テロ対策への不信2013年8月10日 田中 宇米国の国防総省傘下の信号傍受の諜報機関「国家安全保障局(NSA)」が、裁判所の捜査令状もとらず違法に、米国民の電話の通話記録を数千万件の規模で収集していたことが、元NSA要員(エドワード・スノーデン)らの暴露によって明らかになった問題で、7月24日、米議会下院が、NSAの情報収集権限を規制する法案を票決した。票決されたのは、NSAの当該財源を削減する、国防権限法への条項修正案だ。法案は、賛成205、反対217と、12票の僅差で否決された。 (FINAL VOTE RESULTS FOR ROLL CALL 412) (全人類の個人情報をネットで把握する米軍諜報部) 民主党議員の過半が賛成した。共和党議員も賛成94、反対134で、賛成が意外と多かった。911以来、NSAや国防総省がやってきた過剰なテロ戦争に賛成する傾向が強かった共和党ですら、NSAの無差別盗聴に対する懸念が急速に強くなっている。この条項改定案は、共和党のリバタリアン(小さな政府主義。米国は覇権を棄てるべきと考える)の若手議員(ジャスティン・アマシュ)と、民主党のリベラル派の年寄り議員という、2人の市民運動系の少数派議員が共同で提出した。この「アマシュ修正案」は、投票に付されるまで軽視され、大差で否決されると思われていた。2人は数週間前にも似たような法案を出していたが、ほとんど話題にならず、大差で否決されていた。今回の意外な僅差は、関係者やマスコミを驚かせた。 (Congress nearly shuts down NSA phone dragnet in sudden 205-217 vote) 同法案には提案後、民主・共和両党の、もっと主流派の議員たちが相次いで賛成を表明し、異例の展開となった。2001年の911事件以来、米政界では、国民や世界の人々の人権やプライバシーよりも、テロを抑止するテロ対策の政策や戦争が重視される傾向が続いた。この傾向に沿うなら、今回のNSA規制法案も、大差で否決されて当然だった。しかしスノーデンが、NSAによる不必要に広範で違法な通信の盗み見を次々と暴露した後、NSAに対する不信感が米政界内で急拡大し、流れが変わった。 (Momentum Builds Against N.S.A. Surveillance) 米議会では「NSAは諜報部会の議員に対しても、基本的な情報すら開示しない」「スノーデンが暴露したNSAの盗み見政策の存在すら、米議会は、新聞に出るまで知らなかった」といった不満が増大している。アマシュ議員らは夏休み明けに、さらにNSA規制の立法を提案する見通しで、次回はNSA規制が可決されるかもしれない。次回法案も否決され、NSAが無傷ですんだとしても、米政府のテロ対策への信用は落ちている。 (Members of Congress denied access to basic information about NSA) 米政府は8月4日、「アルカイダ」が米大使館をテロ攻撃しそうだとして、世界の22の米大使館を閉鎖・休業した。閉鎖期間は当初最長1週間とされたが、その後、いくつかの大使館は1カ月の閉鎖になると米政府が発表し直した。 (White House warns some US embassies could remain closed for another month) テロ攻撃の可能性が高まった根拠は、アルカイダの幹部たちがおこなった「電話会議」をNSAが傍受したからだと報じられている。しかし、自分の電話を傍受されていることを知っていると考えられるテロ組織の幹部が、わざわざ電話会議をやって重要な案件を電話で話し合うとは考えにくい。NSAが役に立つことを示すため、米当局が危険を誇張した可能性がある。 (Exclusive: Al Qaeda Conference Call Intercepted by U.S. Officials Sparked Alerts) とはいえ長期的な傾向としてみると、アルカイダの「脅威」は増している。正確に書くと、米当局がアルカイダの脅威を増大させている。米当局は、リビアでアルカイダ系の武装勢力に武器や資金を渡してカダフィ政権を倒し、シリアでも同様にアサド政権を倒そうとしている。リビアはカダフィが倒れた後、内戦に近い無政府状態で、リビア東部はアルカイダとムスリム同胞団の系列諸勢力の支配下にある。今後もし、シリアの反政府勢力がアサド政権を倒したら、アサドが持っていた化学兵器や地対空ミサイルを含む大量の兵器がアルカイダのものになる。米当局(CIA)は「米国にとって最大の脅威は、アルカイダがアサド政権を倒して武器を奪取することだ」と言っている。 (Al-Qaeda Replacing Assad is the Biggest Threat to US Security - CIA Deputy Director) シリアで反政府勢力がアサド政権を倒しても、エジプトでモルシーのムスリム同胞団政権が続いていたら、シリア最大の野党だった同胞団が、エジプトの同胞団から支援されて政権を作り、アサド後のシリアがアルカイダに乗っ取られることを防げたかもしれない。同胞団はアルカイダより穏健で現実的だ。しかし、すでにエジプトのモルシーは軍のクーデターで転覆された。エジプトの革命逆流は、中東を不安定にしており、米イスラエルにとって脅威を増加させている。シリアが好戦的なアルカイダ政権になったら、ゴラン高原の奪回をはかり、イスラエルに戦争を仕掛ける可能性が高い。 (Al-Qaeda in Perspective) 米国は、イランやレバノンのヒズボラを敵視しているが、シーア派のイランやヒズボラは、米国のテロ戦争にとって、頼まなくてもスンニ派のアルカイダと戦ってくれる「益虫」である。米国は「益虫」を敵視し、敵のはずの「害虫」(アルカイダ)を繁茂させ、守らねばならないはずのイスラエルを亡国の危機にさらし、中露や発展途上諸国を反米非米で結束させている。アサドを支持するロシアのプーチンは「自国をテロ攻撃したアルカイダが、シリアを乗っ取るのを助けている米国は、間違っている」と言っている。プーチンは正しい。 (Putin Laughs At Saudi Offer To Betray Syria In Exchange For "Huge" Arms Deal) アルカイダはもともと実体が薄かったが、今やリビア東部やシリア北部に拠点を持ち、武器も豊富だ。同じく中東スンニ派諸国に国際ネットワークを持つ穏健派のムスリム同胞団がエジプトで倒され苦戦するのしり目に、今後、過激派のアルカイダが中東で拡大し、希薄だった組織を強化するかもしれない。現実的な同胞団はイスラエルや米国と共存する気があるが、アルカイダは「隠れ多極主義」の米国が作っただけに、米イスラエルを敵視し続ける。米当局のテロ対策のなれの果てがこの事態だ。NSAなど米当局への信用が失墜するのは当然だ。 ドイツは戦後ずっと、米英の諜報当局が国内を勝手にスパイ(盗み見)するのを容認する秘密協定を結んでおり、スノーデンのNSA事件を機に、この協定の存在が暴露された。ドイツ政府は、秘密協定を破棄することを宣言した。英国政府は「あの協定は古くさいもので、とっくに意味のないものになっている」と表明したが、実際のところ、米英の諜報当局はドイツの企業秘密を産業スパイしており、ドイツの国益にとって危険なのは中露より米英になっている。 (NSA's Overreach Weakens US Diplomatic Position With EU) (Germans Revoke US Permission to Spy on Them) ドイツを自由にスパイできる協定は、英国が第二次大戦で米国を引っ張り込んで、永遠の地政学的ライバルだったドイツを叩き潰した後、二度と復活に向けた動きをしないよう、ドイツ(西独)国内で好きなだけスパイ活動するために作った(英国にとってと異なり、米国にとってドイツは地政学的な敵でない)。冷戦が終わり、テロ戦争も失敗して、米英中心の覇権体制が崩れる中、ドイツは米英のくびきから解かれ、統合されたEUの主導国になりつつある。EUはまだ金融危機を仕掛けられているが、ゴールドマンサックスは危機の終わりを見通している。 (Germany Ends Cold War Spying Pact With US, Britain) (Goldman bets on eurozone recovery) 米国では、史上最多の2100万人の若者が、十分に収入の得られる仕事が見つからないなどの理由で、実家に住み続けねばならない状況にある。18歳から31歳の若者の36%が、実家に住んでいる。2007年には、この比率が32%だった。以前に書いたように、米企業がフルタイムの雇用を減らしてパートタイムばかり増やすので、人々の収入が減っている。米国は中産階級が貧困層へと転落し、貧富格差の大きい第三世界的な、大多数の貧乏人とわずかな大金持ちから成る国になりつつある。 (Study: Record Number 21 Million Young Adults Living With Parents) (米雇用統計の粉飾) 2009年の不況時以来、米経済は1・3兆ドル分成長したと言われるが、同時期に米国の株価総額は12兆ドルも拡大し、株がバブルになっていることがうかがわれる。債券市場は春以降、救済者である米連銀以外の買い手が少ない状態で、著名な債券投資家のビル・グロスは最近「これまで最新鋭の投資兵器と考えられてきた債券が、すでに時代遅れになった。あらたな新兵器は『キャリー取引』(為替と金利を組み合わせた投資)だ」と書いている。 (The U.S. Economy Has Grown by $1.3 Trillion, While The U.S. Stock Market Has Grown by $12 Trillion) (Bond Wars) 米金融界では、債券を発行して企業を買収(上場停止)し、その企業の株式配当で債券を償還しつつ利益を出す「プライベートエクイティ」も、債券金利の上昇を受けて利益が出にくくなっており、バブル崩壊が懸念されている。住宅ローン債券市場も利益が減っている半面、オバマ政権は住宅ローンを債務保証してきたファニーメイなどの政府系信用保証機関を解散し、債務保証業界のを完全民営化することを計画している。次の債券危機が起きたとき、政府が面倒を見ずにすむようにしたいのだろうが、この足抜けは、次の危機をいっそうひどいものにする。 (Private-Equity Payout Debt Surges) (Obama to Urge Congress to Shutter Fannie, Freddie) 米政府は軍事費(防衛費)の削減を検討しており、最新鋭だが欠陥が多いロッキードマーチンのF35戦闘機の開発を中止することが取り沙汰されている。F35の欠陥は以前からあちこちで指摘されてきた。今年3月に欠陥が国際的に問題にされたとき、当時の日本の岩崎茂・統合幕僚長が「F35は最高の戦闘機だ」とマスコミに語っている。日本はF35を42機買う予定だ。F35が欠陥機なのは、世界の多くの専門家が認めるところだ。しかし日本政府(官僚)にとっては、戦闘機の実際の能力はどうでも良いことであり、日米同盟(対米従属)の維持だけが大事であることを物語るコメントだった。 (Pentagon considers cancelling F-35 program, leaked documents suggest) (Japan's military chief says F-35 is "best fighter") 最近の日本は、米軍の言いなりで沖縄の基地へのオスプレイの配備増を認めるなど、できるだけ長く対米従属を続けようとする姿勢をとり続ける一方で、米軍が日本から出ていき軍事的な対米従属ができなくなった後のことも考えているようだ。その一つが、先日の自衛隊のヘリコプター搭載護衛官「いずも」の就航だ。日本の戦後最大の軍艦であり、事実上のヘリコプター用空母であると、中韓だけでなく英米のメディアも報じている。日本政府は米国から「米軍に頼らず自衛できる力をつけろ」と言われており、軍事的な自立策の一つが今回の「准空母」の就航だ。対米従属だけが方針なら、空母や大きな戦艦をなるべく持たない方が良いが、米国の縮小を受け、今の日本はそうした「小さいふり、弱いふり」が許されなくなっている。 (It looks like an aircraft carrier, it sounds like an aircraft carrier... but the Japanese are adamant their biggest ship since WW2 is a 'flat-topped destroyer') 日本は米国に自立しろと言われ、事実上の空母を作ったり、憲法9条を改定しようとしている。しかし日本が動き出すと、とたんに米国から「日本は、これまでの防衛のみだけでなく、日本の方から外国の基地を攻撃できる能力を持ちたがっている。日本に中韓と仲直りしてほしいと思っている米国は、日本の好戦性を恐れている」といったメッセージが発せられる。日本は、米国からはしごをはずされていく傾向だ。 (U.S. fretting over Japan's desire to militarily strike enemy bases) FT紙は、最近また世界経済の多極化について指摘する記事を出した。新興諸国で中産階級が増加(米国の中産階級は縮小)し、米国は引き続き覇権国だが優位性が低下、複数の基軸通貨が存在する世界システムが定着する。世界システムは、世界大戦でもなく、円滑な国際管理でもなく、その両端の間を進んでいく、などと指摘している。 (The global economy is now distinctly Victorian) この記事を読んで私が感じたのは「米国がイラクやアフガニスタンに侵攻して軍事力を浪費したからこそ、米国の軍産複合体が中国を潰す世界大戦を仕掛けたくてもできず、世界大戦による多極化阻止と米単独覇権の維持が図られず、ゆるやかな多極化が進む事態になった」ということだ。ブッシュ政権の、馬鹿げたイラクやアフガンへの侵攻は、何十万人もの地元の無実の市民を殺したが、隠れ多極主義として世界史的な意味があったのだとあらためて感じる。 1930-40年代、米国は孤立主義に入り、英国がドイツに潰されるのを看過するはずだったが、英国が米政界に入り込んで日独と戦争する方向に米国の戦略を転換させ、見事に独仏を潰した。この「教訓」から第二次大戦後、米国は、ベトナム戦争やイラク戦争といった、無意味で自滅的な戦争を行い、台頭してくる中国などを潰すための戦争を起こす余力をあらかじめ削ぎ、イスラエルや英国が米国を世界大戦に陥れることを止めている。中東は大戦争が起こりうるが、それはイスラエルを自滅させるため、起こりにくい。起こったとしても、多極型世界の覇権諸国であるBRICSは無傷だ。 FTが指摘するように、今の世界は多極型に転換しつつあるが、世界の管理が円滑でなく、BRICS諸国の間にも対立がある。最も対立的なのはインドと中国だ。中国は相変わらずアルナチャルプラデーシュ州などインドが実効支配している地域の領有権を主張し、対中貿易重視のインドの譲歩を引き出している。 (中国の影響力拡大) (Chinese troops adopt new tactic, stop Indian Army from patrolling in its own territory) 先日、インドが対抗して5万人の軍隊を新設して対中国境地域に配備する計画を発表した。インドは、中国に譲歩させられてきたこれまでの流れを転換したのかと思って良く読むと、新たな部隊は中国との国境対立が激しいアルナチャルプラデーシュ州に配備せず、中国に接していない西ベンガルやアッサムといった諸州に駐留するだけだった。英国仕込みで米英中心主義(中国敵視)のプロパガンダが強いインド国内の世論に配慮して、インド政府は、かねてからの懸案だった5万人の国境部隊を新設したものの、中国との関係を悪化させぬよう、中国国境に配備しないのだった。 (India's Mountain Strike Farce) WSJ紙はまた、インドが南アジアの地域覇権国になりつつあるのに、独自の計画を作らず、アフガニスタンやパキスタンの変化に、場当たり的にしか対応せず、米国のアフガン撤退で(中国の進出など)地政学的転換が起きるのに準備していないと批判する記事も出している。米国の単独覇権体制を鼓舞したWSJにとってすら、多極化は不可逆的な動きだ。地政学的転換に対して何の準備もしない(唯一試みた鳩山政権はすぐ潰された)のは日本も同様で、対米従属系の諸国の甘さがあらわれている。 (India Is a Regional Power Without a Plan) NSAなどによる信号傍受は、世界の裏の流れを把握する国家の諜報機能として非常に重要だ。今回、スノーデンらが起こしたスキャンダルで、米国の信号傍受の機能が危機に直面している。誰がスノーデンをそそのかし、中国・香港やモスクワを舞台に大立ち回りをさせたのかわからないが、今回のNSAに対するスキャンダルは、米国の覇権を自滅的に弱め、多極化を進める動きとして注目される。
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