炭疽菌とアメリカの報道2001年12月13日 田中 宇【この記事は「炭疽菌と米軍」の続きです】 9月11日の大規模テロ事件が起きた後の一時期、私は「スペイン語かフランス語を勉強する必要がある」と感じていた。(時間がなくて果たせなかったが) 私はこれまで、毎週の国際情勢分析記事を書くために、主にアメリカとイギリスの新聞・雑誌の記事を参考にしてきた。だが9月11日を境に、英米のマスコミは大政翼賛的になり、真実を語らなくなった。そのため、英米以外の国、たとえばフランスや中南米などのメディアの報道も参考にした方が良い、と思ったのである。 これまでフランスのメディアとして「ルモンド・ディプロマティーク」英語版を見ていたが、以前は、私には陳腐に思える旧左翼的な論調が目立っていた。ところが9月11日以降は、米政府のプロパガンダに染まったアメリカの大手新聞より、ルモンドの論調の方が冷静で、真実に近いと思える状態になった。 英語のメディアでは「世界社会主義者ウェブサイト」などを新たに定期的に記事を一覧する対象に入れた。このサイトに10月16日に載った「メディアとブッシュ」という記事は「かつてブッシュ(大統領)を凡人だと批判していたニューヨークタイムスやワシントンポストは、今やブッシュがいかに偉大かということばかりを報じている。この変節ぶりには驚かざるを得ない」などと書いている。こうした指摘は、私には「全くその通り!」と思えるものだった。 いくら「戦時」とはいえ、政府の宣伝しか報じないようになったのは、世界一流と言われてきたアメリカのマスコミにとって自殺行為に等しいと思われた。今や「人民日報」など中国のマスコミを笑えない状態なのである。中国の多くの人々は「報道にはプロパガンダが多い」と分かっているが、9月11日以降のアメリカでは、プロパガンダだと分からずにマスコミの報道を信じている人の方が多いようなので、事態は深刻だ。 アメリカ政府が、自らに対する批判報道を封じ込めた方法は、マスコミに対して「政府や軍がやっていることをうかつに報道することは、テロリストに大事な情報を提供してしまうことになり、国家に対する反逆である」と警告することだった。 ブッシュは10月上旬、米議会に対して「私が議会に教えた機密情報を、一部の議員がマスコミに流している。これは(敵に情報を伝えてしまうので)前線で戦っている我が国の兵士たちを危険に陥れている。こういうことが続く限り、もう議会に情報を教えるわけにはいかない」と警告した。 米議会の中には、民主党や、共和党の中道派など、ブッシュ大統領ら共和党右派が進めている戦争政策に反対している議員がけっこうおり、そういう人々がマスコミに政府批判を書かせようと情報を流したことに対する反撃が、このブッシュの警告だった。米議会はマスコミに情報を書かせることを止めた。マスコミに対しても「政府批判をする君たちは、愛国者なのか、それともテロリストの味方なのか」といった問いが突きつけられ、反戦報道が控えられた。 ▼少しずつ政府批判を再開するマスコミ とはいえそんな状態は、その後少しずつ変わり始めた。11月初旬ごろから、政府を批判する論調がアメリカのマスコミに少しずつ載り始めたのである。その皮切りの一つは、連邦政府が大規模テロ事件の関連容疑でアラブ系アメリカ人など1000人以上を逮捕・拘留したまま、その氏名一覧すら公開されず、秘密になっていることについて、人権侵害だと批判するものだった。(記事1、記事2) その後、12月になって出てきたのが「アメリカ国内でばらまかれた炭疽菌は、米軍が開発した菌だった可能性が高い」というニューヨークタイムスの報道だった。この記事は「米国内にばらまかれた炭疽菌は、テロリストが作れる範囲をはるかに超えた完成度の高いもので、かつて米国防総省が開発した炭疽菌と同じ水準の完成度を持っていることが分かった」と報じている。 Terror Anthrax Linked to Type Made by U.S. この記事によると、米議会のダシュル上院議員あてに届いた炭疽菌は、1グラムあたり1兆個の胞子からなる高密度のもので、現在の人類の科学水準では、このくらいの密度が上限だろうと思われていたものだった。一方、テロリストが開発しうる炭疽菌は、1グラムあたり500億個の胞子ぐらいの密度になるのではないか、と2年前に専門家が作成した報告書に記載されている。 また、旧ソ連の炭疽菌開発にかつてたずさわり、今はアメリカで生物兵器禁止運動に携わっている専門家ケン・アリベクによると、ロシアやその他の国々が兵器として開発できる炭疽菌は、1グラムあたり1000億-5000億個の胞子のものが上限だという。 1グラムあたりの胞子の数が多いほど、一つの炭疽菌の胞子は小さく、空気中を漂って人の肺に入り、発症させる可能性が高くなる。上院議員に届いた炭疽菌の威力は、在野のテロ組織が開発できる炭疽菌の20倍、ロシアやイラクなどの国家が開発できる炭疽菌の2倍のものだった、ということになる。 ▼米軍製と同じ化学物質が検出された こうしたニューヨークタイムスの報道に、アメリカの他のマスコミは沈黙したままだったが、イギリスの新聞インディペンデントが後追い報道した。それによると、捜査当局の中にも「かつて米軍内で生物兵器開発に携わっていた科学者が関与した事件だというのが、最もありそうなシナリオだ」とコメントしている人がいる。FBIはすでに米国内の実験室などを捜査対象に含めている。 その一方で「アメリカで作られたものであるはずがない。米軍の炭疽菌開発は1969年に終わっており、関係者がその後30年間も炭疽菌を保存していたとは考えられない。炭疽菌はアメリカ製ではなく、イラク製だ」と主張している専門家もいる。ところが、米軍は5年ほど前から秘密裏に炭疽菌開発を再開しているのだから、この指摘は当たっていないことが分かる。(前作「炭疽菌と米軍」参照) もう1人、米軍との関係を指摘している人物がいる。生物兵器の禁止運動に力を入れているバーバラ・ローゼンバーグ(Barbara Rosenberg)という科学者で、彼女が最近書いた報告書について、科学雑誌ネイチャー( http://www.nature.com/nature/ )が報じている。彼女は報告書で、かつて米国防総省が炭疽菌を兵器として使える純度まで高める培養工程で使っていた化学薬品と同じ成分が、上院などに送りつけられた炭疽菌を調べたところ検出された、と指摘している。 これらのことから、米国内で郵送された炭疽菌は、米軍が開発したものである可能性が高いことが分かる。具体的には、米軍の研究室の炭疽菌を誰かが盗んだか、米軍内部の専門家がテロ組織に炭疽菌の作り方を教えたか、もしくは米軍が組織的に仕組んだか、のどれかである可能性が高い。 ここまで調べて私が感銘を受けたことは、ニューヨークタイムスの記者や、ローゼンバーグら何人かのアメリカの科学者たちは、命をかけてこれらの事実を発表したであろうということだ。ニューヨークタイムスの記者のところには、ニセモノだったが炭疽菌のような白い粉が送りつけられている。ローゼンバーグ女史に対しても、政府関係者からの脅しや、一般のアメリカ市民から「おまえは売国奴だ」といった攻撃がきていると思われる。 多くの人々が「イスラムのテロリストがやったに違いない」と思い込んでいた炭疽菌事件に対して「いや、そうではないかもしれない」と事実を提示して主張することは、多大な勇気が必要なはずだ。そういう人々が存在しているというだけでも、アメリカはまだ理想の国として立ち直れる可能性を持っている、と私には感じられる。
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