古代文明の交差点ガンダーラ2000年11月20日 田中 宇2000年5月にアフガニスタンに行く直前、パキスタンの首都イスラマバードに何日か滞在したが、そのとき用事がない日ができたので、イスラマバードから2時間ほどで行ける「タクシラ」という村の古代遺跡を見に行った。そこには「ガンダーラ」の仏教寺院跡がある、というだけの知識で行ったのだが、意外な発見があった。 タクシラでは、パキスタンが英領インドの一部だった今世紀の初めに、イギリスの貴族が発掘調査を開始した。その貴族は遺跡の近くに屋敷を建て、博物館として出土品を展示して残した。博物館には、仏像や壁画の一部などが陳列してある。 見学していると、警備員が近寄ってきて「写真を撮りたくないか」と小声で持ちかけてきた。館内は撮影禁止なのだが、警備員にいくらか賄賂を渡すと写真を撮らせてくれる「制度」になっているらしい。パキスタンは役人が腐敗していると聞いたが、なるほど徹底している。 誘いをお断りして展示品を見ていると、その中に「アショカ王が紀元前3世紀に建てたアラム語の石碑」というのがあり、驚いた。アラム語とは確か、イエス・キリストが説教の時に使った言葉とされている。キリストが説教をしたエルサレムまで、パキスタンから3000キロ以上の距離がある。なぜアラム語の石碑がこんなところから出土するのだろうか。 ▼3000年前から欧州とつながっていた あとで調べてみると、アラム語は紀元前8世紀ごろから、紀元後6世紀にイスラム教が始まってアラビア語に取って代わられるまで、東地中海からペルシャ(今のイラン)にかけての広い地域で共通語として使われていた。紀元前8−4世紀にあったペルシャ帝国では公用語だった。 そのペルシャ帝国を滅ぼしたのがギリシャのアレキサンダー大王で、その時に大王が征服した土地と、インドのアショカ王のマウリヤ王朝との国境近くに位置していたのがタクシラだった。この地域は2000年以上前から、中東やヨーロッパとつながっていたのである。 「ガンダーラ」はパキスタンの北西部から、アフガニスタン東部にかけての地域を指す古い地名で、パキスタン側のタクシラからペシャワール、そしてカイバル峠を越え、アフガニスタン側のジャララバード、カブールまでがガンダーラに入る。間にある国境は、19世紀にイギリスが世界支配の都合で作ったものだ。 (アフガニスタンが一つのまとまった地域として認識されるようになったのも、17世紀以後のことでしかない。それ以前は、南アジアから中東にかけての国境線は、しばしば大きく変動していたし、「アフガニスタン」と自称する国もなかった) この地域が歴史的に重要なのは、ヨーロッパ・中近東方面から延々と続く商業路が、インドに入る最初の場所であるということだ。また、中国から中央アジアを通り、ヨーロッパ方面に向かうシルクロードも、ガンダーラ(カブール)から山脈を越えた北側で、インドから来た道と合流している。 この博物館には、紀元後3世紀にカブールで鋳造されたコインなども出土品として展示されているが、そのコインの表面にはギリシャ文字が刻まれていた。紀元前4世紀のアレキサンダー大王の遠征以降、ガンダーラ周辺にも「バクトリア」と呼ばれるギリシャ人の王国ができ、ギリシャの文化をこの地にもたらした。コインに刻まれているのは「バクトリア語」だった。 ▼仏像はギリシャとインドの出会いの産物 古代のギリシャとインドの文明とは、ガンダーラで衝撃的な出会いを遂げた。その象徴が「仏像」である。紀元前6世紀に始まった仏教は当初、偶像崇拝を禁じており、仏像というものは存在しなかった。 だがアレキサンダー遠征以後、この地に入ってきたギリシャ系の人々は、仏教を熱狂的に信仰し始めるとともに、ギリシャから持ち込んだ彫刻の技術を使って、仏陀の像を彫り、それを崇めるようになった。 紀元後3世紀になると、クシャナ朝のカニシカ王という人が、国を挙げて仏教の普及に力を注ぎ、美しい仏像を無数に作った。金箔を張った仏像や、額にルビーを埋め込んだ仏像、宝石で飾りたてられた仏舎利塔などが、タクシラの博物館に展示されている。 今では宝飾品がほとんどはげ落ち、ルビーだけ大英博物館に持ち去られたりしているのだが、その後の痕跡からでも感じられる、かつてのきらびやかさを想像すると、彼らの仏教は、現代の日本人がイメージするような禁欲的な宗教とは、ほど遠い感じがした。 「ガンダーラ美術」と呼ばれるこれらの作品は、古代ギリシャの石像の顔や身体に、インド風の服装を着せた形になっている。大小さまざまな仏教寺院は、クシャナ朝の領土だったガンダーラから今のアフガニスタンやパキスタン北部、中央アジアにかけての広い地域に建てられた。 それまでの仏教は、生活に余裕があり「人はどう生きるべきか」「人間とは何か」といった小難しいことを考え抜きたいと思う、上流階級の人々の宗教だったようだ。だがこの時代のガンダーラでは仏教を、人生を考える余裕がない貧しい大衆にとってもありがたい宗教にするための改革がなされ、それが「大乗仏教」となった。 ▼大文明の衝撃的な出会いから生まれた仏像 ガンダーラで産み出された大乗仏教と仏像の組み合わせセットは、シルクロードを通って中国に伝えられ、その後日本にまでやってきた。タクシラには「ジュリアン」という山の上に、2世紀に作られた仏教の国際大学の跡がある。インドはもとより、遠く中近東や中国方面からも、貴族の子供たちが仏教を学ぶため、留学しにきたという。 仏典を得るため、7世紀に中国からやってきた三蔵法師も、タクシラに立ち寄って学んだといわれている。三蔵法師の旅行物語は、孫悟空の「西遊記」として、現代に伝えられている。(ゴダイゴのヒット曲「ガンダーラ」はテレビドラマ「西遊記」のテーマソングだった) ジュリアンの国際大学跡の遺跡に残る仏像を見て歩きながら、古代の様子を想像した。おそらく、ガンダーラにやってきた古代のギリシャ人たちは、自分たちも人間や世界の成り立ちについて難しく考え抜く哲学の伝統を持っていただけに、同じテーマを別の切り口から考え抜いてきたインド哲学の成果としての仏教に触れたとき、驚きながら、むさぼるようにそれを勉強したのではないかと思った。そしてインドの知識人たちもまた、ギリシャの哲学を夢中になって学んだのではないか。 それは、人類史上めったにない、大文明どうしの衝撃的な出会いだったに違いない。そしてそこに中国の文明が加わった後のおこぼれが、はるかなシルクロードの終着点の島国にまでもたらされ、日本にも大きな貢献をしたのだった。
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