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イラク日記(3)表敬訪問

2003年1月12日   田中 宇

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○2003年1月7日(火)

 1月6日、ヨルダンからイラクに入国し、夕方バクダッドに着いた私たちは、市内の最高級ホテルの一つであるラシード・ホテル(Al Rasheed Hotel)にチェックインした。

 6日の昼に国境に着いてみると、私たちのイラク訪問は、イラクのNGOである「友好平和連帯協会」( Organization of Friendship, Peace and Solidarity / Iraq )による招待という形式をとっていることが知らされた。ホテルでの宿泊代と食事代も、私たちに代わってこの協会が行ってくれるという。また友好協会は、翌日からガイドと運転手つきのぴかぴかの自動車2台(韓国の現代自動車)を毎日派遣してきて、私たちが行きたいところに、なるべく行けるようにしてくれた。私たちの車には、ときどき地元の政府系新聞の記者が便乗し、私たちの活動を取材した。

 翌7日の朝から毎日派遣されてきたガイドは、イラク外務省の人であった。私たちの受け入れは、政府ぐるみで行われていた。友好協会はNGOを名乗っているが、それは海外のNGOとつき合う際にNGOどうしだと都合がいいからつけた肩書きで、実際は政府機関に近い組織であると思われた。

 私たちがバクダッドに着いた日やその翌日から、ラシードホテルのフロント周辺では、欧米やアフリカなどから反戦平和運動のNGOが団体で続々と到着する光景を目にした。彼らは、アメリカの侵攻を思いとどまらせるための「人間の盾」としてイラクにやってきている人々だった。

 前々回の記事に書いたが、イラク側は彼らを歓迎して、ホテル代を出すと発表している。この「人間の盾」を受け入れるイラク側の組織が友好協会だった。私たち自身は「人間の盾」を名乗っていなかったが、それに準じる存在として、ホテル代金を友好協会が払ってくれることになった。

▼「日本はイラク侵攻に反対した方が良い」

 バクダッドに着いた翌朝(1月7日)、私たちがまず行ったのは、市内中心部のチグリス河畔にある友好平和連帯協会の本部だった。本部の周辺はオスマン帝国時代からの古い町並みで、協会の本部は、れんが造りの瀟洒な建物だった。イギリス統治時代の建物だろうと思って建造年代を尋ねたら「16世紀です」という答えが返ってきた。中世の建物の中に事務所があるのだった。

 ここで私たちは、友好協会のハシミ会長に面会した。面会の冒頭には、テレビ局のカメラが入って撮影した。堀越上人は、1月17日にチグリス河畔で灯籠流しをやりたいと考えており、イラクの子供たちが描いた絵で灯籠の周囲を包みたいので、市内の小学校に行って子供たちに絵を描いてもらいたい、などとハシミ会長に伝え、了承を得た。堀越上人は一応英語ができるものの、込み入った話になると分からない(ふりをする)ので、私は通訳の役として上人の隣に座らされた。

 ハシミ会長は、日本政府が湾岸戦争以来、アメリカの側についているのは残念だ、と言った。アメリカはイラクの石油利権を自分たちのものにするためにイラクを破壊しようとしており、イラクの後はサウジアラビアなどの油田も自国の直接支配下に置こうとしている。日本はこれまで中東諸国と直接取引し、お金さえあれば石油を買えたが、中東におけるアメリカの野望が実現したら、日本はアメリカに忠誠を誓い続けないと石油を買えなくなる。アメリカは中東の主要な油田をすべて直接支配することで、日本や西欧がアメリカに従属せざるを得ない状態を作ろうとしている。だから日本はアメリカのイラク侵攻には反対した方が良い。ハシミ会長は、そんな風に語った。

 もう一つハシミ会長が強調していたのは、宗教の和合のことだった。イラクはスンニ派、シーア派、キリスト教徒など、さまざまな宗教の複合体だが、和合を重視しているのだと強調していた。

 2年ほど前、アフガニスタンでタリバンがバーミヤンの巨大石仏を破壊したが、あれはイスラム的な行為ではないと言う。タリバンは何年間もアフガニスタンを統治していたのに、ずっと石仏は無事だった。石仏が壊されたのはタリバンが政権を追われる半年前のことで、そのころから始まったアメリカの謀略によって、タリバンは石仏を破壊せざるを得ない状況に追い込まれたに違いない。イスラム教徒は、あなたがた仏教徒と友好関係を望んでいるのに、アメリカの策動によって大仏が壊されてしまった、とハシミ会長は述べた。

▼突然の副首相会談

 こうした話をひとしきりした後、ハシミ氏は私たちに「今日の午後1時から、アジズ副首相と面会していただきます」と言った。アジズ副首相といえば、イラクで何番目かの権力者である。なぜ、頼みもしないのに、いきなりそんな偉い人に会うことになったのか。

 外務省から来た案内人のフセイン氏に尋ねたが「副首相はなるべく多くの平和代表団に会うようにしている。副首相の日程と、あなた方の日程が合ったので、会えることになった」「先日バクダッドに来た田原総一朗氏は、副首相に会うためだけに2日間ホテルで待たされた。それに比べるとあなた方はラッキーだ」などと言うばかりだった。(あとでテレビ朝日の方に聞いたところでは、田原さんは2日間も待たされなかったそうだ)

 面会の意味が分からないまま、一時は当惑したが、あとで考えてみると、イラクには宗教の和合があるということを示すため、アジズ副首相や友好協会が日本から来た仏教徒の一団を歓迎した、というニュースを流すことが目的ではないか、と思った。

 フセイン政権は、多宗教・多民族国家で潜在的に反政府勢力が出てきやすいイラクを、弾圧なども行いながら何とか一つにまとめているが、北部のクルド人が事実上の自治を維持しているように、国内の宗教や民族の問題は、イラクが統一を維持する際の弱点である。アメリカの後押しで先月ロンドンで開かれた亡命イラク人諸組織の会議では「フセイン後」の新政権でシーア派やクルド人、アッシリア人などマイノリティ勢力にも議席を配分するという方針を打ち出し、イラクのマイノリティ勢力を親米・反フセインの方向に傾けようとしている。

 こうした動きに対抗するため、フセイン政権は国内外に対して「宗教上のマイノリティを邪険にしません」という宣伝を行う必要に迫られている。その宣伝の一つとして、アジズ副首相が堀越上人と歓談する光景をテレビで流したいのではないかと感じた。アジズ副首相との面会にはテレビカメラが入り、その映像は同日の夜のニュースで流された。

 アジズ副首相との面会は、巨大な宮殿のような首相官邸で行われた。官邸には入り口を入ってすぐに、天井までの高さが10メートル以上あるシャンデリアの下がった大広間があり、ソファなどが並んでいたが、そのホールにいたのは受付の人だけで、がらんとしていた。エレベーターで3階に上がり、そこが副首相の執務室のある絨毯敷きのフロアだったが、そこにも人の気配は少なかった。私たちはまず秘書室長のような人の部屋で待ち、10分ほどたつと秘書室長の机の電話が鳴り、副首相の面会室に通された。会見時間は15分ほどで、アジズ氏は流暢な英語を話した。

 アジズ副首相は私たちに「日本はアメリカを支援すべきではない」と語ったが、その理由は午前中にハシミ氏が語った内容と同じだった。アジズ氏はまた「わが国は多民族・多宗教だが、和合してやっている」とも言った。これもまた、ハシミ氏が語ったことと同じだった。

 イスラエルに関しても、両氏の発言は重なっていた。イスラエルはアメリカをアラブとの戦争に引きずり込むため、中東を混乱させることを狙っている、という分析だった。また「アメリカで中道派が優勢なので、アメリカが侵攻の可能性は減っていると思うが、どうか」と両氏に尋ねたところ、アジズ氏は「侵攻がないことを望んでいるが、油断はできない」とだけ述べた。その前のハシミ氏との面会でも同じことを尋ねたが、ハシミ氏は「タカ派の勢力がまだ強いのではないか」「アメリカ側の方針一つでいつ侵攻が始まってもおかしくない状態だ」と答えた。

○1月8日(水)

 表敬訪問の一日が過ぎた後、翌1月8日に私たちがまず行ったのは、市内の小学校だった。堀越上人の希望で、私たちは小学校から200メートルほど離れた場所で車を降り、上人と松崎さんが日本山妙法寺の太鼓をたたき「南無妙法蓮華経」と唱えながら、学校に向かった。

 私は「イラク侵攻反対」(No More War against the attack on IRAQ)などと英語とアラビア語で書かれた垂れ幕を掲げて2人の前を歩く役を仰せつかった。こういう垂れ幕がないと、地元の人々から「おかしな奴らが来た」と思われ、石を投げられたりするそうだ。この垂れ幕があるために、道行く人から、英語やアラビア語で「歓迎ですよ」などと声をかけられたり、拍手されたりした。

 垂れ幕は、表敬訪問の合間に市場に行って材料を買った。カーテン屋に行って白い布を買い、その場のミシンで小学生ぐらいの小僧さんに縁をかがってもらい、その布をぶら下げる適当なポールが見つからなかったので、カーテン屋で店内の上の方の商品をとるために使っていた長い棒を買い取った。ホテルに戻った後、上人がもってきたマジックを使い、美術学校でデザインを学んだ経験を持つ嘉納さんが英文の文字を描いた。アラビア語の方は、あとで小学校に行ったとき、レタリングが得意な先生に描いてもらった。世界各地で今回のような「平和巡礼」を繰り返しているだけに、堀越上人はこうした段取りに慣れていた。

 私たちの一行が小学校のゲートを入ると、その奥の玄関では50人ぐらいの子供たちと数人の先生が待っていて、いっせいに大きな声でスローガンを言い始めた。「ナーム(そのとおり)、ナーム、サダム・フセイン。ダウン、ダウン、アメリカ」といったような、フセイン大統領をたたえる内容と、アメリカを敵視する内容が交互に出てくるスローガンだった。

 スローガンは何種類かあるようで、先生が最初のフレーズを少し言ってキューを出すと、子供たちがそのスローガンを言い、手をたたいたり拳を振り上げたりしていた。先生は全員が中年の女性だった。私たちが見ている間に、2人の先生が相談して壁にかかっていたフセイン大統領の肖像画をはずし、集団の真ん中あたりに立っていた生徒の一人に持たせ、頭の上に掲げさせた。どこからかイラクの国旗も持ってこられて、大統領の肖像画の隣にいた生徒が頭の上に旗を掲げた。

▼親サダム・反米のモデル校

 この手の、作られた子供たちの愛国パフォーマンスを見るのは、1988年に北朝鮮に行ったとき以来だった。北朝鮮では、すべてがあらかじめ企画されたとおりに展開していたが、イラクではその場の先生のアイデアで、肖像画や旗が追加されている点が興味深かった。北朝鮮の愛国パフォーマンスには東アジア的な真面目さや厳密さを感じたが、このイラクのパフォーマンスにはもっとラテン的な、その場の盛り上がりに合わせた展開があった。

 とはいうものの、ガイドのフセイン氏によると、ビサン小学校という名のこの小学校には、外国からの視察団をときどき連れてくるという。ここは、イラク国民の団結を外国人に見せるための「モデル校」らしかった。小学校というより日本の幼稚園の園舎に似た小ささの2階建ての校舎は、壁にひびが入り、手すりは錆び、ガラスの入っていない窓もあった。そうした点も、逆に「アメリカの経済制裁を受けて苦しいが頑張っているイラク」を象徴するには好都合だと見えた。

 この小学校は、中産階級が多く住む地区にある。1−4年生までは男女共学で、5、6年生は男女別々の教室になるという。女の子の中には、スカーフをしている子が2割ほどで、あとの子たちは長めのスカートをはいていたが、スカーフはしていなかった。男はジーンズの子も多かった。生徒数は475人、教員数は34人で、教師は全員が女性だった。校長先生は42歳だったが、恰幅がよく、50歳ぐらいに見えた。

 校長先生は「経済制裁のため、学校の修理もできず、子供たちの中には発育不良も多い」「(湾岸)戦争の前は学校で給食を出していたが、経済制裁でそれもできなくなった」「職を失った親たちを助けて働くため、学校に来られなくなった子供も多いが、フセイン大統領は夜学の制度を設け、昼間働く子供は夜に勉強できるようにしてくださった」などと話した。ほとんどの説明が「親サダム・反米」の方向性を持っていた。

 この学校の先生は、ほとんど全員がバース党員だという。バース党はイラクの事実上唯一の政党で、この党組織を通じてイラクの国家宣伝体制が作られている。校長先生は「教育は国家の考えを子供に教える大事な仕事なので、党員がたずさわっている」と言った。学校ではアメリカのほか、イランやトルコ、サウジアラビア、クウェートなど、近隣のすべての国も「敵である」と教えているという。敵に囲まれているという意識は、愛国心の発揚に役立つからだろう。

「日本は敵ですか、味方ですか」と尋ねると、ガイドのフセインは先生にはそれを通訳せず「ときどき味方で、ときどき敵かな」とやや冗談めかして言った。そのあと、このコメントはまずいと思ったのか「日本の人々はイラク人の味方だが、日本の政府の親米的な対応は残念だ」と、いつもの公式コメントを言い直した。

▼愛国と平和は同じ意味

 ビサン小学校を訪れたのは、子供たちに灯籠流しの灯籠の紙に絵を描いてもらうためだった。(ビサンはパレスチナの町の名前で、パレスチナ人に連帯の意を表明するためにイラク当局はこうした名前を小学校につけたという)

 私たちはいくつかの教室を見学した後、教室に紙とクレヨンを配り、子供たちに絵を描いてもらった。絵のテーマは「平和」だったが、ハートのマークなどと並んでイラクの国旗を描く子が多く「愛国」と「平和」が子供たちの中では同じ意味になっていることがうかがえた。

 絵を描いてもらっているときに、小さな事件があった。私たちは50箱のクレヨンを持参し、一つの教室で50人に描かせた後、描き終わった子のクレヨンを順番に先生が次の教室に回し、次の教室の子たちに描かせる、というやり方をしたが、いつの間にか30箱近くのクレヨンが見あたらなくなっていた。

 どさくさ紛れに先生がくすねたか?、などと私たちは疑ったが、あとで休憩をとるために校長室に招待されたとき、校長室のガラス戸の棚の中にクレヨンが鎮座しているのを見つけた。どうやら「次の教室に運んでください」と私たちが頼んだのを「保管しておいてください」と頼まれたのだと勘違いしたらしい。私たちが棚のクレヨンに気づくと、校長先生はすかさずガイドを通じて「作業が終わったらこのクレヨンは寄付してくださるのですね」と聞いてきた。棚に入れたのは、クレヨンを寄付してもらおうとする作戦の一環だったと見た。

 また、すべての作業が終わるころには、ガイドのフセインは「この学校にはいろいろお世話になったのだから、何がしかの寄付をした方が良い」と通訳役の私に耳打ちした。堀越上人はお金に渋い人で、このときも聞こえないふりをしていた。フセインが何度も寄付の話題を持ち出すので、私は20ドル札を一枚、個人的に出すことにしたが、それを校長先生に渡すときは、外から人が覗かないよう、校長室のドアが閉められた。20ドルは、学校の先生の月給に相当する額だ。

【ガイドのフセインは、教師の月給が5000ディナール(約300円)だと言ったが、独自に聞いたところでは、公務員の給与は多い人で10万ディナール(6000円)になるという。フセインは、イラクの人々が経済制裁下で苦しい生活していることを強調しようとするあまり、商品の価格水準を高く言い、人々の給与水準を安く言う傾向がほかでも見られたので、5000ディナールという額も眉唾かもしれない】

▼国旗掲揚式で空砲

 私たちは2回にわたってビサン小学校を訪れ、1日100枚ずつ、合計200枚の絵を描いてもらった。2日目には、校庭で朝礼のような国旗掲揚式が披露された。全校生徒を校庭に並ばせ、真ん中に錆びた鉄のポールを立て、生徒代表が3人出てきて国旗を掲揚し、掲揚の際は小銃を持った女先生が国旗の隣に立ち、空砲を3発発射した。

 その後、子供たちや先生が次々に出てきて、フセイン大統領に対する忠誠や、アメリカの攻撃と最後まで戦うという決意を、大きな声で表明していた。ビサン小学校では毎週一回、こうした朝礼をやっているという。

 いきなり小銃が出てきたのには驚いたが、バース党員は皆、自宅に小銃を置いておく決まりになっているという(バース党員は200万人で、全国民の1割)。小銃の存在は、戦時体制の雰囲気を醸し出していた。

 200枚の絵がそろった後、私たちは上人の発案で、子供たちにいろいろ質問する機会を設けてもらった。教室に座った20人ほどの5、6年生の女の子たちに向かって、上人が「みなさんは広島を知っていますか」と言い、私とフセインの通訳を通じてそれがアラビア語になって生徒たちに伝えられたが、互いに顔を見合わせたりしているだけで、返事がなかった。どうやら広島の原爆投下については教えられていないらしい。

 私たちの隣にいた担任の先生が、一番前の席に座っていた生徒に、かがんで何か小さな声で言っている。30秒ほどすると、その最前列の生徒がおもむろに手を挙げた後に立ち上がり「アメリカは日本にひどいことをしました。日本の子供たちがたくさん殺されました。アメリカは今、今度は私たちイラクの子供たちを殺そうとしていますが、私たちは負けません」などと言った。

▼先生が示唆し、優等生がリードする

 どうやら、ベールをかぶったこの子は、このクラスの優等生らしく、だからこそ一番前に座り、先生が少し示唆すると、それに従って上手に発言し、クラスをリードしていく役を担っているのだと思われた。

(他の低学年のクラスでは、最前列に勲章をぶら下げた軍服のような服を着た男の子が座っていた。その子の父親はイラン・イラク戦争の英雄で、子供もその栄誉の一端を背負ってミニ軍服を着ていた)

 優等生の発言のあと、堰を切ったようにあちこちから手が上がり、フセイン大統領がいかに立派に国をまとめているか、ブッシュがいかに血に飢えているか、アメリカがイラクを占領したいのは石油を奪いたいからだ、など「親サダム・反米」の方向で次々に生徒たちが発言した。

 先生は教室の後ろの方に下がり、まだ発言していない子供たちの近くに行って、小さな声で何かアドバイスらしきことを言い続けていた。アドバイスを受けた生徒は手を挙げ、ガイドのフセインがそれを指し、発言が続いた。言い方はそれぞれに違うが「親サダム・反米」の傾向には違いなかった。「神が私たちを助けてくれます」といったイスラム教への言及もあった。

 最後には、どの子を指しても、前の子たちが発言したことと大差なくなり、宣伝好きのフセインでさえも「前の子と同じ内容です」としか訳さなくなった。最前列の優等生など、何人かは何回も発言したがったが、同じ内容なので、フセインは彼女たちを指さなくなった。最後の一問になると、ほとんど全員の手が挙がった。しかし、もう誰を指しても、聞く前から答えが想像できる状況になっていた。

▼クルド人への拍手

 クラスにはクルド人の子がいた。彼女が指されて立ち上がったとき、先生が「彼女はクルド人です」と言うと、クラスの全員がいっせいに拍手した。分離独立を狙っているとされるクルド人も、他のイラク人と仲良くしていますよ、ということを示すため、こうしたシーンで子供が拍手するよう仕向けられているのだと思われた。クルド人の子は、イラクではいろいろな民族が一つに和合し、フセイン大統領のもとで団結している、といったような発言をした。

 ビサン小学校だけでなく、イラクでは至る所にプロパガンダが行き渡っていた。バクダッド市内には、ちょっとしたビルの壁や交差点の角などに、必ずフセイン大統領の肖像画が掲げられていた。肖像画は背広姿、軍服姿、ターバン姿、鉄砲を持った姿、刀を持った姿など、種類が多かった。私たちは病院にも行ったが、そこでもアメリカの経済制裁のせいで薬や医療機器が不足している、という話が中心だった。

 このような思想統制に対しては、国民から反発があることは十分に想像できる。古本屋街にも連れていってもらったとき、地べたに広げられた本の中にエジプトのナセル元大統領の絵が描かれた本があった。それを見ていたら、近くの青年が「ナセル、ノーグッド」と言ってきた。今のイラクはエジプトとの関係も良くないので、ナセル批判は当然かと思ったが、ガイドのフセインと私がその場を離れた直後、そこに残った松崎さんに同じ青年が「サダム、ノーグッド」と小声で言ったという。

 こんな状態でも、私にはイラクのプロパガンダ政策は、アメリカに国を転覆されないための「必要悪」の部分があると思えた。イラクでフセイン大統領の肖像画が急増したのは1995年以降のことで、これはアメリカがイラク反体制派などを使ってフセイン政権の転覆作戦を強化した時期と一致している。

 イラクだけでなく、北朝鮮やイラン、シリア、中国など、アメリカから狙われている国の多くがプロパガンダ政策と思想統制を展開せざる得ない状態だが、そもそもアメリカがこれらの国の政府を転覆しようと試みなければ、プロパガンダの必要性も低下していたはずだ。

 911事件以後、アメリカはイラクなどよりはるかに巧妙に、国家のプロパガンダを国民に信じ込ませている。それに比べると、イラクのプロパガンダ政策は、あまり洗練されていないので、外国からの見学客の眉をしかめさせてしまうだけのことだった。



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