政治権力はなぜ麻薬戦争で勝利できないか

1999年12月14日掲載  アジア国際通信・神保隆見

●アフガンが世界最大のアヘン生産国に

 アフガニスタンでは今年、ヘロインの原料となるアヘンの生産量が推定4,500トンに達し、世界最大の生産国になった。

 これは9月10日、パキスタンのイスラマバードに駐在する『UN(「国連」)麻薬統制計画』(UNDCP)のフラヒ代表が明らかにしたもの。

 同代表によると、麻薬ではメッカ的存在であった「黄金の三角地帯」(タイ・ビルマ・ラオス国境)とコロンビア、パキスタンとの合計で、昨年は約1,500トンのアヘンが生産されたが、このときもアフガンは2,100トンと世界最大であったという。それにしてもアフガンの今年の生産量は昨年の2倍を超えており、あまりの急激な増産である。

 アフガニスタンでは、イスラム武装勢力『タリバン』と反タリバン同盟との内戦が今なお続いているが、タリバンが国土の約80%を支配下に治めたといわれる。

 フラヒ氏によると、「タリバンが武器調達の財源とするため、アヘンの原料となるケシ栽培を奨励し、これらのアヘンはヘロインに精製された上で、中央アジア諸国やロシアを通じて欧州などに流れている」という。

 西欧世界での手の施しようのない麻薬汚染の実態は、『FOREIGN AFFAIRS』5/6月号で、ジャーナリストのラリー・コリンズが、「オランダの麻薬対策の挫折」という論文を寄せていた。

 『田中宇の国際ニュース解説』に、「欧州に密入国移民を送り出す『闇のシルクロード』」という興味深い記事がある(以下抜粋)。

 「イラン人に聞いた話では、アフガニスタンとイランの国境では、アフガン側で親子のラクダを捕まえ、子供のラクダだけイラン側に連れていき、親ラクダの背中に麻薬を詰めた箱を乗せ、野に放すのだという。

  国境付近は砂漠や荒れ地で、柵などはないから、ラクダは自由に越境できる。親ラクダは子供のにおいをかぎ分けて、イラン側にやってくるので、人間が付き添うことなしに、アフガニスタンからイランへと、麻薬を運べる。イラン兵が国境でラクダを捕まえても、誰が積荷の麻薬を乗せたのか分からないので、麻薬ブローカー自身は逮捕される危険がない。

 その後麻薬は、イランからトルコ、トルコから東欧へと、当局の目を盗んで、消費地であるヨーロッパへと運ばれるのだが、こうした『闇のシルクロード』を通って運ばれる『積み荷』には、人間自身もいる。パキスタン、イラン、トルコなどから、ヨーロッパに働きに行く、密入国移民の流れである」。

●東インド会社は麻薬貿易で繁栄した

 合法であれ非合法であれ、人の流れに伴って麻薬を含めたモノとカネが流通する。あらゆる種類のドラッグが「合法」ならば「薬」と呼ばれ、「非合法」ならば「麻薬」(ナルコティックス)になる。この薬と麻薬との間の“あいまい”な領域は広大で、国家はむろんのこと、科学者からマフィアまで様々な「職業」が介在している(ここでは「覚醒剤」を含めて「麻薬」とする)。

 そこには、需要―生産―加工―流通―消費という、他の商品と何ら変わらないシステムが存在する。しかもこれ全体が一大「産業」を形成していて、想像を絶する巨大な規模になる。いうまでもなく、陰に陽にそのほとんどの決済に、国際的な銀行がからんでいる。

 そもそも「国際的な銀行」が誕生した主要な動機が、「麻薬取引決済」の必要性からであった。『イギリス東インド会社』繁栄の巨大な柱が、インド産のアヘンを中国に売りつけることであったからだ。この会社はただの会社ではない。イギリス国王に直結する国策会社であり、麻薬は「パックス・ブリタニカ」とイギリス民主主義を支える経済的基盤であった。

 イギリスの国際資本は、国策としてアヘン貿易を「三角貿易」の柱とすることから誕生し、アジアから巨万の富を吸い上げて巨大化していった。イギリスのみならず、フランスやオランダも、そしてアメリカもそれぞれ『東インド会社』を設け、奴隷貿易や麻薬貿易で資本を蓄積していった。

 これらの歴史的事実の一端は、中学の歴史の教科書にも断片が記述されており、広く知られていることだが、「その後の国際資本と麻薬との関係」がどんなであったかは、教科書は触れていない。

 教科書が触れていないのは欧米の国際資本ばかりではない。戦前の話だが、遅れてきた帝国主義国・日本も欧米諸国に倣ってアジアを舞台に、政府と国策会社「財閥」が共謀して「麻薬取引」を行い、巨大な富を蓄積していった。しかし、これらの事実が語られることはほとんどない(以下にその一例を、本誌124号[95年6月15日付]から抜粋する)。

●イラン産アヘンを巡る三井vs三菱の死闘

 日本が、中国をはじめその他のアジア地域で、いかに汚い国家犯罪を犯したのかは、その占領地での「アヘン・麻薬政策」を見れば一目瞭然だ。この国家犯罪は直接には『興亜院』(詳しくは次号で)と、日本が造り上げた中国の傀儡政権、および日本軍の関係諸機関が主役であった。当然ながら、多くの日本の民間人がこれに関係した。麻薬にフォーカスをあわせると、「帝国主義」時代の戦争と侵略戦争の実像が鮮明に浮かび上がる。

 イラン産アヘンの密輸取引では、三井物産と三菱商事とが激しい争奪戦を展開した。両社は1937年3月6日、駐イラン代理公使・浅田俊介の立ち会いのもと、「向こう1年間は三菱の独占を認め、それ以後についてはあらためて協議する」という協定を結んでその場はおさまった。

 しかし、38年に入ると、三井は期日以後の自由競争を主張し、三菱は引き続き独占することを主張してドロ沼の争奪戦になった。困り果てた駐イラン公使の中山詳一郎が1月25日、広田弘毅外相に電報で報告した。内容は次の通り。

「右期日到来せば、両社の間に激烈な競争おこなわるべきは予想せらるるところ、しかもその相手は1個の専売会社なるがゆえ、容易に先方のために操らるべく、かくのごときは…我が方に不利なることは両社とも理解はしおるらしきも、アヘン取引は年600万円にのぼる大取引きなるうえ、これをおいて他に相当なる商売なきため、両社とも出先にては本社にたいし自己の成績に執着し、大局的利害を顧みる余裕と権限なきがごとし」。

 結局、三菱は独占契約を一方的に更新し、三井は38年12月27日までの取引からはじき出されてしまった。このため三井は、日本公使館に三菱の協定違反についてねじ込む一方、陸軍との間で直接取引を成功させ、「アヘン428箱」(1箱=160ポンド=72キログラム=2000両)=280万8000円分を、ブシール港から新嘉坡(シンガポール)丸で積み出した。

 この事態に困り果てた外務省は、1939年3月14日、両社間に「日満支むけイランアヘンの買い付けは両社共同一本建てにて交渉す」という申し合わせを成立させ、さらに興亜院の要望に基づく外務省の勧奨で10月30日、両社間に『イラン産アヘン買付組合』設立に関する協定を結ばせ、両社は等分にアヘンを扱うこととなった。

●戦争の勝利者が麻薬を独占した

 これらは、日本人のだれもが知るものではなかった。敗戦後の「東京裁判」という歴史的な緊張状況を背景にして公然化した。裁かれる根拠はただ戦争に負けたからであった。陰で同じことをやっていた国々は、勝利したがゆえに裁かれなかった。裁くものなど存在しなかったからだ。ここに「東京裁判」全体を貫く、悲劇と喜劇の根本原因がある。

 「悪が滅び正義が勝利した」などというのは、子供じみた「勝利者が書く教科書」 の文言に過ぎない。この後、「戦勝国、とりわけアメリカに麻薬取引の利権が独占的に集中した」ということが、これに関して言えるもっとも明白な帰結であった。

 アメリカは「ドラッグ・ウォー」を高らかに宣言し、「麻薬カルテルを壊滅する」 と何遍繰り返したであろう。だが、何の成果も挙げていない。事態は日を追って悪化する一方だ。唯一の超大国がそれほどまでに無能だなどと、なんで信じなければならないのか?

 逆に、「第三世界の軍事政権と結託して国際麻薬カルテルを育成し、見え透いた共謀関係にあったことを精算できない。だからそのツケのすべてを第三世界に押しつている」というのは単なる妄言であろうか?

 「もともと、国際麻薬カルテルは、闇資金を求める政府や情報機関が、あまり目立たない組織として生み出したもので、その資金を『独自の組織的な活動』(謀略)に当てていた(Alfred W. McCoy 著『The Heroiin in Southeast Asia』[New York :Harper Colphon Books,1972])」というのを、妄言でかたづけてきたのは誤りではなかったか?

 妄言をつづけよう。「冷戦時代」、決して目立ってはならないものであったが、闇資金を求める政府や情報機関と麻薬カルテルの活動は、必要不可欠な要素であった。 しかし、政府や情報機関の庇護のもとに、大いなる「発展」を遂げた麻薬カルテルは、冷戦というタガがはずれるや、“生みの親”を不安にさせるほどに巨大な存在に膨れ上がった。

 戦後の様々な新しいドラッグのほとんどが、アメリカの情報機関や軍関係機関の手によって世に送り出されたことを明らかにした研究書や報告書は山ほどある。

 A. Hoffer and H. Osmond の『 The Hallucinogens 』(New York : AcademicPress, 1967)によれば、「1960年代の闇市場に姿を現したほとんどすべてのドラッグ―マリファナ、コカイン、ヘロイン、PCP、亜硝酸アミル、キノコ、DMT、バルビツール酸塩、笑気ガス、スピード、その他多くのものは、あらかじめCIAと軍の科学者によって詳しく調査され、テストされ、場合によってはさらに効果に磨きがかけられていた」。

 「しかし、数百万ドルの費用と4半世紀の時間をかけて、人間精神を征服しようとするCIAが探求したすべての技術の中でも、LSD-25ほど注目を浴び、熱狂的に受け入れられたものはなかった。しばらくの間、CIA職員はこの幻覚剤に完全に夢中になっていた。

 1950年代初期に初めてLSDをテストした人々は、それがきっと謀略活動に革命をもたらすだろうと確信した。リチャード・ヘルムズが長官在任中にCIAは、アメリカにおける反戦運動やその他の不満分子に対して、非合法的な大規模国内キャンペーン(「MK-ウルトラ作戦」をおこなった。…」。さらに「4半世紀の時間がかけられた」のが今日である。

(続く)



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