終わらない遺伝子組み換え食品の安全性論議

1999年11月12日   田中 宇

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 先月、東海村の核燃料工場で大事故が起きた後に感じたのは、「市民」が「科学者」や「技術者」に対して不信感を募らせているということだった。

 10年か20年ほど前までは、そんなことはなかったと思う。私は1961年生まれだが、中学生のころは、核融合の科学者になることを夢見て、わけもわからないまま、学校の図書館にある原子核の本を借り出して読んだりしていた。私のような少年は当時、たくさんいただろう。アメリカやソ連でも、科学者は男の子たちがなりたい職業の上位だったはずだ。

 だが今や、科学者や技術者、さらには官僚や新聞記者など、専門家といわれる人々全般に対する、信頼性が落ちているように思う。たとえば、田口ランディさんが書いた記事「臨界事故をめぐる元JCO社員との往復書簡(後編)」の中で、元JCO社員である菅井弘さんは「深刻なのは、原子力に対する使命感のある学生たちが減ってきていることのような気がします。これは、社会での原子力に対する評価が非常に低く、精神的な充実感が仕事で得にくいためと思います」と述べている。

 そして専門家が「安全です」と言っても、「市民」は信用しない、という状態になっている。これは、科学技術が万能と思われていた冷戦時代が終わったことと、同一歩調の変化でもある。

▼危険性を論じた実験手法に疑義

 遺伝子組み換え食品をめぐっても、こうした傾向を感じさせる出来事が起きている。イギリスの権威ある医学雑誌「ランセット」の10月16日付け号に載った、実験報告書をめぐる論争である。報告書は、スコットランドにある「ロウエット研究所」のパズタイ元教授(Arpad Pusztai)ら、2人の研究者が書いた。

 報告書によると、遺伝子組み換え技術によって、害虫を殺す物質を分泌する機能を付加されたジャガイモを、実験室のネズミに食べさせ続けたところ、通常のジャガイモを食べさせたネズミに比べ、10日後に、腸の壁が薄くなるなどの変化が表れた。報告書では、このネズミの腸の健康被害は、遺伝子組み換え品を食べさせたことが原因だ、と結論づけている。報告書はこちらにある。(ページを見るには、無料の登録が必要)

 この実験結果は昨年8月、パズタイ教授が、テレビのインタビューに答える形で発表し、遺伝子組み換え食品に反対する人々の理論的支柱として扱われるようになった。だが学会内では、この実験だけでは、ネズミの変化の原因が、遺伝子組み換え食品であるとは言い切れないと考える人が多く、研究結果を評価したり、掲載する専門誌もなかった。

 このためパズタイ氏は、学会内で孤立し、ロウエット研究所からも追い出された。この一件以来、パズタイ氏は、イギリスの市民運動の世界では、殉教者あるいは英雄のように扱われ、「学会」に対する「市民」の怒りをあおるものとなった。

 パズタイ氏は昨年暮れ、ランセットに論文の掲載を申し込んだ。ランセットには専門アドバイザー集団があり、そのうち栄養学者、病理学者、農芸遺伝学者、統計学者ら6人が、パズタイ論文の内容を吟味した。だが、掲載したほうが良いという結論の人と、掲載できる水準の論文ではないと結論づける人とに分かれてしまった。

 同様の評価は、イギリスの研究者の集まりである「王立協会」(Royal Society)でもおこなわれたが、そこでの結論は、実験手法には何カ所かの欠陥がある、というものだった。ランセットは、これらの結果もふまえ、掲載を見送った。

 だがその後、ランセットの掲載見送りは、科学的な判断に基づくものではなく、遺伝子組み換え技術に対する反対を封じ込めたいイギリス政府などからの政治的圧力によるものだ、という批判が出るようになった。

 そのためランセットは、最初に発表されてから1年半もたってから、論文を掲載するに至った。そして論文が載った10月16日号には、論文とともに、論文には欠陥があると主張する意見や、パズタイ論文をどう評価するか、なるべく多くの人にきちんと考えてもらうため、あえて掲載した、という編集部の見解などが、同時に掲載されている。

 筆者が知る限り、遺伝子組み換え品を食べると健康被害がありうるという研究結果として広く知られているのは、パズタイ論文だけである。そこに書かれていることが、科学的に妥当なことかどうかをめぐる論争に、まだ結論が出ていないということは、遺伝子組み換え食品が危険かどうか、まだ分からないということになる。

 危険かどうか分からないので、とりあえず遺伝子組み換え食品に対する表示を義務づけよう、という考え方は妥当だと思うが、遺伝子組み換え品は危険である、という言い切りは、現時点では間違っていることになる。

▼遺伝子組み換えが、愛すべき蝶まで殺してしまう?

 遺伝子組み換え作物の危険性を指摘した著名な研究報告は、もう一つある。こちらは食べた場合の危険を指摘したパズタイ論文とは違い、組み換え作物が育つ畑における環境問題についてで、アメリカのコーネル大学の研究者が今年5月に発表した。

 アメリカでは、遺伝子組み換え技術を使って、害虫を殺す効果を持たせた「BTコーン」という品種を植えたトウモロコシ畑が増えてきたが、報告書は、そのコーンの殺虫力が、害虫だけでなく、アメリカの人々に親しまれている「オオカバマダラ」(Monarch Butterfly)という蝶の幼虫(毛虫)までも殺してしまう、という内容だった。

 実験は、屋外ではなく実験室内で行われ、殺虫効果があるトウモロコシが出す花粉を、オオカバマダラの幼虫が食べる「ミルクウィード」という植物の葉にふりかけ、幼虫に食べさせたところ、全体の半分が死に、残りも仮死状態になってしまったというものだ。「BTコーン」は、アメリカの遺伝子組み換え種子メーカー、モンサントが開発した品種で、すでにアメリカのトウモロコシ畑全体の3分の1に植えられている。

 とはいえ、この報告書が発表された後、アメリカ国内ではたいした反響がなかった。オオカバマダラの幼虫の主食がトウモロコシの葉であるのなら、話は大きいが、そうではなく、彼らはミルクウィードの葉ばかりを食べる。そこにわざわざトウモロコシの花粉をふりかけた場合、幼虫は死ぬことがある、という実験結果であり、実験室の中では起こり得ても、実際の自然の中では起きにくいと考えられたからだった。

 むしろ、この報告書が世界的にしられることになったのは、イギリスのマスコミが大きく報道したためだった。イギリスを筆頭に、ヨーロッパ各地で、市民運動も遺伝子組み換えに対する強い反対運動を始めた。

 これを機に、イギリスでは、遺伝子組み換え食品を置かないようにする食料品店が増えるなど、遺伝子組み換えに対する懸念が一気に高まった。その後、EU(欧州連合)は、Btコーンの安全性を確かめる野外試験を延期する決定を下している。野外試験を実施することによって、ヨーロッパの畑の益虫に思わぬ災難がふりかからないように、という配慮だった。

▼アメリカで遺伝子組み換え食品への反対が少ない理由

 このように、遺伝子組み換え食品をめぐって、アメリカとヨーロッパの間に温度差がある理由は、いくつかあるようだ。一つは、ヨーロッパではここ数年、狂牛病や家畜飼料へのダイオキシン混入事件など、食品産業で事故が重なり、人々の不信感が強まったことがある。

 もう一つの理由は、アメリカが世界の農業や食品産業を支配することへの反発である。特にこの傾向が強いのがフランスで、今年8月には、アメリカの食品産業の象徴とみなされたマクドナルドが襲撃されたりしている。

 これに対してアメリカは、「ヨーロッパ諸国は、自国の農業を保護するために、人々の懸念や反米感情を不必要にあおっている」と反発し、ヨーロッパが遺伝子組み換え食品を受け入れないのは自由貿易の原則違反だと主張している。アメリカは日本に対しても、同じような批判を展開している。市民運動などが、遺伝子組み換えに反発すればするほど、アメリカは「あれは自国の農業保護のためにやっているんだ」と主張する仕掛けになっている。

 また、ヨーロッパよりアメリカの方が、国民が政府を信頼する傾向が強いといえるかもしれないのだが、その反面、アメリカはヨーロッパよりずっと前の1992年ごろまでに、遺伝子替え食品技術の安全性についての議論が終わっているので、国民が不安を抱かない状態のままになっているとも考えられる。

 それを象徴するような笑い話もある。観光でロンドンを訪れたアメリカ人が、イギリスの新聞の見出しに、遺伝子組み換え食品の危険性が大々的に載っているのをみて、「うちの国には、こういう危険な食品がなくて良かった」とつぶやく、というものだ。

 実はアメリカの食品の6割には、遺伝子組み換え品が原材料の一部として使われているのだが、それがアメリカで問題にならないので、アメリカ人の多くは知らないままだ、という落ちである。

▼専門家会議の裏に企業

 遺伝子組み換え食品に対する反対運動がヨーロッパで起こり、それがやがて日本などにも広がる起爆材となった、コーネル大学の報告書だが、その妥当性をめぐっては、専門家の間で議論が続いている。その動きの一つが、11月初めにシカゴで開かれた、専門家会議であった。

 実験室の中で行われたコーネル大学の報告書からは、トウモロコシ畑の外に、BTコーンの花粉が広がり、オオカバマダラの幼虫が食べるミルクウィードの葉にも花粉が着いて、それを食べた幼虫が死ぬのではないかという懸念があった。

 だがシカゴの会議で発表された報告書の一つは、実際の畑でトウモロコシの花粉は、畑から外に10メートル以上飛んでいくことはありえず、オオカバマダラが死ぬ地域が広がることはない、というものだった。

 問題は、この会議そのものが、遺伝子組み換え技術を推進する企業が集まった組織「Agricultural Biotechnology Stewardship Working Group」の協賛によるものだったことだ。

 遺伝子組み換え食品の問題がややこしいのは、この点だ。危険は少ないという研究結果が出ても、それが遺伝子組み換え食品のメーカーがスポンサーとなっている研究だとしたら、科学的に正しかったとしても、論争上における政治的な価値は下がってしまう。

 そして「遺伝子組み換えは危険ではない」という結論が、推進派企業のヒモ付きだったりする一方で、「危険だ」という結論は、パズタイ論文のように、実験手法に欠陥があるとされたりする。

 ここで大切なことは、科学的に難しそうな問題でも、なるべく自分で判断しようとする態度をとることだろう。世の中では、科学的な判断をこころがける前に「遺伝子組み換え食品は危険だ」と決めてしまう人が多いようだが、それは結局、イメージとしての「自然」を売り物にした、新手の商業主義に取り込まれるだけではないか、と思う。





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