世界の決済電子化と自由市場主義の衰退2014年6月27日 田中 宇イスラエルが昨年から、徴税の際の捕捉率の引き上げや、犯罪抑止を目標に、国内での現金決済の廃止に向けて準備を進めている。昨年9月、税務当局、中央銀行、警察、テロ対策組織(諜報機関)などの幹部が集まり、首相官邸に委員会(Locker commission)が作られた。 (Will Israel be the World's First 'No Cash' Society?) 同委員会は半年あまりの検討の後、今年5月26日、現金廃止に向けた法整備の素案を発表した。企業取引における5千シェケル(約13万円)以上、個人間取引における1万5千シェケル(約40万円)以上の現金決済(小切手を含む)を禁じ、一つの取引を複数の決済に分割して現金決済上限に抵触しないようにすることなども違法化し、違反者を厳しく罰することを、法案に盛り込んでいる。新法によって現金決済総額を現在の100分の1程度に減らした後、紙幣や通貨を廃止して現金決済の全廃、現金(紙幣と貨幣)の廃止に進む計画だ。 (Government Plan s Would Transform Israel Into The World's First Cashless Society) イスラエル政府によると、同国の経済活動のうち2割程度が脱税している地下経済(ブラックマーケット)だ。現金決済を廃止して国内の決済のすべてを電子化し、当局が全決済をデータベース化して検索することで、脱税が不可能でカネの絡んだ犯罪も防げる経済体制を作る構想だ。80年代の金融や産業の自由化(民営化)以来、経済の自由化が世界的に進み、徴税の際の補足率が各国で低下している。クレジットカードや電子マネー、インターネットのオンライン決済、スマートフォンの電子マネー機能など、電子決済の技術向上と世界的普及によって、現金不要の電子決済のインフラが整ってきている。現金決済は世界的に減る傾向だ。 (The cashless society is closer than you think) 企業間と個人の両方を合わせた国内決済全体に占める現金決済の割合はすでに、米国で9%、EUで7%、電子決済化を積極的に進めたスウェーデンでは3%まで減っている。スウェーデンは、欧州で初めて紙幣を導入した国だ(1661年)。そんなスウェーデンが今、欧州で最も脱紙幣化が進んだ国であるのは興味深い。 (Sweden moving towards cashless economy) 韓国では、消費者が商品を買う際に現金でなくカードを使うと売上税が割り引かれる制度を導入し、06年までの4年間で個人の商品購入時の決済全体に占める現金の割合を40%から25%に下げた。欧州で最も非現金化が進んでいるスゥエーデンでは、この割合が27%なので、韓国はそれ以上のキャッシュレス社会になっている。 (Top 5 Cashless Countries) (Swedes set for cashless future) EUでは多くの国で、現金で決済できる上限額を1万5千ユーロ(約2百万円)と定めている。ドイツや英国は制限がない半面、フランスやイタリアは現金決済をかなり厳しく制限している。米国では、1万ドル以上の現金決済をした場合、政府への報告が義務づけられている。いずれも、高額の現金決済が資金洗浄や脱税につながることが多いと判断し、法制化している。 (Israel's `cashless society' won't pay, say critics) (Cash payment limitations) 決済の非現金化は政府や企業にとって、徴税効率の向上、経済犯罪抑止、支払い時間の短縮による店舗の効率化、決済の無人化による人手不足の緩和などの効用がある。政治的に見ると、決済の電子化、非現金化は、政府が民間の経済活動を監視、管理できる度合いを劇的に高める。現金決済の政権を強めると、政府が、与党に都合の悪い野党人士の個人決済のすべてを簡単に把握でき、スキャンダルに仕立てて潰せる。政府自身が情報の使い方を律しないと、簡単に隠然独裁体制につながる。 政府が全国民の全決済を監視できる決済の電子化と、米政府の通信傍受機関NSAやグーグル、アップル、ウンイドウズ8などによる(米)当局が全ての通信をのぞき見できる体制が合わさると、全人類の生活の大半を、米国などの政府が監視・抑止できる完璧な監獄型世界ができあがる。キャッシュレスは「プライバシーレス」でもある。多くの人が常に身近に置いている「かっこ良い」スマホは、囚人の体に埋め込まれた発信器と同等(それ以上の機能)だ。人類の未来はバラ色だ。個人の秘密を守りたがる人は愚鈍で加齢臭漂う左翼だ(笑)。 (全人類の個人情報をネットで把握する米軍諜報部) 半面、決済手段として匿名性が高い現金を残しておくことは、自由市場主義の基本でもある。これまで世界の覇権を握ってきた米英は、経済に対する政府の介入は経済成長を阻害することが多いという考え方から、自由市場主義を掲げてきた。自由市場主義がバブル膨張につながってリーマン危機が起きた後、米英が率いる先進諸国の政府は財政難がひどくなり、少子高齢化による人手不足と相まって、現金決済を制限して徴税効率を高め、経済効率を向上する必要に迫られている。 しかし、現金決済を強く規制したり廃止すると、自由市場主義の根幹にある匿名性の保持を壊してしまう。市場(民間経済)と政府の間に力のバランスにおいて、政府の方が優勢になり、市場主義が弱くなり、国家主義が強くなる。逆に言うと、米英(米欧)が自由市場主義を世界経済の根幹に据えることをやめていくつもりでないと、現金決済の廃止が世界的に実現していくことはない。 世界的に見ると、イスラエルは決済の非現金化の流れにおいて、最先端でなくむしろ後発だ。しかしイスラエルの非現金化政策の特徴は、現金の全廃までを目指していることだ。イスラエルのように国際政治に敏感な国が、政府をあげて現金廃止の計画を進めるのは大きな意味がありそうだ。私は、イスラエルが現金決済を廃止する計画だと報じられたのを読んで、これはイスラエル一国の問題でなく、経済だけの問題でもなく、国際政治や世界的な覇権システムと絡んだ話でないかと感じた。 イスラエルはユダヤ人が作った実験的な国家だ。ユダヤ人は歴史的に欧州や中東における「決済の民」であり、英国はユダヤ人の決済(経済)のネットワークを活用して覇権国になった。近現代300年の英米覇権は、アングロ・ユダヤ覇権ともいえる。イスラエルが現金を廃止する計画を打ち出したことは、アングロユダヤの覇権勢力の中に、いずれ決済をすべて電子化し、現金と現金決済を廃止しよう、もしくは、廃止しても良いのでないかという考えがあることを示している。 イスラエルは人口が6百万人の小さな国で、建国以来、キブツなど実験的な社会システム作りをいくつも手がけてきた。イスラエル建国の基礎になったシオニズム自体、ユダヤ人の実験的な(日本のような「天然の国民国家」と正反対の人為的、創造的な)ナショナリズム運動だった。イスラエルは、現金廃止の実験をするのに好都合だ。 (覇権の起源:ユダヤ・ネットワーク) イスラエルが現金廃止の計画を発表した2日後には、米連銀(FRB)やIMFといった「通貨の番人」の幹部を歴任し、ダボス会議の常連(つまり権威ある人)である米国の経済学者ケニス・ロゴフが、現金を廃止すべきだと主張する論文をFT紙などに出した。徴税効率の向上論のほか、量的緩和(通貨の大量発行)の時代である今こそ、すべての決済を電子化し、紙幣の発行にかかる手間を激減すべきだと主張している。この論文には「イスラエル」という言葉が全く出てこない。その点が逆に、イスラエルの計画が、ロゴフのような経済覇権を運営する側にいる人々と絡んだものである感じを醸成している。ロゴフはユダヤ人だ。 (Paper money is unfit for a world of high crime and low inflation) (Kenneth Rogoff examines two ways to beat the zero bound on nominal interest rates) (ロゴフがユダヤ人であることは、2年前のダボス会議でのFT紙のインタビューで、ユダヤ人の記者とロゴフが、ダボス会議のユダヤ人出席者のために開かれる金曜夕食会に参加するかどうかの話になり、ロゴフが、ラビシャンカールのシタール演奏を聴きに行くので自分は参加できないと述べるくだりが書かれているので確認できる) (Lunch with the FT: Kenneth Rogoff) 現金決済の廃止、現金の廃止が、米国の経済覇権運営者の構想の一つであるとしても、現金の廃止が最大の意味を持つのは、米国や欧日などの先進国においてでない。中国など、新興諸国にとって、現金の廃止はより大きな意味を持つ。現金の廃止は、特に中国において画期的な意味を持つ。 中国は、現在の経済大国になる基盤を作った、1970年代からトウ小平が進めた改革開放政策において、香港の英国製の匿名性の高い自由市場主義の経済システムを中国本土に採り入れることで、経済の急成長を実現した。トウ小平は、中国全土を経済だけ香港化することで、社会主義にこだわる政府が民間の経済活動に全く介入せず、徴税も管理もほとんどあきらめ、中国経済の総ブラックマーケット化を容認することで、中国人が本来持っていたものの毛沢東の文化大革命などで破壊されていた「商人」としての経済技能の高さを生き返らせ、中国を経済大国として蘇生させた。アヘン戦争以来、中国を搾取していた英国が香港に作った自由市場システムを「帝国主義」として敵視するどころか、逆に中国自身が吸引することで、管理を後回しにして成長を優先し、成功した。 中国では、トウ小平の思想の忠実な後継者だった胡錦涛の時代が終わり、トウ小平の呪縛から離脱するかもしれない比較的大胆な習近平の時代が始まるとともに、経済が高度成長から安定成長に転じつつある。経済の中心が輸出から内需に転換し始めるとともに、国内の中産階級が増加して、所得税や法人税をうまく徴税すると税収を急増できる状況になっている。しかし中国経済は今も、政府が把握できないブラックマーケットの部分が大きい。 中国は、米欧からのネット攻撃を防ぐ国家ファイアーウォールの内側の国内で独自のインターネット網を構築し、市民のネット活用の頻度は先進国と変わらない。このような中国が今後、決済の電子化や現金決済の制限を進めていくと、中国政府が国内の経済活動の全てを把握できるようになり、徴税効率が上がり、党幹部の不正や、反政府活動を監視できる。中国政府は、これまで成長を優先するためにあきらめていた経済管理や徴税効率を、今後しだいに強めてと予測される。その際、決済の電子化が使われる可能性はかなり高い。 中国だけでなく、インドやブラジル、トルコなど他の経済新興諸国も、似たような発展段階にある。経済成長の初めの段階では、政府が管理をしても社会主義的になったりして逆効果なので無管理の自由市場主義を導入し、成長が進んで民間企業や中産階級が増えたら、経済の国家管理を増やし、徴税効率を上げる。新興諸国は、いずれも国民のインターネット利用を促進し、決済の電子化も先進国並みに進んでいる。現金決済の廃止は、BRICSや新興諸国の経済発展に役立つ。 新興諸国にとって自由市場経済システムは、米英の投機筋が自国の金融市場を好き放題に荒らして破壊する「金融兵器」の被害を受けやすい。米英は、新興諸国の経済を金融兵器で破壊した後、IMFなどを通じて民営化を強要し、新興市場の国営企業は米欧企業に安く買いたたかれる。こうした被害を防ぐためにも、新興諸国は、ある程度経済が発展して用が済んだら自由市場経済システムを破棄する傾向にある。 今後、米国の金融バブルが再崩壊し、世界が米英覇権体制から多極型に転換すると、英米が好んでいた自由市場経済が過去のものになり、世界は、市場主義より国家主義が優先するBRICSが好む体制へと転換していくだろう。自由市場経済が必要とする、匿名性の高い現金決済のシステムを世界が維持する政治的な意味も低下する。 プライバシー保護の観点からは、現金決済を残すことが重要だが、そのうち「現金決済は時代遅れで悪いことです」「現金を残したがるのは非国民の左翼か暴力団だ」という上からのプロパガンダが席巻し、軽信的な人々は、若い人から順番に、簡単に価値観を変えるだろう。中国を敵視したがる日本にとって、決済電子化は中国をますます強くするので良くないことなのだが、そういった本質的なことはプロパガンダにならず、深く考えない傾向(それが「ポジティブ志向」と呼ばれて推奨される)を強めるばかりの多くの日本人の頭によぎりもしないだろう。 今の日本は国際政治の展開を見ようとしない国だが、イスラエルはそうでなく、おそらく多極化の流れを見据えつつ、現金廃止の実験を開始する。イスラエルは、システムに裏口を作るのが得意だ。米国の電話の交換機や通信のルータのシステムをイスラエル系の企業が受注してひそかに裏口を設け、イスラエルの諜報機関が米国の要人らの通信を盗み見できるようにしたことが、米政界におけるイスラエルの絶大な影響力の背景の一つだ。もしかするとイスラエルは今後、自国での決済電子化の実験を通じて、電子化された決済の情報を管理するシステムやノウハウを構築し、そこに秘密の裏口を設けた上で中国など新興諸国に売り、世界が多極化された後も、覇権諸国の要人の動向を盗み見できるようにしたいのかもしれない。 もう一つ、決済電子化、現金廃止の動きと関連して気になるのが、金地金の存在だ。現金を廃止した場合、電子決済を嫌がる人々が対策として採りそうなのが「物々交換」だが、交換する「モノ(商品)」として最も安定しているのは、金地金をはじめとする貴金属だ。現金を廃止しても、通貨ができる前の時代の売買の仲介物だった金地金を廃止(没収)することはできない。政府が金貨の鋳造をやめても、金地金を重さで量って事実上の通貨として使うことはできる。現金が廃止され、左翼も暴力団もいなくなった後、最もスマートで未来的な電子決済と、最も野蛮で時代遅れな金地金決済が残ることになる。
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