多極化とポストモダン2010年9月7日 田中 宇今、世界的に起きている「多極化」は、1815年のウイーン体制から200年続いてきた英米の覇権が崩れ、世界の覇権体制が多極型に転換していく流れだ。英米覇権を欧米中心体制と言い換えれば、今の多極化は、1492年前後のコロンブスらの航海とスペイン・ポルトガルによる「世界分割」以来の(もしくは1453年に東ローマ帝国がオスマントルコに滅ぼされ、東方の知識人がイタリアに移動したことによるルネサンス以来の)500年間の欧米中心の世界が終わることを意味している。多極化は、人類史上、200年から500年に一度の画期的な出来事と考えられる。 コロンブスやルネサンス以来の500年間は、西洋史の区切りで「モダン」の時期にあたる(モダンの訳語は「現代」ないし「近現代」であるが、日本では近代を明治維新以後、現代を第2次大戦後と見なすことが多く、欧米の歴史概念と異なるので、ここでは訳語を使わず、モダンという片仮名を使う)。500年の欧米中心のモダンの時代が終わることは、今後、モダンの後の時代、つまり「ポストモダン」が到来することを意味しているように見える。そこで今回は「多極化はモダンの終わり、ポストモダンの始まりなのか」という歴史的な考察をしてみる。 ▼明確でないポストモダン 「ポストモダン」は「モダンより後の時代」という意味を持つ言葉だ。だが、世の中で「ポストモダン」(Postmodernity)とか「ポストモダン主義」(Postmodernism)と称されているものについて調べても、モダンの次にどんな時代がくるか、何がどうなったらモダンが終わってポストモダンになるかということに関する具体的な手がかりは、ほとんど得られない。 建築、美術、文系評論、哲学などの分野に、ポストモダン主義と称するものが存在する。哲学の分野では「モダン主義(モダニズム)」が、同一性(アイデンティティ)、統合、権威、確実性などを包含するのと対照的に、ポストモダン主義は、同一性と反対の差違性、統合と反対の多様性、権威と反対の(著者の権威でなく)作品自体を重視する姿勢、確実性と反対の懐疑心などを重視している。 (Postmodernism From Wikipedia) モダンの時代には、国民国家の形成が重要であり、そのために国民の「統合」、国家の「権威」や客観性の涵養が重要だった。だが、第2次大戦後の欧米先進諸国では、国民国家の体制がほぼ完全に確立し、国民国家の強化というモダン主義の(隠れた)目的を推進することが、もはや重要ではなくなった。 そのためポストモダン主義は、国民国家を形成してきたモダン主義の哲学的・精神的な支柱を破壊(脱構築、解体、deconstruction)する方向性を持っている。しかしポストモダン主義は、モダン主義に対する破壊的、あまのじゃく的な態度以上に、モダンの次に何が来るのかということを提示していない。とりあえず言ってみましたという実験的な言説の領域から出ていない。 工業社会から「高度情報化社会」への転換をポストモダンととらえる向きもあるが、そもそも18世紀からの産業革命の中に情報通信の高速化、多様化、産業化が含まれており、情報化はモダンの範疇である。情報化が高度になってもモダンの範疇を超えた状況が生まれているわけではない。インターネット産業も、儲け口が広告もしくはコンテンツ利用料(購読料など)であり、モダンの手法にとどまっている。 EUは国民国家の超越を目指しているのでポストモダンな試みだが、経済は統合されたがナショナリズムの統合は進まず、政治的にモダンのままである。国家を超えた経済の統合や経済グローバリゼーションは第一次大戦前からの現象で、ベニスのユダヤ商人の地中海貿易に象徴されるように、資本主義は最初から国際的であり、モダンの範疇だ。 工業に代わって金融が経済の中心になったことはポストモダン的だが、1985年以降の米英中心の債券金融の急成長は、結局のところバブルであり、08年のリーマンショック以降大崩壊が続き、今後もっと崩壊していきそうな感じだ。米英に代わって経済的に台頭している中国などBRICは、鉱工業が産業の中心だ。中国政府は国民の愛国心をあおり、国民国家体制の強化に余念がない。これも「まるでモダン」である。今回の記事の結論を先に書いてしまうことになるが、金融産業の席巻という、ここ四半世紀のポストモダン的な現象は、バブルとして崩壊し、それと同時に起きている覇権の多極化は、モダンの再台頭である。 ポストモダンという言葉は1910年代からあり、多くの事象がポストモダンと称されてきたが、一つ一つ考えていくと、いずれも実はモダンな事象でしかない。とりあえずポストモダンと呼んでおけば格好いいので、あとは難解な文章でごまかそう、という浅薄さが、学界の周辺にあると感じる。ポストモダンという言葉にいかがわしさを感じているのは、私だけではないだろう。いかがわしさこそ、権威や確実性というモダンを超越するポストモダンの風合いだと言う人もいるが。 ポストモダンと称するものが、モダンの次に来るものを明解に示せない以上、代わりの策として、そもそもモダンとは何か、多極化によってそれが終わるのかどうかを考えた方が早い。 ▼国民革命としてのモダン主義 モダン(modern)という言葉は、ラテン語の「今(modo)」に由来し、ローマ時代末の5世紀に、キリスト教化された「今の時代」を、それ以前の多神教時代と区別するために作られた言葉だった。この用法はルネサンス後に逆転し、欧州がキリスト教の縛りから逃れていく「今の時代」を、それ以前のキリスト教に縛られた中世と区別するために「モダン」という時代区分が使われることになった。それまでの「神」が社会を席巻していた中世に代わって、今に至る500年のモダンの時代は「人間」が社会を席巻した。モダン主義は、人間の能力や人造物を賛美し、人間が進歩し続ける概念を提起し、宗教の政治支配を打破する政教分離を内包した。 (Modernity From Wikipedia) 経済で見ると、モダンは資本主義の時代である。中世の欧州では、金儲けもキリスト教会によって規制され、異教徒であるがゆえに金儲けの民族であることを黙認されたユダヤ人は隔離されていた。だが宗教改革とともに縛りが破れ、金儲けは個人の自由であり、努力して金儲けするのを良いこととみなすプロテスタント教会が出てきた。これが今に連なる資本主義の起源であり、プロテスタント系のキリスト教を信奉したオランダやドイツ、英国は、ユダヤ人にも寛容で、ユダヤ人の商業ノウハウが導入され、経済発展につながった。特に、経済発展を国家の海軍力とつなげた英国が最強となった。このように、資本主義の起源を、宗教改革や、その源流であるルネサンスに求める考え方があるため、東ローマ帝国の滅亡が、資本主義の時代であるモダンの発祥と考えられている。 欧州の資本主義の発祥はルネサンスであるとしても、資本主義が開花したのはもっと後で、18世紀末の産業革命とフランス革命(国民国家革命、国民革命)がきっかけだ。フランス革命から現在までが後期モダンと呼ばれる。産業革命は工業の効率を飛躍的に向上させ、国民革命は農民から労働者に転換した人々を「国民」として自覚させ、自発的に国家に縛りつける洗脳的な役割を果たした。国民の統合、無限の前進(経済成長、国家の発展)、教育(啓蒙。国民に仕立てる洗脳)の重視などが、モダン主義に盛り込まれた。 資本家は、産業革命と国民革命を世界中に拡大することで、儲けを最大化しようとしたから、すべての植民地が独立国家になって経済発展することが、後期モダンの時代の流れとなった。モダン主義的な思想の中に、植民地からの独立、民族自決、諸民族間の対等な関係などを支援する考え方が入った。資本家の儲けの拡大策として、鉄道や工業化、国民国家化が欧州から世界に広がるとともに、欧州という一つの地域の歴史的事態を指す言葉でしかなかったモダンは、産業革命後、世界的な事態を指す言葉へと拡大した。 産業革命と国民革命を世界中に広げる資本主義の策略が誰にも邪魔されずに進んでいたら、米国、中国、ロシア、インドといった広大で多人口の国家の力が強くなり、日独の台頭も続いて、世界は20世紀前半に多極化し、英国(欧州)の覇権は100年早く終わっていただろう。しかし英国には、自国の覇権喪失を阻止しようとする傾向があり、英国は、米国を引き込んで2度の大戦に勝ち、戦後は冷戦を誘発して中露を封じ込め、資本の論理(多極主義)と(大英)帝国の論理(英米中心主義)との暗闘が続いた。 ▼多極化はモダンの出戻り 産業革命で工業化した国は、それから30-50年の高度経済成長を続けた後、国民の多くが中産階級になって買いたいものを大体買い、賃金も上がって工業生産の国際競争力が落ち、低成長に入ってしまう。この時点で、工業化の時代が終わり、工業化の促進を前提としていた後期モダンの体制が、その国にとって必要性の低いものになる。その国はポストモダンの時代に入っていくと考えることができるが、実際には、すでに述べたように、工業化が完成して久しい米欧日いずれの先進国でも、ポストモダンの明確な方向性が見えていない。 1960-70年代に米欧日で広がった学生運動、市民運動、ヒッピーなどの文化運動が、見直しや破壊を起こそうとした対象物となった政府、学校、家庭、恋愛、文化などは、いずれも国民国家の強化策を内包するモダンの枠組みである。米欧の工業化や国民国家化が達成され、米欧が工業における優位性を失い始めていた時期に、モダンを解体しようとする学生運動が起きたことは、偶然ではないだろう。しかしこの運動は、モダンを超越する現実を具現化することができなかった。 ポストモダンの世界が現実に立ち現れない理由として考えられる一つ目のことは、産業革命と国民革命を組み合わせた体制を超えるような、発展の体制が見つからないことだ。ポストモダンは50年以上、試論の域を出ていない。 考えられる二つ目のことは、世界中を工業化しようとする資本の論理と、中露などの工業化を阻止する封じ込めをやって英米覇権を維持する帝国の論理との暗闘が、延々と続いていることとの関係だ。米英は1960-80年代にモダン的な工業が衰退し、代わりのポストモダン的な体制として85年以降、金融を中心とする経済体制が出てきた。モダン的な軍事覇権に代わって、ヘッジファンドや債券格付け機関などの先兵による先物取引で相手国の金融財政を破壊する、ポストモダン的な金融覇権の体制が生まれた(IMFのワシントンコンセンサスなどもその関係)。 しかし米英の金融覇権は、07年以来の金融危機に対する米当局の、隠れ多極主義的に稚拙な対応策の数々の結果、リーマンショックを経て崩壊が進んでいる。資本の論理は、米英がポストモダン的な金融覇権に転換して強さを維持することを許さず、覇権を自滅させるとともに、多極化を引き起こし、中国などBRICの新興諸国の工業の発展によって世界経済が牽引されるという、モダンの体制を呼び戻した。つまり、多極化はポストモダンの出現ではなく、モダンの出戻り、復活である。 多極化の流れの中には、国連の世界政府化、EUや東アジア共同体といった地域諸国の政治経済の共同体といった、現存の国民国家の世界体制を超越する、ポストモダン的な動き(構想)が含まれている。ドルに代わってIMFのSDR(特別引き出し権)を国際基軸通貨として使おうとする動きも、モダン的な国家体制を超えるもので、ポストモダンの色彩がある。しかし、これらの動きは、今のところ構想の域を出ていない。東アジア共同体が具現化する可能性も薄く、国民国家を基盤とするモダン的な世界体制は強固で、簡単に終わりそうもない。 多極化はモダンの出戻りであってポストモダンではないが、世界が多極型に転換し、覇権を失った後の米英(欧米)で、その後の展開を模索するポストモダン的な試みが再燃するかもしれない。言論を作っていく業界は、欧米人やユダヤ人のものであり、中国などの新興諸国がその分野で追いつくのは簡単ではない。
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