モンゴルの希望と苦悩2000年7月20日 田中 宇モンゴルで7月2日に行われた議会選挙では、かつての共産党である「人民革命党」が、市場経済化を進める「民主連合」を破り、4年ぶりに政権の座に返り咲いた。76の国会議席のうち72議席を占めるという圧勝だった。 人民革命党は、かつての共産党と同じではなく、イギリスやドイツで政権をとっているような中道左派政党に変身したことを強調している。首相に就任する同党のナンバリン・エンフバヤル党首は42歳で、イギリスに留学した経験を持っており、自ら「草原の国のブレア」と称している。イギリスのブレア首相のように、左派政党ながら経済改革を進めると自己PRしているのである。 そのエンフバヤル氏は、当選前後にマスコミと会った際、自分の本当の苗字は分からないのだという発言をした。実は同氏だけでなく、モンゴル人の6割は、自分の本当の苗字が分からない。苗字がなく、下の名前しかない人もかなりいる。これは、1920年にソ連がモンゴルで革命を起こし、支配を始めたときに行った「800年前の仕返し」の一環であった。 ▼消されたチンギスハーンの記憶 今から約800年前、モンゴルにチンギス・ハーン(ジンギスカン)が登場し、中国から中央アジア、現在のロシアにいたる広大な地域を征服し、モンゴル帝国を作った。ロシア人の王朝は滅ぼされ、それから200年以上の間、「キプチャク汗国」としてモンゴル人に支配された。 この屈辱はロシアでは「タタールのくびき」(タタールとはモンゴル人の別名)と呼ばれ、ロシア人が屈折した精神構造を持つようになった一つの原因と考えられている。だから、1920年にソ連がモンゴルを支配するようになったとき、まずやったことは、チンギスハーンの存在を、モンゴル人の頭の中から消してしまうことだった。 公式な場の発言でチンギスハーンの名前を出した人は「反革命」の政治犯にされ、博物館では彼の肖像画などの展示を禁じられた。チンギスハーン一族の子孫であると自慢していた貴族たちは「人民の敵」として処刑された。ソ連時代の最初の20年間で、貴族や仏教の僧侶など、国民の1割(約10万人)が殺されたり、シベリアに流刑されて死んだ。「革命を進めるには個別の民族主義が邪魔になる」という建前がこの政策の理由とされ、ロシア人のモンゴル人に対する「仕返し」という本質は隠された。 モンゴル人は、家系を大事にする人々だった。貴族ばかりでなく貧しい人々も、祖先は偉大な人物だったと思いたがった。こうした状況を放置すれば、たとえ貴族を処刑し、教科書から名前を消し去っても、いずれチンギスハーンは人々の頭の中によみがえり、ソ連の支配を嫌う民族主義が勃興しかねない。そう考えたソ連は1925年、モンゴルにおける苗字の使用を禁止した。苗字がなければ、自分がどの一族に属しているか分からなくなり、偉大な祖先に根ざした民族主義も生まれず、チンギスハーンの英雄性も復活しないからだった。 だが、65年後の1990年にソ連が崩壊し、ロシアのくびきから解放されたモンゴルの人々が望んだことは、自分たちの苗字と、チンギスハーンの記憶を取り戻すことだった。「迷信」として弾圧されていた仏教はよみがえって寺院が各地に再建され、民族衣装やモンゴル文字の使用が復活した。 1991年、モンゴル政府は国民が苗字を取り戻すことを奨励する政策を始めた。だが、冒頭で紹介した人民革命党のエンフバヤル党首の場合、父母が「反革命」で殺されていたため、自分の苗字を探し出すことができなかった。国民の6割を占める彼のような人々は、自分の好きな名前を苗字につけた。動物(ワシやフクロウ)や職業(鍛冶屋とか羊飼い)を苗字にするのが普通だったが、チンギスハーンの一族の名前「ボルジギン」を希望する人も多かったという。 ▼中ソからの自立を目指しアメリカに接近 社会主義の時代、モンゴル経済の3分の1以上はソ連からの援助で、首都ウランバードルにはロシア人の技術専門家らが2万人も駐在していた。90年以降、彼らが撤退して援助もなくなったが、代わりに流れ込んだのが西側からの援助金だった。 ロシアと中国に挟まれているモンゴルは、ソ連が入ってくる前には中国の属国だったから、ソ連が引いた後の空白を再び中国が埋める可能性もあった。アメリカ側はそれを防ぐため、モンゴルへの援助を急増させたが、その出資の任務は主に日本に請け負わされた。モンゴルに対する外国からの援助は国内経済の2割を占め、国民一人当たり130ドルで世界一の水準だが、その大半は日本が出している。 1992年に行われた初めての自由選挙では旧共産党が勝ち、アジアの社会主義国の中では唯一、自由な国政選挙を経験した国となった。だがその後経済が好転せず、96年の選挙では野党だった民主連合が国会の76議席中50を占めて圧勝し、経済の急速な自由化が始まった。中国やロシアに支配されることを防ぐため、アメリカに頼ろうということで、アメリカが当時進めていた自由市場経済政策を積極的に取り入れ、政策もアメリカのシンクタンクに作ってもらった。 市場主義の教科書どおり、外貨保有高の範囲内でしか通貨を発行しないタイトな金融政策を実施し、93年に年率268%だったインフレは10%未満まで減った。IMFやアジア開発銀行の助言に従い、輸入関税や資本規制など、外国から入ってくる商品や資金に対する制限もなくした結果、年率3−4%の経済成長を達成するに至った。 IT革命に乗り遅れないよう、インターネットの普及も、世界的な投機筋として知られるジョージ・ソロスの基金などで進められた。ソロスはハンガリー出身で、故郷の人々が社会主義の政策に苦しめられた歴史を繰り返さないよう、通貨投機で大儲けした金を、社会主義だった国々の自立を支援する慈善事業に使っており、モンゴルへの支援もその一環だった。 今ではモンゴルの人々は、草原にゲル(テント)を張り、移動しながら生活している遊牧民も、テントの脇にパラボラアンテナとソーラーパネルを立てて自動車用のバッテリーを充電し、それをテレビの電源にして、香港の衛星放送でワールドカップを見るようになった。 【参照】South China Morning Postの記事 ▼自由化で豊かになったのは一部だけ モンゴルの自由化は世界のマスコミで美談として報じられたが、実は豊かになった国民は一部だけだった。ソ連時代にあった年金や福祉、無償教育の制度は破綻し、かつて少なかった極貧の人々は、今では国民の4割近くを占めている。自由化とは「自由に振る舞って良いこと」だと勘違いする政治家や役人が多く、汚職が頻発し、外国の援助金は効率的に使われなかった。冬の暖房費が出ないため、公立学校の多くが機能しなくなった。 仕事がない人々は、肉やカシミアを売ることができる遊牧民になった。遊牧民の数は90年に15万人だったが、その後で3倍以上に増えた。急に家畜が増えたため、牧草が食べ尽くされて再生しなくなる過放牧の状態が広がった。 しかも昨年から、夏の干ばつと冬の大寒波が組み合わさった異常気象におそわれ、家畜が大量死している。今では遊牧民の生活伝統そのものが失われてしまうのではないかいう危惧まで出ている。 食えなくなった人々は、首都ウランバードルにきてホームレスとなった。彼らは、マイナス40度という寒さになる冬には、マンホールの中で暮らしている。地下にはソ連時代に作られた暖房用の配管があり、凍死せずにすむからである。人口60万人の市民の5%が冬はマンホールに入ると概算されている。 しかも一方で、一般人の生活改善に役立たないと思われる巨大プロジェクトも進行中だ。チンギスハーン時代の首都だったカラコルムに新しい首都を作ろうという遷都計画で、カラコルムが最初に建設されて800周年の2030年の遷都を計画している。これは、経済への効果が薄いと判明したのに延々と続けられている日本の公共事業と同じタイプの事業で、政治家にはマージンが入るが、国民にとっては税金の無駄遣いである。 アメリカが推進した自由市場経済は、モンゴルでは失敗であった。自由化が急すぎて、十分な準備期間が欠けていた。新しいルールができる前に古いルールだけ撤廃され、それが自由化であると喧伝された。経済専門家にとってモンゴルは「実験場」であったが、これはかつてカンボジアのポルポト政権の破壊活動や、中国の文化大革命が「社会主義の実験」として実施されたのと似ている。 社会主義はすでに失敗の烙印を押されたが、モンゴルだけでなく世界各地の辺境国で行われた自由経済の実験は、失敗が明白になったのに、いまだにそれが認められていない。これは危険なことだ。 こうして自由経済の失敗に懲りたモンゴル人は、今年7月の選挙で再び旧共産党を圧勝させた。だが、それだけで何かが解決したわけではない。今後は、国営企業の民営化などの自由化のスピードを落として進めそうだが、失業や貧困の問題をどのように解決するか、課題はそのまま残っている。選挙後初めてのモンゴル議会は、7月19日から開かれている。
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