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革命に近づくシリア

2011年4月23日   田中 宇

 シリアのいくつもの町で、4月22日のイスラム教の金曜礼拝後、無数の市民がモスクから出発して町を練り歩く反政府デモが発生した。全土のデモ参加者総数は数万人にのぼり、各地で治安部隊がデモ隊に向かって発砲し、100人近くの死者が出た。同様のデモは前週金曜日4月15日にも起き、前週は治安部隊の発砲で37人が死んだが、今週はそれをはるかに上回る人数が殺された。シリア政府は、無許可の反政府運動を弾圧すると警告していた。3月中旬からのシリア反政府運動は、どんどん大きくなっている。 (Dozens killed in bloodiest day of Syria uprising) (3月26日の記事「シリアも政権転覆か?」

 シリアの独裁者バッシャール・アサド大統領は今週、父親のハフェズ・アサドが1963年に権力をとった時から48年間ずっと敷かれていた戒厳令(非常事態法)を解除するとともに、反政府勢力を弾圧する機構だった国家最高治安裁判所を廃止した。アサドは、国民の間で評判が悪かった戒厳令や治安裁判所を廃止することで、反政府感情を懐柔しようとした。しかし、シリアやエジプトのような中東の独裁諸国では、独裁者の譲歩は、弱みを見せることと受け取られる。反政府組織は「これを譲歩したなら、あれも譲歩するはずだ」と考え、独裁者が譲歩しても納得せず、むしろ反政府運動を強める。こうしてエジプトのムバラクは失脚したが、シリアのアサドも似た苦境に陥っている。 (Syrian killings: Is this the tipping point?

 2000年に父親のハフェズが死んでバッシャールが権力を継承した時、バッシャールは「政治改革」を目標に掲げ、多くの国民が、戒厳令などの独裁的な体制が解除されると期待した。しかし、父親の代からいた治安当局者たちは、自分たちの権限を低下させる政治自由化に反対し、バッシャールの政治改革は口だけに終わった。「いまさら戒厳令を解除しても遅すぎる」というのが大方の意見だ。すでに反政府デモは、アサドの独裁を終わらせることを明確な目標にしており、エジプトのように独裁が倒されるか、バーレーンのように運動と弾圧が長期化するか、どちらかになる。バーレーンはサウジアラビアという後ろ盾に守られているため、対立が長期化している。シリアにはそのような強い後ろ盾がないので、アサドは倒される可能性が大きい。 (Fisk on Syria - AJ English 【動画】

 アサドとその傘下のシリア治安維持組織の主力は、国民の1割しかいない少数派のアラウィ派イスラム教徒勢力である。多数派(70%)のスンニ派は、アラウィ派の独裁を嫌っているので、軍内が分裂したりしてアサドが失脚すると、治安維持組織ごと根こそぎ権力を剥奪される状況にまで至るだろう。シリアに大きな権力の空白が生まれる。シリアには野党が全くない。リベラル市民運動も非常に弱い。権力の空白を埋めるのは、ムスリム同胞団しかないだろう。同胞団は昔から、アサド親子にとって最大の脅威だった。シリアにとって最も頼れる外国勢力はイランだが、イランはエジプトのムスリム同胞団と仲が良い(シーアとスンニという違いを超え、イスラム主義でつながっている)。イランは表向きアサドを支持しているが、本心では、アサドが失脚して同胞団の政権になっても良いと考えているだろう。だからアサドはイランに頼り切れない。

 今起きていることの方向性は、エジプト、ヨルダン、シリアという細長いつながった地域が、ムスリム同胞団の国になっていくことだ。パレスチナも同胞団系のハマスが強くなっている。シリアの東にあるイラク、西にあるレバノンは、いずれも近年、イランを中心とするシーア派勢力の国になった。トルコは近年イランと接近している。イスラエルは弱体化している。サウジは、バーレーンで負けると大油田地帯をイラン系勢力に奪われかねない。同胞団とイラン系勢力が結託して中東を支配する構造が見えてきている。 (やがてイスラム主義の国になるエジプト



▼イエメンの反乱、サウジの危機

 世界最大の産油国サウジアラビアが、四面楚歌的な状況になっている。サウジにとっての脅威は、イランとムスリム同胞団である。サウジの北にあるイラクは、米軍による「強制民主化」の結果、イラン傘下のシーア派勢力が支配する国になってしまった。2月からは、サウジの北東沿岸にあるバーレーンでシーア派の反乱が起こり、サウジ軍が介入した。介入しなかったら、反乱はサウジ東部の大油田地帯に飛び火していたはずだ。バーレーンは17世紀までイラン領だっただけに、シーア派の反政府運動がイランとつながっていても不思議でない。サウジの西にあるエジプトは革命後、同胞団の国になっていく方向を歩んでいる。シリアとヨルダンも同様の方向だ。

 加えて、サウジの南にあるイエメンでも、エジプトやシリアと同様、独裁者サレハ大統領に対する反政府運動が起こり、100万人規模の集会も行われ、政権転覆の危機にある。サウジが主導権を持つGCC(湾岸諸国機構)が、EUとともにイエメンの国内対立を調停すべく、3月にはサレハを留任させたまま与野党を和解させようとした。しかし野党が拒否し、反政府運動が強まったため、4月に入ってサレハが持たないとみたサウジは、GCCとして、サレハが30日以内に辞任するとともに、与党50%・野党40%・その他勢力10%の連立政権を作る案を提案した。しかしサレハは「自分は民主的な選挙で選ばれたのだから、辞めるわけにいかない」と、2013年の任期まで辞めないと表明し、和解案は頓挫している。 (Gulf plan offers Yemen president 30 days to quit

 サレハ大統領は、イエメンの南北統合を成し遂げた立役者である。イエメンは1967年から1990年まで、南北に二分され、別々の国になっていた。イエメンは19世紀、北部がオスマントルコ領、南部が英国領(スエズ・インド航路に面したアデン港)で、北部はイエメン王国として独立したが、その後サウジが支持する王政派と、エジプトやソ連が支持する共和派の内戦が1963年から70年まで続いた。北部はその後も混乱したが、78年に軍司令官だったサレハが大統領に昇格(前任者は暗殺された)し、全権を掌握した後、安定した。 (Ali Abdullah Saleh From Wikipedia

 南部は、英国が1967年にスエズ以東から撤退した(地政学的覇権から、金融覇権に切り替えた)時に独立したが、英国はインドとパキスタンを敵対させてから独立させたのと同様の弱体化戦略で、南イエメンが左翼政権になることを黙認し、イエメンが冷戦構造に沿って南北に分断された状態になることを誘導した。その後、80年代にソ連が弱体化するとともに南北間の対話が始まり、ソ連崩壊直後の1990年に南北が統一され、北部のサレハが、統一後の初代の大統領となった。サヌアを中心とする北部イエメンは山岳地帯だが、アデン港を中心とする南部イエメンは海沿いで風土が異なり、統一後も南部には分離独立の気運があり、94年には一時南北間で内戦が起きている。南北対立を抑止して権力を掌握してきたサレハが辞めると、南北間の国内対立が再び強まりかねない。 (Yemeni unification From Wikipedia

 またイエメン北部ではシーア派の一派であるザイド派が強く、イランに支援されたザイド派と、サウジに支持されたスンニ過激派(サラフィ)とがサウジ国境近くの地域で対立する内戦も2004年から起きている。サレハはザイド派の出身だが、サウジとも比較的良い関係を保ち、内戦を抑制してきた。サレハがいなくなると、イランとサウジの代理戦争がイエメンで激化しかねない。サウジアラビアは、頼みの米国の力が落ちている中で、イランとムスリム同胞団という反米系イスラム主義連合に四方を囲まれ、苦戦する傾向を強めている。 (Shi’ite Insurgency in Yemen) (Yemen; Another US-supported tyrant is about to fall



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