーリーが、ジャーナリストたちの正義感をくすぐったのだ。ニューヨークタイムスまでが取材に訪れ、大きな記事が出た。記念館の展示室には、その記事が誇らしげに掲げてある。かく言う私も、通信社の記者として記念館を取材し、記事を書いた一人だった。



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