大英博物館が空っぽになる日1999年12月9日 田中 宇今から約200年前、イギリスの伯爵だったエルギン卿(Lord Elgin)が、大英帝国の大使として、トルコの首都だったコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に赴任した時、ギリシャはまだ、トルコ(オスマン帝国)の支配下にあった。 のちにギリシャの首都となるアテネを訪れたエルギン卿は、アクロポリスの丘にある、古代ギリシャの面影を残すパルテノン神殿の、気高い美しさに魅了された。卿は、オスマントルコ政府の許可を得て、神殿の周囲にある大理石の彫像や、彫刻をほどこした壁面を、職人に模写させたり、型を取らせたりした。それをもとに彫像や壁面の模造品を作らせ、スコットランドにある屋敷に置いた。1800年のことだった。 だが彼は、これだけでは満足しなかった。本物の彫像を、自分の屋敷の庭に置きたい、と思うようになった。時代はちょうど、オスマン帝国の力が年々弱くなり、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなど、ヨーロッパの強国が、トルコの領土を狙うようになっていた。エルギン卿は、フランスなど他の列強を排除してあげると持ちかけ、イギリスの代表としてトルコ政府の要人たちに近づき、親しくなった。 そして彼は、その人脈を駆使して、パルテノン神殿の彫像や壁面を買い取ろうとした。神殿は国家財産で、売却は許されなかったが、エルギン卿は各方面に賄賂をばらまいた上、模造品を作るための型どり作業という名目でアクロポリスの丘に作業員を上らせ、彫像を掘り起こし、壁面をはぎとって運び出し、そのままイギリスに運んでしまった。 この強奪作業は、1801年から10年間もかかったが、賄賂が功を奏し、トルコ政府はずっと見て見ぬふりをしていた。当時、ギリシャ人はトルコに支配されており、イスラム教の国だったオスマントルコ政府は、異民族・異教徒の文明の遺産であるアクロポリスを、それほど重視せず、持ち去られてもあまり気にならなかったようだ。 エルギン卿は、全部を持ち去るのは悪いと思ったのか、対をなしているものが多い彫像群のうち、それぞれ一つずつをイギリスに持ち帰った。また、パルテノン神殿には柱の上に、彫刻をほどこした飾り板(フリーズ、frieze)があり、現存しているフリーズは97個だが、そのうち56個はイギリスにあり、ギリシャに残っているのは40個だけだ。 ▼強制的に大英博物館に売却された彫刻群 持ち帰った彫刻群は当初、エルギン卿の屋敷に置かれていた。だが、他国の重要な文化遺産を盗み出した卿の行為は、植民地主義がまかり通っていた当時でさえ、世の中の反発を招き、卿は議会で非難されるに至った。 結局、帝国議会はエルギン卿に、彫刻群を大英博物館に売却するよう命じた。 1816年のことだった。彫刻群は、大英博物館の所蔵物の中で、最高に価値の高 いコレクションの一つとなった。 その前後からオスマン帝国は解体し始め、1830年にはギリシャが独立した。ギリシャ政府は建国直後から、イギリスに対して彫刻群を返すよう求め続けていたが、無視された。第2次大戦後、イギリスの植民地が次々と独立し、大英帝国は役割をほぼ終えたが、世界中からイギリスに持ち込まれた文化遺産が返還されることはなかった。 大英博物館は「返還すると、その後の保管状態が悪化してしまう。人類全体の資産なのだから、もとの所有国に返すより、世界一の保管技術を持つわれわれが管理した方が良い」といった理論を展開し、返還を拒否し続けた。アテネの場合、自動車の排ガス公害がひどく、遺跡の彫刻に悪影響が出ていることなどが、その裏付けとされた。 大英博物館には、今も毎年600万人が、エルギン卿のコレクション(エルギン・マーブル)を見るためにやってくる。 ▼「パルテノンの彫刻は白い」という幻想 だが昨年、大英博物館の「世界一の保管技術」を傷つける出来事が起きた。 オックスフォード大学の歴史学者が書き、昨年6月に出版された「Lord Elginand the Marbles」という本の中に、大英博物館が1937年に、間違った認識に基づいて、彫刻群の表面を削ってしまったことが暴露されたのだった。 ことの起こりは、当時のイギリスの歴史学者たちが「パルテノンの彫刻は、作られた当初は白い色をしていたはずだ」と考えていたことだった。エルギン卿が持ってきた彫刻の表面は、茶色っぽい色をしていたので、専門家たちは、長年の汚れで色がくすんでしまったに違いないと考えた。 そこで大英博物館では、金属のたわしに化学洗剤をつけ、彫刻の表面を強くこするという「掃除」をしたのだが、作業をするうちに、実はもとから茶色っぽい色の彫刻だったらしいと分かってきた。時すでに遅く、彫刻群の80%は、表面が傷ついてしまったが、博物館当局は、この失態を隠すことにして、表面を再び着色する擬装工作を行った。 ギリシャでは従来から時折、彫刻群の返還を求める国民運動を起こってきたが、2004年にアテネでオリンピックが開けそうなので、それまでに彫刻を取り戻し、パルテノン神殿をかつての姿に戻そうとするキャンペーンが、昨年あたりから強まっていた。 そこにもたらされた大英博物館の歴史的不祥事は、ギリシャの人々を「大英博物館の保管技術が世界一だなんてウソだ」という気持ちにさせ、返還運動に拍車をかけた。 ▼クリントンの意外な登場 そんな中、大英博物館は11月初め、イギリスとギリシャの200人の考古学者を招き、シンポジウムを開催した。政治的な論議では対立しても、専門家どうしで話し合えば、返還運動による亀裂を埋めることができると考えたのだった。 だが、これもまた、裏目に出てしまった。 かつての不祥事が議論のテーマになったとき、博物館側は、1950年代のギリシャでも、彫刻を金属のたわしでこする作業が行われ、2点の素晴らしい彫刻が「今もひどい状態のままに置かれている」と反論した。これに対してギリシャ側が「"ひどい状態"とは、あまりに失礼な言い方だ」と怒り出し、非難の応酬となった。 博物館側が主催した懇親会も、館内の彫刻群を置いたホールで開いたため、問題となった。彫刻群の前にテーブルを置き、サンドイッチや飲み物を並べて、立食パーティにしたのだが、ギリシャ側の人々は「神聖な彫像の前で飲食をするのは、不敬にあたる」として、怒って帰ってしまった。こうして専門家会議も、対立を解くどころか、逆に対立を煽る結果になった。 11月下旬には、思わぬところから、問題をかき立てる人が現れた。ギリシャを訪問したクリントン大統領である。 クリントンはパルテノン神殿を訪れた際、案内したギリシャの文化大臣から、大英博物館との対立について説明を受け、「僕だったら、すぐに返還するだろう」と述べた。また「ギリシャからの帰りに、イギリスのブレア首相に会うので、彫刻群を返すように言ってあげる」と文化大臣に約束した。 ギリシャの人々は、ユーゴスラビアへの制裁を続けるアメリカのやり方を嫌い、訪問したクリントンに抗議のデモ行進を行い、大荒れの状況だった。 (ギリシャ人とユーゴのセルビア人は、ギリシャ正教徒どうしで親近感がある) クリントンは、彫刻返還問題でギリシャ人の側に立ってみせることで、不人気を挽回しようと思ったのだろう。人気取りの踏み台にされたイギリス政府は反発し、「彫刻群は200年前、エルギン卿が合法的に買ったものだ」との反論を発表した。 ▼返還を迫られるのは大英博物館だけではない クリントンの発言は、アメリカにとって非常に危険なものだ、との指摘もある。というのは、大英博物館が彫刻群をギリシャに返還せねばならなくなったら、その次は、ニューヨークのメトロポリタン美術館にある、古代エジプト美術のコレクションを、そっくりエジプト政府に返還しなければならなくなるかもしれないからだ。 クリントンは、大統領としての任期切れが近づき、後々の影響を考えない、自分の人気取りだけを目的とした発言が、このところ目立っている。先日のWTOシアトル会議でも、クリントン大統領は、反対派の市民団体を政府間の議論に参加させるべきだと述べ、WTOの事情を踏まえていない発言だとして、参加各国の関係者から非難された。 帝国主義の時代に、列強諸国が植民地支配した国々から「買った」とされる美術品の多くは、現在の基準に照らすと、不正な入手だったと判断されても不思議はない。もし、大英博物館が彫刻群をギリシャに返還せざるを得なくなったら、他のコレクションも、同じ運命をたどることになる可能性が出てくる。 事実、大英博物館の所蔵物の中では、エジプト政府がロゼッタストーン(古代文字が書かれた石碑)の返還を求めているし、ナイジェリアは自国の古代都市から発掘された品々の返還を求めている。極端な話、そのうち大英博物館には、イギリスで作られた物品しか展示できなくなるかもしれない。 以前の記事「変わりゆく大英帝国(2)」にも書いたが、イギリスはブレア政権になってから、大英帝国時代のイメージから脱却し、新しいイギリスを作ることを目指すようになっている。今はまだ、イギリス政府は、大英博物館の所蔵物を守る姿勢を崩していないが、近い将来、どんどん返していく方向に変わる可能性もある。 そうなると、イギリス以外の博物館も、帝国主義時代に集めた所蔵品を、返還せざるを得なくなるだろう。「博物館めぐりの旅」も、そのうち変質するのかもしれない。
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