世界から人材を集めなくなったアメリカ2004年5月25日 田中 宇さる5月4日、アメリカ政府内の科学技術振興のための機関である国立科学財団は「911事件以来、アメリカで科学技術の研究を行おうとする外国人の学者や技術者、学生に対して米政府がビザ発給を遅らせているため、アメリカの科学技術の発展が阻害されている」とする報告書を発表した。報告書によると、米政府が2001年に発給した学生ビザ数は前年比20%の減少で、その後もビザの発給数は減りつづけている。 アメリカは昔から移民の貢献によって発展してきた国であるが、科学技術の分野では特にその傾向が強い。第1次大戦以降、ヨーロッパの戦火を逃れてアメリカに移住してくる人々が増え、この中に含まれていた能力のある科学者たちがアメリカの研究所の水準を高めた。第2次大戦後、アメリカが世界で最も豊かな国となった後は、さらに多くの学者が世界からアメリカに集まるようになった。アメリカの豊かな研究環境が科学者を集め、彼らの研究成果でアメリカがさらに豊かになるという好循環になった。 産業技術だけでなく、原爆に代表される軍事技術の発展にも移民の学者の貢献が大きい。2001年には、全米の大学の科学技術分野の博士号の35%が外国人に与えられている。アメリカの科学技術の発展は世界から優秀な頭脳を集めることによって成り立ってきたわけで、米政府がテロ対策を理由にビザの発給を制限していることは、アメリカの科学技術研究を窒息させかねない状態だと報告書は指摘している。(関連記事) 同様の報告書は、大学の連合体などからも出されている。いずれも同じ傾向を示しており、全米の大学の60%で2003−04年に海外学生の申請が落ちており、特に大きな25の大学のうち9校では、申請率が30%以上落ちている。 ▼アメリカの国力低下につながるビザ制限 加えて問題になっているのが「国家の安全」に関わる分野の研究を行っている外国人の科学者に対し、テロ組織の関係者ではないことを確認するための審査を1年ごとに義務づけたことだ。この審査には2カ月以上の期間がかかり、しかも米国内にとどまったまま審査を受けることができない。大学では一つの研究を行うのに数年かかるケースが多いが、外国人の科学者たちは毎年審査を受けるために2カ月以上母国に戻らねばならない状態になっている。米当局は「国家の安全」に関わる分野が、どの分野の研究なのかという点を機密にしており、この審査の制度が妥当なものかどうか分からない、と政府内でも批判されている。(関連記事) また、外国人が学生ビザを申請する際には、母国にあるアメリカ大使館に出向いて面接を受けることが義務づけられるようになったが、この新制度を導入するに際して米政府は各大使館のビザ担当者を増員していないため、面接の順番待ちのためビザ発給までに数週間余計にかかるようになった。面接は、テロ組織の関係者でないことを確かめるためとされているが、全世界の全申請者が面接を受けねばならない体制は意味がないと英エコノミスト誌は批判している。(関連記事) エコノミスト誌は、アメリカのイラク占領をいろいろな詭弁で正当化してきたタカ派の雑誌だが、同時に「財界寄り」でもある。アメリカの経済発展を明らかに阻害するビザ発給の障害に対しては、アメリカの大企業の経営者たちにとって悪影響が出るため、このテーマでの米政府批判となったのだと思われる。 国別にみると、中国とインドからアメリカの大学に入ろうとするビザ申請に対して、最もひどい遅れやビザ発給の拒否が行われているという。特に中国が標的にされているが、中国はテロ容疑者の多い国ではないため「ビザ発給の遅れや拒否は、テロ対策ではなく別の理由で行われているのではないか」という見方が出ている。(関連記事) 「別の理由」としてまず考えられるのは「中国敵視政策」であるが、私にはむしろ、これまで中国は経済面でアメリカに頼りすぎてきたところがあり、アメリカがイラク占領に(意図的に)失敗して沈没し、その分他の大国の覇権が拡大することで「国際協調体制」を作ろうとしている感があるアメリカの中道派としては、そろそろ中国にアメリカ頼みを「卒業」してもらう必要があるという意味で、ビザ発給を制限しているようにも感じられる。全体としてビザ発給の制限はアメリカの技術力、ひいてはアメリカの覇権力の低下につながり、それ自体が「国際協調体制」作りに貢献している。 ▼研究開発分野にみるアメリカの衰退 911後にビザの問題が起きる前から、科学技術の分野ではアメリカの衰退が始まっている。アメリカで書かれる科学技術分野の論文数はここ数年横ばいを続けており、2003年にはついに前年比マイナスとなった。これに対して英独仏のヨーロッパ勢が書いた論文数は増え続け、1980年代からの20年間で毎年書かれる論文数は倍増している。アジアでは、日本が10年間で論文数を倍増させたほか、最近では中国や韓国の学者が書く論文も急増している。(関連記事) しかもブッシュ政権のアメリカでは、政府の研究開発費が増えたのが国防総省、NASA、国土安全保障省という防衛関係の3つの役所の管轄分野に限られており、それ以外の分野の研究開発費は削られる傾向が続いている。米民主党は「ブッシュ政権の科学技術振興策はあまりに不十分なので、アメリカの科学技術力は衰退しつつある」と批判している。 前出の国立科学財団による別の調査によると、アメリカで書かれた科学技術の論文の数は1992年をピークに減少傾向が続いている。その代わりに世界最大の論文作成勢力となったのがEUで、1990年代半ばに年間の論文数がアメリカを追い越した。産業分野の特許申請数も、世界に占めるアメリカの割合が低下し、代わりに日本や中国、台湾、韓国などが増えている。ノーベル賞の受賞者数の変化も同様の傾向だ。 これは、アジアやヨーロッパが経済発展し、技術力でもアメリカに追いついてきたことを示しており、科学技術分野の米政府顧問は「アメリカは自国の衰退に対処していく必要がある」と指摘している。こうした傾向の中、アメリカや研究者や学生にビザ発給を制限したことは、科学技術分野におけるアメリカの衰退を加速させかねない。(関連記事) ▼アウトソーシングと産業空洞化 ビザ発給を制限されて困っているのは学界だけではない。ハイテク業界などの産業界も困っている。これまでアメリカの大学には、中国、インド、台湾、韓国などのアジア諸国から優秀な学生がたくさん入学し、卒業後もアメリカにそのまま残ってシリコンバレーなどで技術者として働き、彼らがアメリカのIT産業を支えてきた。だが、ビザ発給が制限されるようになった結果、それ以前から起きていた本国回帰の動きが強まった。アジア諸国からアメリカの大学に集まってきた若者たちは、卒業後に母国に戻り、母国のハイテク産業で働く傾向が増えた。(関連記事) こうした動きに加え、インドや中国の政府は国内にハイテク産業を誘致しようと法人税の減免措置などを行っており、それらにひかれてアメリカのハイテク企業が次々とアジアに開発拠点を新設・拡大している。アメリカでは、この動きが「アウトソーシング」と呼ばれ、国内の労働市場を犠牲にしているとして、この動きを止めない共和党ブッシュ政権に対し、民主党や労働組合などから批判が出ている。(関連記事) アウトソーシングは、IP電話やインターネットの登場で海外との通信料金が格安になったことで加速したが、移転先として特に注目されているのは、英語を話せる人が多く、しかも「ゼロの発見」以来、科学に強い人々が多いとされるインドである。IBMやマイクロソフト、オラクルといったアメリカの有力なハイテク企業がこぞってインドに開発拠点を設けるようになった。大統領選挙を11月に控える米政界では、雇用問題が焦点になりやすい時期で「米国内の雇用が減ることを止めるため、海外アウトソーシングを抑制する法律を作るべきだ」「シリコンバレーの雇用の6分の1が海外に流出しそうになっている」といった主張が出ている。(関連記事その1、その2) 政治的な批判を避けるため、アウトソーシングを進める企業は、こっそりとやる傾向がある。インドのハイデラバードにある開発拠点の規模を3倍に拡大しつつあるマイクロソフトは、従業員の送迎用のマイクロバスの車体に大きく刷り込んであった社名を消したという。IBMでは、米国内の16万人分の仕事のうち4万人分を来年までに海外に移転させる構想だが、IBM自体はこれを発表したがらず、労働組合からのリークで暴露された。(関連記事) タイムワーナー、CNN、FOXといったアメリカのメディア系大企業は、コンテンツの多くを同じ英語圏のインドの制作会社に作らせている。これらの米企業は、他人のアウトソーシングを批判する記事をネット上に載せる一方で、その記事自体がインドからアップロードされていることについては口をつぐんでいる。 インドの給与水準はアメリカの4分の1以下で、米企業は費用削減が可能になる。企業は、株価の上昇につながる費用削減を積極的に発表したがるのがふつうだが、海外アウトソーシングの件は政治的なスケープゴートにされかねないので黙っている。(関連記事) 従来は、米企業がインドや中国に発注している仕事は、下請け的な色彩の強いものやメンテナンス関係が多かったが、しだいに最新技術の開発なども移転するようになってきており、この傾向が続くとアメリカの産業は空洞化が進む。この空洞化はアメリカの中産階級から仕事を奪い、ホワイトカラーの給料を低下させ、アメリカの貧富格差を拡大することになる。(関連記事) アメリカの苦境を尻目に、インド政府は、これまで海外、特に欧米に移住して住んでいたインド系の人々に、経済発展が軌道に乗りつつある母国に戻ってきてもらおうとしている。インド政府は市民権法を改訂し、二重国籍を認めるようにした。これにより、欧米の国籍を持っているインド系の人々が、インドに移り住んみやすくなった。これまで欧米に住むインド系の人々の間では「母国に戻っても良いが、そのために欧米の国籍が失われるのはいやだ」という意識があった。(関連記事) ▼アメリカは訪問者を歓迎しない? アメリカの発展が移民や外国人に支えられてきたことはすでに書いたが、911以来、アメリカが移民や外国人を冷遇する傾向は、他の分野でも如実になっている。 その一つは、外国人がアメリカに入国する際に指紋を採取するなどの条件を厳しくしていることだ。これに対しては「テロ対策なのだから仕方がない」と感じる人も多いだろうが、実はこれはテロ対策にあまり役立っていない。たとえば911事件に関連して裁判にかけられているザカリアス・ムサウイはモロッコ系のフランス国籍で、フランスの旅券を持っていたが、フランス人はアメリカ入国時の指紋押捺を免除されている。(関連記事) また米政府の国土安全保障省は最近、150億ドル(2兆円弱)をかけて、アメリカに入国した外国人が、入国後にどこにいるか、クレジットカードの使用情報などからいつでも監視できるシステムを作り、違法な長期滞在や怪しい行動を防ぐ体制を組もうとしている。このシステムは明らかに外国人の人権やプライバシーを侵害しているが、それ以前に、アメリカに入国する年間3億人の日々の動きの情報をすべて網羅したデータベースを作ることが可能なのかどうか、ということも疑問視されている。これらの政策は、テロ対策というよりも、どうも米当局が世界からアメリカに来る人々の流れを抑制しようとしているように感じられる。(関連記事その1、その2) たとえばこんなこともあった。米当局は昨年末、フランスなどからアメリカに向かう飛行機に3人のテロ組織の関係者が乗っているとしてアメリカへの着陸を禁じたが、アメリカが「テロ関係者」と指摘した名前は、5歳の子供と中国系の老婆など、すぐに無関係と分かる人々だった。仏当局はそのことを米当局に知らせたが、パウエル国務長官からの返事は「とにかくその飛行機はアメリカの領空には入れない」の一点張りで、まるで奇妙な対応だった。(関連記事) アメリカでは、移民に対するしめつけや批判も厳しくなっている。特に高まってきたのが、メキシコからの移民に対する批判だ。これについては改めて書きたい。
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