グローバリゼーションはどこからきたか2000年11月6日 田中 宇「グローバリゼーション」という言葉が使われ出したのは、いつごろからだろうか。英文記事のデータベース(Lexis-Nexis.com)をひいてみると、「globalization」という単語が欧米の新聞記事に現われ出したのは、1983年からだった。 初期の記事の一つに、イギリスのフィナンシャルタイムスの84年7月の記事がある。アメリカの日用品メーカーP&G社が、アメリカと日本で同じ液体洗濯洗剤を別々の名前で同時に売り出したことを報じる記事で「これは最近よくいわれるグローバリゼーションの一環で、容器も日米のスタッフが共同開発し、統一のものを使ってコストを下げる」といったようなことが書いてある。 またワシントンポストは83年8月に自動車産業の国際競争を報じた記事の中で、グローバリゼーションという単語を使っている。85年ぐらいになると、証券・金融市場の世界的なつながりをグローバリゼーションとして描いたものも出てくるが、その前には、世界中で同じ規格の製品を売る多国籍企業の戦略を指したものが目立つ。 グローバリゼーションは厳密な意味が定めにくい用語だが「経済などのシステムが国を超えて世界的なものになる動き」を指すと考えられる。似た言葉である「国際化」が、国家どうしの関係が緊密になることを指しているのに対して、グローバリゼーションは国家を超えた動きであり、96年からのアジア金融危機など、国家を弱体化させる動きにもなりうる。(最近のグローバリゼーションは、アメリカ以外のあらゆる国を弱体化させる動きだとも解釈できる) ▼冷戦は2種類のグローバリゼーションの競争 グローバリゼーションは、冷戦後に始まった動きのように思われることがあるが、そうではない。それは最初の記事が書かれたのが冷戦中だったことからも分かるが、そもそも冷戦そのものも、2種類のグローバリゼーションが世界を2分して競争した時期であると考えられる。世界を単一の共産主義体制にしようとするソ連の動きは、まさにグローバリゼーションの定義にあてはまる。 そして、ソ連の勃興に対抗した西側の体制は、18世紀末のイギリス産業革命以来の産業グローバリゼーションの上に存在していた。産業革命後の欧米や日本による植民地支配は、宗主国で作った商品を売りさばくための市場拡大という意味があった。その延長に、1984年の新聞記事でグローバリゼーションの例として最初に紹介された、多国籍企業による商品の世界化もあったと考えられる。産業のグローバリゼーションは、200年以上前に始まっていたことになる。 グローバリゼーションが最近だけの現象ではないことは、歴史上、先進国経済の相互のつながりが最も強かったのが現在ではなく、1870-1910年代であったことからもうかがえる。G7諸国をみると、経済全体に占める国家間の資本移動の割合は、1990年代(3-4%)より1910年代(6%)の方が大きく、第2次大戦の一因となった1930年代の世界大恐慌は、その反動として起きたものだ。 今のグローバリゼーションが国際電話やインターネットの普及、航空運賃やコンピューターの価格破壊などによって引き起こされたのと同じ意味で、19世紀末からのグローバリゼーションの背景には、鉄道や大型客船の就航、電信網の整備などがあった。 最近、経済のグローバリゼーションと表裏一体の動きとして、発展途上国から欧州やアメリカ、日本などへ違法の移民や出稼ぎが増えているのが問題となっているが、世界的な移民の流れもまた、現在より1900年前後の方が多かった。1912年に沈没したタイタニック号の下の方の客室には、中東や東欧からアメリカを目指した移民たちがひしめいていたが、彼らはその流れの一部であった。(知人のレバノン人は、その史実が映画「タイタニック」で触れられていないので、ハリウッドを牛耳るユダヤ人によるアラブ人差別だと言って怒っていた) ▼イスラム対キリストの宗教グローバリゼーション そもそもヨーロッパ諸国が世界中を植民地として支配するようになったのも、15世紀のコロンブス以来、キリスト教を世界中に布教するという「宗教グローバリゼーション」の動きがきっかけだった。 しかもその動き自体、7世紀以来のイスラム教徒が今のフィリピン南部からポルトガルまで支配を広げたイスラムの宗教グローバリゼーションに対抗して始められた。スペインとポルトガルは700年にわたってイスラム教徒に支配されたが、コロンブスのアメリカ航海の前後にイスラム教徒を追い出し、その余勢をかってアフリカや南米まで航海した。 スペインなどによるその後の世界支配は、貿易によって大きな儲けを出したが、その戦略をさらにバージョンアップし、植民地を使った産業グローバリゼーションに変えたのが、産業革命後のイギリスであった。その流れは、帝国主義の競争に後から参入きたドイツや日本がより大きな分け前を要求をしたことから2回の世界大戦を生んだ。 その後は冷戦と、欧米による支配を嫌った第3世界の民族主義によって、グローバリゼーションの流れは止まった。だが1970年代以降、日本企業が韓国台湾や東南アジアに生産拠点を移したことをきっかけにアジアの高度経済成長が始まり、欧米からアジアへの投資や売り込みも激化した。同様にアメリカ企業もメキシコや中南米を投資先や市場として見るようになった上、1990年以降はソ連の崩壊で社会主義国にも資金が流れ込み始め、世界中を資金や製品が行き交うようになってグローバリゼーションが進んだ。 ▼日本はうまくやってきた このように、歴史上何度も起きたグローバリゼーションに対して、日本はかなり上手に対応してきている。スペインやポルトガルがアジアにキリスト教を布教したときは、鎖国を敷いて独立を守った。徳川家康らこのころの日本の為政者たちは、いったんは欧州と貿易を盛んにし、スペインに対抗してアメリカ大陸に進出する計画まで考えたが、結局は鎖国する道を選び、江戸時代の国内経済の発展を可能にした。 家康のアメリカ進出計画は、仙台の伊達正宗が家臣の支倉常長を太平洋経由でヨーロッパまで行かせた「慶長遣欧使節」として知られている。この派遣の真の目的は、正宗がキリスト教の伝導をバチカンに頼むことではなく、太平洋を渡れる造船・航海技術をスペイン人から教えてもらうため、家康が正宗に命じてひと芝居打った可能性が強い。この説は「南蛮太閤記」(松田毅一著)に書いてある。 日本は、種子島に鉄砲がもたらされた30年後には、すでに世界有数の鉄砲大国になっていた。トヨタやソニーにつながる技術習得力がすでに存在していたわけで、幕府がその後鎖国せずアメリカ進出を展開していたら、世界史を変えていたかもしれない。 産業革命後のグローバリゼーションは、日本には「黒船」というかたちで現われた。これに対しては、変化に対応しきれず凋落した他のアジア諸国を尻目に、開国と明治維新を断行して対応した。その後、欧米の帝国主義を安易にまねた結果、無謀なアジア侵略と世界大戦を起こすという失敗もしたが、戦後はまた西側の自由貿易体制をうまく使い、経済大国になった。 最近のグローバリゼーションに対しては、日本が今後どう対応すべきかまだ見えておらず「日本は乗り遅れている」という懸念の声も大きい。だが、これまで巧みにやってきた歴史をふまえるならば、乗り遅れを心配をする必要はなく、日本らしさを失わずに対応すれば、それだけでうまくいくように思える。
●関連記事田中宇の国際ニュース解説・メインページへ |