ロシア学校占拠事件とチェチェン紛争2004年10月1日 田中 宇この記事は「ロシア学校占拠事件とプーチン」の続きです。 学校占拠事件を起こしたバサエフの経歴を見ると、ドン・キホーテのような人物であると感じられる。スペインの作家セルバンテスが描いたドン・キホーテは、世の中の不正をただし、虐げられた人々を助けようと諸国を遍歴する騎士で、理想に忠実であろうとするがゆえに、各地で悲劇や喜劇を引き起こしてしまう。バサエフは、ゲリラ戦で理想を達成しようとした点で、チェ・ゲバラにも似ている。 祖父の代からロシアに対する抵抗運動を続けてきた家系に生まれたバサエフは、1991年8月の共産党とエリツィンが対決したクーデターのときエリツィン側について戦った。その3カ月後、故郷のチェチェンで独立運動が起き、エリツィンがロシア軍を派遣して弾圧しにかかるとバサエフは反エリツィンに転じ、チェチェンでロシア軍と戦うゲリラ組織を結成し、正規戦では勝てないのでアエロフロートの国際線の旅客機をハイジャックし、国際社会にチェチェン独立運動が存在していることを知らせる役割を果たした。 翌年、バサエフはカフカス山脈を越え、隣国グルジアからの独立戦争を行っているアブハジア地方のゲリラを応援しに行った。92年10月にグルジア軍を打ち負かし、バサエフの軍勢はアブハジアに残っていたグルジア人住民数千人を民族浄化のために殺したといわれる。グルジアが弱体化するのは北隣のロシアも賛成で、バサエフはアブハジアにいる間、ロシアの特務機関から支援を受けていた。(関連記事) アブハジアの戦いで成功をおさめたバサエフは、チェチェン人らの軍勢を引き連れてアゼルバイジャンに転戦し、隣国アルメニアとの戦いに協力した。1994年にチェチェンにロシア軍が侵攻したのを受けてチェチェンに戻り、ゲリラ戦を展開して96年には首都グロズヌイからロシア軍を撤退させた。この間、95年には手勢を引き連れて南ロシアに潜入し、ブジョンノフスクの病院で患者ら2000人の人質をとって立てこもる占拠事件を起こした。これも国際社会からのチェチェンに対する注目を集めるための作戦で、これ以降、占拠事件はバサエフの得意な戦術となった。(関連記事) ロシア軍が撤退してチェチェンが事実上独立した後、バサエフは96年12月の大統領選挙に出馬するが、穏健派のマスハドフに破れた。その後、チェチェン社会の内部抗争が激しくなり、誘拐や殺人などの犯罪が増えたため、97年末にマスハドフ大統領は治安維持の役割を期待してバサエフに首相をやってもらったが、期待に反してバサエフは十分な働きをせず、半年で解任された。 マスハドフはロシアからの完全独立よりもチェチェン社会の安定を重視し、ロシアにある程度は譲歩する姿勢をとっていたのに対し、バサエフはロシアを帝国主義であるとして徹底的に嫌い、ロシアからの完全独立のために戦い抜くべきだと主張し、マスハドフを批判するようになった。 ▼ロシアの政治を動かすためチェチェン侵攻を起こす 1999年8月、バサエフは数百人のゲリラ勢力を率い、チェチェンの東隣のダゲスタン共和国に侵攻した。バサエフの意図は、ダゲスタン人の支持を取りつけた後、ダゲスタンをロシア連邦から独立させる戦闘を開始し、その戦いをてこにチェチェンの独立運動を再燃させ、ロシアのカフカス地方全体をロシアからの独立に導くことだったと思われる。 だが、バサエフはダゲスタン人の支持を集めることができず、ロシア軍の空爆を受け、バサエフの軍勢は短期間で撤退を余儀なくされた。ダゲスタン侵攻はチェチェンの政局をも不安定にし、混乱を収める名目でロシア軍がチェチェンに再び侵攻し、ロシアの介入は現在まで続いている。 この戦いは、いくつかの外部勢力によって支援されていた。その一つはオリガルヒ(大富豪)のベレゾフスキーで、彼はダゲスタン侵攻の直前にバサエフに100万ドルを渡したという目撃証言がある。(関連記事) ベレゾフスキー自身は、バサエフを資金援助したことは認めているが、それはチェチェンの再建のためで、ゲリラ活動に対する支援ではなかったと述べている。しかし、世の中のロシア・ウォッチャーたちはそう見ていない。バサエフがダゲスタンに侵攻し、その帰結としてロシア軍がチェチェン侵攻することは、ベレゾフスキーにとって、自分の息のかかった人物をエリツィンの後任のロシア大統領に据えるために必要だった。 資産とマスコミ支配力を持っていたベレゾフスキーは1996年の大統領選挙でエリツィンを再選させ、その後はエリツィン政権を牛耳る存在となった。だがエリツィンは心臓病など健康問題があり、早めに後任を決める必要があった。当時のロシア議会ではまだ共産党の力が強く、共産党と折り合いをつけながらエリツィンの後任を探したが、なかなか適任者はいなかった。1998年から99年にかけて、チェルノムイルジン、キリエンコ、プリマコフ、ステパシンといった人々が次々に首相に任命され、大統領の後継者として浮上したが、いずれも短期間で辞任に追い込まれた。 アメリカで戦争好きなブッシュ大統領を熱烈に支持する国民が意外と多いのと同様、ロシアではチェチェン紛争を軍事的に解決しようとする強硬派が国民の支持を集める傾向があった。だが実際のところ、ゲリラ戦に長けているチェチェン人をロシア軍の武力で黙らせることが不可能だということは、それまでのロシア軍のチェチェン侵攻で証明済みだった。そのため1999年5月に首相に就任したステパシンなどは、チェチェン問題を交渉で解決しようとし、チェチェンの大統領だったマスハドフと交渉し、エリツィン・マスハドフ会談を実現しようとした。(関連記事) こうした方法は現実的だが、選挙でステパシンを勝たせる方法としてはうまくなかった。そこでベレゾフスキーは、チェチェンを混乱させてロシア軍が侵攻せざるを得ない状況にするため、ダゲスタンに侵攻しようとしていたバサエフを秘密裏に資金援助したのだと思われる。ダゲスタン侵攻が始まると、その責任をとらされるかたちで1999年8月にステパシンは首相を解任され、代わりにFSB(元KGB)出身のプーチンが首相になった。プーチンはベレゾフスキーが望むような強硬策を採り、4カ月後の99年末にはエリツィンが大統領を辞任し、翌2000年3月の大統領選挙でベレゾフスキーはプーチンを支援し、当選させた。 だがその後、ベレゾフスキーらオリガルヒの飼い犬になるはずだったプーチンは、大統領の権限を使って逆にオリガルヒを次々に追い出す戦いを開始し、結局ベレゾフスキーはロンドンに亡命を余儀なくされた。プーチンにだまされたベレゾフスキーはその後、2002年のモスクワ劇場占拠事件や今回の学校占拠事件などのテロ作戦を繰り返したバサエフを支援することで、プーチン政権に揺さぶりをかける戦略に転じたのだと思われる。(関連記事) ▼アフガンからチェチェンに転戦したイスラム主義者 バサエフを支援したもう一つの勢力は、オサマ・ビンラディンらアラブのイスラム原理主義の勢力である。チェチェン人の多くはイスラム教徒だが、彼らの信仰は、イスラム以前からあったアジア的な信仰の上にイスラム教の皮がかぶせられた「スーフィズム」である。自然物に対する礼拝や、諸国放浪などを行う修行僧の存在など、日本の伝統信仰にも似た様式を持っている。 これは、サウジアラビアのワハビズムなど、コーランと預言者マホメット(ムハマンド)の言葉以外のものを信仰の対象にしないという厳格な考え方に基づくイスラム主義(イスラム原理主義)とは異質であり、かけ離れている。イスラム主義者の多くがスーフィズムを嫌悪し、攻撃対象とみなしている(イランやイラクのシーア派もスーフィズムの一種と考えられ、イスラム主義者はから敵視される傾向がある)。 だが、今のロシアの前に存在していたソ連はあらゆる宗教を迷信として弾圧しており、その関係で1970年代半ば以降、イスラム主義者たちはソ連を敵視し、チェチェンやアフガニスタンなどで起きているソ連に対するイスラム教徒の抵抗運動を支援する傾向を強めた(アフガニスタンのイスラム教も、もともとはスーフィの影響が強かった)。 この傾向をソ連との冷戦に応用したのがアメリカで、1979年のソ連軍のアフガン侵攻に対抗し、アメリカはアフガニスタンのイスラム・ゲリラ(ムジャヘディン)に武器や資金を支援し、親米国だったサウジアラビアの王室は若きオサマ・ビンラディンをアフガンに送り込んだ。この流れは、ソ連崩壊後、チェチェンの独立運動が活発化するとともに、ビンラディンの勢力がチェチェンにも入ってくることにつながった。 1999年のバサエフによるダゲスタン侵攻の際には、サウジアラビア出身のエミール・ハッタブというイスラム主義者のゲリラ指導者とその手勢が、バサエフとともに従軍した。ハッタブは1980年代にムジャヘディン・ゲリラとしてアフガニスタンでソ連軍と戦って成果を挙げ、ビンラディンの側近に見込まれてチェチェンに送り込まれてきたとされている。(関連記事) ビンラディンが3000万ドルの軍資金や武器をバサエフに提供したという指摘もある。バサエフ自身はイスラム主義には関心がなかったが、ロシアとの戦争に協力してくれる勢力とは誰とでも組むという姿勢だったのだろう。(関連記事) ダゲスタンでは人口の4%程度がワハビズムを信仰しているため、ビンラディンはダゲスタンにイスラム主義者のゲリラ解放区を作り、アフガニスタンを追い出されたらダゲスタンに移住して来るつもりだったという指摘もある。だがダゲスタンには、ロシアと戦争してまでも独立を勝ち取りたいという気持ちの人が少なく、バサエフとビンラディンの計画は失敗した。 ▼社会を混乱させて強くなるイスラム主義 チェチェンを中心とするロシアの北カフカス地方が混乱すると、カフカス山脈の南側のグルジアやアゼルバイジャンに対するロシアの影響力が減退する。アゼルバイジャンのカスピ海油田の石油をグルジア経由で欧米に運び出そうとしているアメリカやイギリスにとっては、南カフカス地方からロシアの影響力が減った方が良い。チェチェンの独立運動を支援する動きがアメリカで強いことの背景には、そうした事情もある。 ダゲスタン侵攻の失敗後、チェチェンの人々は、アラブ諸国からイスラム主義者がやってきてチェチェン独立を支援してくれることをあまり歓迎しなくなった。チェチェンでは、イスラム主義者が地元の人々に対し、スーフィの廟にお参りするなとか、外出する女性に髪をすっぽりおおうベール(ヘジャブ)を着用させろなどと強要し、人々から嫌がられる事態も起きている。(関連記事) ベスランの学校占拠事件では犯人のうちの2人はアラブ人であると発表された。その後もロシアでは地元のワハビズム信仰者によるテロ活動が起きている。チェチェンを含むロシアの大多数のイスラム教徒はイスラム主義に賛同していないと考えられるが、一部のイスラム主義過激派がカフカス地方などロシアのイスラム地域を不安定化させてしまう恐れは十分にある。(関連記事) バサエフが学校占拠事件を起こす場所として北オセチア共和国を選んだのは、北オセチアのロシア正教の人々と、となりのイングーシ共和国のイスラム教徒の人々の間にある歴史的な紛争を再燃させ、カフカス地方全体を不安定にしようと狙ったのかもしれない。1999年にチェチェンの東にあるダゲスタンに侵攻したように、今回はチェチェンの西にあるイングーシと北オセチアに混乱を広げようとした可能性がある。 (イングーシ人は1940−50年代にスターリンによって中央アジアに集団強制移住させられ、彼らが住んでいた土地はソ連当局によって西隣のオセチア人に与えられた。ソ連崩壊後、イングーシ人がオセチア人に取られた土地を奪い返そうとして地域紛争が起きた) チェチェンの独立運動を見ていると、イラクのクルド人の独立運動と共通する悲哀を感じる。クルド人がイラクのフセイン政権から独立しようとする運動は、フセイン政権を倒そうとするアメリカのネオコンやイスラエルに便利に使われた挙げ句、いざフセインが倒されてみると、クルドの独立は中東全域の国境線の引き直しと大混乱につながりかねないのでダメだという話にになってしまった。チェチェンの独立運動も、欧米がロシアを弱体化させておく戦略や、カスピ海油田の利権を欧米が握るための戦略に使われているだけではないかという懸念を感じる。
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