●尖閣諸島紛争を考える
(96.10.04)

 このところ、香港の新聞では、釣魚台(尖閣諸島)についての反日的な記事を見ない日はないほどだ。しかし一方、日本のマスコミではこの問題は事実だけ簡単に伝えられるだけで、産経新聞など「保守主義」を看板にしている一部のメディアが、反中華の観点に立って報じているだけだ。どうしてこのような温度差が生じるのか。この問題では、香港、台湾、中国の人が「反日」で大同団結しているようだが、中国人の民族意識が高まりつつあるといえるのだろうか。

◎尖閣諸島の領有権に関する歴史

 香港には釣魚台紛争についていくつかのホームページがあるが、その中の一つに釣魚台についての年表があった。(JIS化した文BIG5形式の原文)それらの資料によると、釣魚台の名前は明王朝時代の1373年に中国の文献に初めて登場し、1532年には「使琉球録」という本の中で中国領として紹介されている。(台湾の中国時報による)

 一方、日本では1879(明治12)年になっても、地図には釣魚台は登場しない。その後、日清戦争に勝った日本は、1895(明28)年に中国の清朝から台湾とともに釣魚台を譲り受け、沖縄県に編入した。「尖閣諸島」という日本名がついたのは、その後の1900(明33)年で、島を調査した沖縄師範学校の先生が、尖がっている島の形からつけたとされる。中国名の「釣魚台(ちょうぎょだい)」では呼びにくいので、日本風の名前にしたのか。朝鮮人の「李」さんを「木下」変えさせたのと同じ感覚だったのかもしれない。

 日本が太平洋戦争に負けると、米軍は釣魚台も沖縄の一部として占領した。1970(昭和45)年に沖縄返還が決まったが、その中に釣魚台も含まれていることが分かると、香港や台湾で激しい反対運動が起こった。この流れから72(昭47)年に右翼団体「日本青年社」が航路標識を建て、90年には日本政府がこれを正式な航路標識として認めたため、再び香港や台湾で反対運動が起きた。
 この間78(昭53)年には日中平和友好条約が調印されるが、その際に来日したトウ小平氏は、釣魚台の領有権問題は日中間の争いとせず、解決を次世代まで先延ばしにすることを提案し、日本もこれに同意した。14年後の92年に中国は海洋法を制定し、その中で釣魚台を中国領として初めて正式に宣言した。その背景には、釣魚台周辺の海底には、かなりの埋蔵量の油田があるかもしれないということがあるようだ。さらに今年5月、中国は海洋法条約を批准するとともに、釣魚台を含む領海範囲を発表し、それに対抗するかたちで日本青年社が7月に釣魚台に灯台を建てた。それを日本政府が黙認していることに対し反発しているのが、今回の香港と台湾での抗議行動である。

◎尖閣諸島はどこの領土か
 尖閣諸島はもともと、中国の領土だったが、第二次世界大戦の終了後、中国(中華民国)が自国への返還を求めなかった結果、今では日本の領土になっている、というのが私の結論だ。
 日本が釣魚台を領有したのは、清朝に台湾を割譲させたからで、つまり釣魚台は台湾の一部として割譲させた。だから、歴史的な経緯からみると、台湾の領有は日本の敗戦によって終わったのだから、台湾に付随する釣魚台も同時に返還すべきだった。
 だが、日本の敗戦後、釣魚台は米軍が占領する沖縄の一部となった。つまり、連合軍は釣魚台を日本の領土だと認定したことになる。もし、先勝国の一つだった中国が釣魚台の領有を主張すれば、認められたであろう。米国など他の先勝国がそれを認めず、結果として沖縄の一部と認定されてしまったにしても、中国がその時(1945年)に釣魚台の領有権を主張したということは歴史に残るはずだ。当時、中国がそういった主張をしたという記録は全く残っていない。つまり、中国は(暗黙のうちに)釣魚台が沖縄の一部だということを認めてしまったことになる。

 当時、中国では国民党と共産党の内戦が続いており、国民党政府としては、小さな無人諸島である釣魚台の領有のことまで考えが及ばなかったか、及んだとしても声高に主張する必要はないと考えたのであろう。だがそのことは、釣魚台がいずれ連合軍(米軍)から日本に返還されることを黙認したということになる。
 その延長からすれば、今後、日本が釣魚台を中国に返すとすれば、もともとは中国領だったということを重視するとともに、1945年当時の中国の黙認をうっかりミスとしてとらえ、それに寛容に対応することで、返還するということになる。だが、中国や台湾の政府も、香港の人々も「1945年の判断はこちらのミスだから、島を返してくれ」というような主張は全くしていない。上に書いたとおり、それでは筋は通らない。

・歴史的な筋を重視すべきか
 だが、根本的に考えると、そもそも紛争地の領土権問題を考える際、歴史的な経緯をどれほど重視すべきか、疑問である。紛争地というのは、ある時代にはA国の領土で、別の時代にはB国の(さらにはC国の)領土だったから、AB間の紛争となる。古くから領有していた方に理論上の軍配が上がるようなのだが、それなら地球上の多くの地域はネアンデルタール人(もしくはその祖先のサルやネズミの類)の領土とするのが正しいということになってしまう。昔はどうだったか、ということを極めるのが、今の領土権問題を解決する良い方法だとは思えない。
 結局、人が住んでいる場所ならば、その人々の意志が重要であり(昔に住んでいてその後追放、抑圧されている人々がいたりするので、これもパレスチナのように解決が難しいのだが)、住んでいない場所はどちらの領土にもせず、共同利用、共同開発するのがいいのではないか。釣魚台問題を解決するには、その方向がいいと思う。

◎なぜ香港で抗議運動が盛んになるか

 政治に無関心といわれる香港の人々が、釣魚台のことになるとなぜ、かように過激になるのだろうか。それは、香港が来年に中国に返還されることと関係があると思う。香港の人々は、返還を控え、中国人であることを求められていて、そのことが意識的、あるいは無意識のうちに、中国(中華人民共和国)に対する愛国心を持つように自らを仕向けている。
 香港の市民グループが貨物船で釣魚台の近くで抗議行動に出かけたとき、乗船していた人々が振っていたのは中華人民共和国の旗だった。赤い旗でなければならなかった理由はそこにある。

 これまで、香港の人々は中国人であることをあまり意識せずに生活していた。イギリスの統治下ではむしろ、コスモポリタンであること、国際人としての価値観を持つことの方が、知識人にとっては重要だった。政治と人々の生活が根強く結びついている中国に組み込まれる来年からは、そうした根無し草の意識とは決別し、中国人になる必要がある。
 そのような変化が新聞などマスコミ業界にもあって、報道の自由を守るとの看板を掲げながらも、中国への愛国心があることを競争するようになり、反日報道はエスカレートしていく。
 また、中国政府は最近、共産党への求心力を維持するため、愛国心を高めようとする政治キャンペーンを続けている。それにどう応えるかによって、返還後の地位や生活が変わってしまうかもしれない、という不安も香港の人々の中にある。

 米国が沖縄といっしょに釣魚台も日本に返すことになった1970年や、日本政府が日本青年社の建てた航路標識を正式に認可した90年にも、香港と台湾で反日運動が起きているのだが、二回とも、台湾より香港で抗議運動が激しかった。
 70年は文化大革命が盛んだったころで、その3年前の67年には香港反英暴動が発生し、中国が武力で香港を回収するかも知れないと考えられていた。つまり、香港人にとっては、中国の国民に戻るかもしれないという予測があった時代だ。
 90年は、84年に英中間で合意した香港返還が、89年の天安門事件により英国側の反発が強まって揺れていた時期で、この時も中国政府は香港の回収に対して実力行使も辞さないかまえをとっていた。このように、過去の「保釣運動」(釣魚台返還要求運動を香港ではこう呼ぶ)は2回とも、香港の人々が中国への返還を強く意識していた時期に起きている。

 もちろん、香港の人々の心の中には、日本が帝国時代の1941−45年に香港を占領し、過酷な軍政を敷いたことに対する反発が今でも残っている。だが台湾も香港と同様か、それ以上に長く過酷な目にあっている。香港の運動が激しくなるのは、反日意識が特に強いというより(反日意識は韓国の人々の方がはるかに強い)中国への愛国心発露との関係が大きいと思う。
 来年、中国の領土になった後で、日本側がさらに釣魚台領有への意志をみせたとしても、上海や北京での大学生らによる運動が当局によって止めさせられたように、香港での運動は許されなくなるのかもしれない。

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