覇権の起源(3)ロシアと英米2008年9月3日 田中 宇この連載の1回目に書いたように、19世紀にイギリスが覇権国となれたのは、世界最強の海軍力を持っていたからだった。そこから派生して考えられるのは「海軍力に頼るイギリスにとって、強い陸軍がないと攻められないロシアは、大変苦手な相手だった」ということである。ロシアはこれまで、19世紀のナポレオンと、20世紀のヒットラーによって侵攻されたが、いずれも侵略者の敗北で終わっている。 海軍が強く、世界の多くの沿岸国に対して覇権を持っていたイギリスは、ロシアの外側にあるユーラシア大陸の外縁部は、イラン・インドから中国沿岸部まで、ぐるりとおさえていた。しかし英は、大陸の内陸部に影響力を行使するのは難しかった。英の対露戦略は、ロシアがユーラシアの内陸から海岸部に出てこないよう封じ込める戦略となった。日本と日英同盟を組み、1904年の日露戦争を誘発したのが、その一例である。 ロシアが16世紀以来、シベリア、中央アジア、コーカサスへと領土を拡大した原動力の一つは「タタールのくびき(束縛)」への反攻だったと考えられる。タタールとはモンゴル(キプチャク汗国)を指している。1240−1480年代の240年間、ロシアはチンギス・ハーンが作ったモンゴル帝国に支配され、その後はロシア人の国(モスクワ公国)が復活したものの、毎年のように中央アジアから攻めてくるタタール(中央アジアのトルコ系勢力)との戦いに苦しめられた。タタールのくびきを打破するため、ロシアの為政者は、国力が増してくるとシベリアや中央アジアへの征服をさかんに行い、逆にタタールと総称される中央アジアのトルコ系諸民族を支配するようになった。 ロシアが領土拡大した原動力は、もう一つある。欧州諸国は、1492年のコロンブスの新大陸「発見」以来、世界地図の空白をすべて埋めるべく、先を争って世界各地で領土の占領を宣言した。この欧州諸国による拡大競争に参戦するかたちで、ロシアは領土拡大に走った。他の欧州諸国はすべて、船を使って海洋を経由して探検や征服を続けたが、ロシアは例外で、陸路で探検隊と軍隊を派遣し、領土を拡大した。ロシアだけが陸の帝国だった。 (当時の世界にはほかにも、清朝の中国や、オスマン・トルコ帝国といった陸の帝国があったが、これらは欧州文明の外にあって、欧州を席巻した熱狂的な領土拡張とは無縁であり、やがて欧州列強によって弱体化させられた) ▼世界覇権を狙ったソ連 海の覇権国だった英は、対露諜報に力を入れ続けたが、陸の帝国ロシアは苦手だった。この流れで考えると、1917年のロシア革命は、イギリスにとって大きな脅威だったことがわかる。ロシア革命は、帝政ロシアを社会主義国に変えたばかりでなく、ロシアが世界中で社会主義革命を支援するためにコミンテルン(第3インターナショナル)が作られ、革命の輸出が模索された。 レーニンは革命時、当時の欧州で最先端の政治理念だった「民族自決権」を主張し、帝政ロシア国内の諸民族をロシアから独立させ、ロシア以外に14の共和国を作った。しかし、各共和国の独立は形式だけだった。15共和国の上位にソビエト連邦が新設され、帝政ロシアの国家権力を継承したのは、各共和国政府ではなく、ソ連政府だった。15の共和国の上にソ連を作ったことで、革命によって社会主義国になる国々がソ連に参加し、ソ連の領土が帝政ロシア時代よりさらに拡大する方向性になった。 ロシア革命後、中国やインド、イラン、アフリカなど世界各地で、社会主義政党がソ連の支援を受けて拡大した。これらの国々が革命によってイギリスなどの植民地から独立し、ソ連邦に入ってしまう可能性が出てきた。ソ連は、大英帝国の領土を「革命」の名目で略奪していきかねない存在となった。軍事力を使わずに他国を支配するやりかたを「覇権」と呼び、英が覇権国だったことは、連載の初回に説明したが、革命を使ったソ連(ロシア)の支配拡大のやり方は、すぐれた覇権戦略だった。 とはいえ実際には、帝政ロシア外の地域で、新たに社会主義となった国々がソ連に加盟することはなかった。1924年のレーニン死去後、ソ連の実権を握ったスターリンは、ソ連国内を発展させるのが先だとして、ソ連邦の拡大を望まず、コミンテルンの活動も下火になった。 ▼ロシア革命を支援したニューヨーク資本家 ロシア革命を「労働者の決起」ではなく、国際政治の謀略として考えると、時期的な面からも「反イギリス」的な謀略だったと感じられる。革命によってソ連が成立した1917年は、第一次世界大戦の最中だった。第一次大戦は、イギリスがフランスや帝政ロシアと組んでドイツ包囲網(3国協商)を作り、その上でオーストリア・ハンガリー皇太子の暗殺事件を機に、1914年に大戦に突入した。 当時、ドイツは急成長する新興工業国だった半面、イギリスは工業発展の盛りをすぎて衰退が始まっていた。英は覇権を守るために独を潰すことを考え、仏露に働きかけて対独包囲網を作った上で戦争を誘発した。だがその後、ロシア革命が起こり、帝政ロシアを継承したソ連邦は、戦線からの離脱を表明し、ドイツと停戦した。ロシアの離脱で、戦況はイギリスは不利になったが、アメリカの参戦によって何とか勝つことができた。 アメリカは参戦してイギリスを助けたものの、ロシア革命を支援していたのもアメリカ人だった。米ではニューヨークの資本家(ロスチャイルドと同じフランクフルトのゲットー出身のヤコブ・シフら)が、ロシア革命を資金援助していたことがわかっている。ソ連のナンバー2で初代外相となった革命指導者トロツキー(ユダヤ人)は、ソ連の成立直前に革命に参加する前、ニューヨークで亡命生活を送っていた。ニューヨークの資本家は、ロシア革命の黒幕だったと疑われる。 ニューヨークの資本家がロシア革命を支援したとすれば、その理由の一つは、第一次大戦によって英仏など欧州各国の植民地体制を崩壊させ、世界中の植民地を独立させて、産業革命を世界に拡大する戦略の一環だろう。 第一次大戦に際しては、米ウィルソン大統領が、戦後の世界体制の提案として「ウィルソンの14カ条」を1918年に発表している。それは、第1条に「秘密外交の禁止」を掲げるなど、全体としてイギリスの覇権体制を崩壊させる方向だった。第5条で「植民地紛争の公平な解決。人々の利害にあった国家主権の樹立」、第6条で「革命後のロシアを支援し、国際社会に誠実に迎え入れること」、そして最終章で国際連盟の創設がうたわれている。(関連記事) 14カ条を制定したのは、ニューヨークの資本家たちが作った組織であり、この組織は第一次大戦後に「外交問題評議会」(CFR)となり、現在まで米政府の外交戦略に大きな影響を与えている。 ▼小均衡から大均衡へ この連載の前編で、19世紀のイギリスの覇権戦略(均衡戦略)を支えていたのはユダヤ資本家の全欧的ネットワークで、英の金融資本だったロスチャイルド財閥などは、そのネットワークの一環だったのではないかという推論を書いた。ロスチャイルドは19世紀後半にニューヨークに進出し、その系列の有力金融家だったヤコブ・シフがロシア革命に金を出している。 このことから推察できるのは、ユダヤネットワークの人々は19世紀前半にはイギリスの覇権を積極支援したが、その後19世紀末にイギリスの発展が陰り出し、後から台頭してきたドイツを潰そうと包囲網を作って守りに励むようになると、ネットワークの人々は中心をイギリスからアメリカに移そうとしたのではないかということだ。 しかも、単に覇権国を英から米に移転させるだけでなく、英が作った「欧州諸国は国民国家として発展するが、欧州以外の国々は植民地として発展を制限する」という欧州限定の均衡戦略(小均衡)を、米主導の「世界中に国民国家を作り、世界中を発展させる」という限定なしの均衡戦略(大均衡)に拡大させる動きが、第一次大戦を機に試みられたと考えられる。 小均衡より大均衡の方が、世界経済の成長は大きい。資本家の儲けは大きくなる。ユダヤの国際金融ネットワークが、英が作った小均衡を破壊して大均衡につなげようとしたと考えると、当初は短期的な地域限定戦争で終わると考えられていた第一次大戦が長期戦となり、欧州全域が自滅的に破壊され、戦後の欧州諸国は植民地を維持する力も失ったという展開への説明もつく。金融資本家たちは、第一次世界大戦によって英仏など欧州列強が全て自滅するよう、意図的に各国の政策を操って戦火を拡大したのではないか、と思われるからである。 彼らは、欧州を自滅させることで、世界の植民地を独立させ、英中心の小均衡を、米中心の大均衡に転換し、世界経済の発展を加速しようとしたと考えられる。その一環として、ロシア革命が実現し、植民地状態からすぐに国民国家に転換するのが困難な世界の諸地域で、疑似国民国家としての社会主義国家を実現できる道具がそろえられた。 ロシア革命を受け、中国では、中華民国を建国していた国民党が社会主義政党となり、コミンテルンの命令によって、1924年に国民党と共産党による国共合作(第一次)が行われた。ソ連は中国の国家建設と抗日戦争の推進に大きな貢献をしたが、もともと中国に共和国をつくろうと支援していたのはアメリカである。 国民党を作った孫文は、ハワイ華僑として成功していた兄の孫眉ら在米華僑や、長老教会などアメリカのキリスト教会から支援を受けていた。中国を共和国にして経済発展させたいと最も強く考えていたのがニューヨークの資本家たちだったことは、容易に想像がつく。大均衡戦略は、ソ連や中国を台頭させ、世界を多極的な覇権体制にしていく戦略でもあった。 第一次大戦で、アメリカ自身はロシア革命直前に参戦し、イギリスがドイツに負けることを防ぎ、英を戦勝国にしてやった。これは、英など欧州を自滅させて世界を大均衡に転換する戦略と矛盾するようにも見えるが、米の参戦は、英が米に覇権を委譲することを条件に挙行されたと考えると、覇権移譲をスムーズに行うための戦略となる。 ▼もう一歩で世界制覇だったドイツ 英中心・欧州限定の小均衡を、米中心の全世界的な大均衡に転換する試みは、行われたものの、成功しなかった。ウィルソンの14カ条に基づいて国際連盟が作られたものの、創設時の議論の過程で、英が仏など他の欧州諸国の代表を巧みに誘い、議論を英好みの方向に誘導した。国際連盟は英主導となり、失望したウィルソンは、国際連盟の批准論議の中で米議会と意図的に対立し、米議会は批准を否決したため米は国際連盟に入らなかった。その後、米は欧州の政治に関与しない孤立主義に戻った。(関連記事) ソ連では、1924年のレーニン死去でスターリンが実権を握り、ニューヨークから送り込まれた国際主義のトロツキーを排斥し、ソ連一国の発展のみに注力する戦略転換を行った。アメリカは、ウィルソンの14カ条で親ソ的な姿勢を見せたのに、ソ連を国家承認しなかった。 当時のアメリカでは、英中心の世界体制の中で列強の一つになろうとする勢力(1901−08年に大統領だったセオドア・ルーズベルトなど)もおり、第一次大戦で英側に立って参戦した背景には、親英勢力の影響力もあった。英中心の世界体制に乗る勢力と、英中心体制を壊したい勢力との暗闘が、当時から今までの、米政界の流れである。第一次大戦とその後の米の変節は、この暗闘の一環と考えられる。 その後、1933年にドイツでヒットラー政権が誕生し、日独が国際連盟から脱退すると、日独伊と米英仏の対立が始まり、この年、アメリカはソ連を国家承認した。ドイツは38年にオーストリアを併合、39年には独ソ不可侵条約(東欧分割の条約)を結んだ上でポーランドに侵攻した。ポーランドを扇動して独を挑発していた英は、独に宣戦布告し、英軍が欧州に上陸したものの、独軍との戦争を避けた。英は衰退し、独と戦争して勝てる状態ではなかった。 ドイツは、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスへと次々に侵攻し、ナポレオンも成功しなかった全欧征服の実現が間近になった。あとは、いつイギリスに侵攻して占領するかという話だけになった。翌1940年、日独伊3国同盟が締結され、ソ連も加盟を希望した。アメリカは孤立主義を続けており、ユーラシア大陸は日独伊露の4カ国で分割支配される流れが見えてきた。(関連記事) ヒットラーの野望が実りかけ、イギリスの運命が風前の灯火となったとき、アメリカは、ひそかに検討していた戦争作戦を開始した。1941年12月、米の戦略に引っかかって日本が真珠湾を攻撃し、日米が開戦すると、3国同盟が適用されて米独間も戦争開始となり、米は英中心の連合軍の側に立って参戦することになった。米の参戦後、戦争はやがて、連合国の側に有利になっていった。 ▼英にだまされ、2度目の大戦が必要に 米は参戦4カ月前の41年8月には、すでに英との間で大西洋憲章に合意していた。これは第一次大戦時のウィルソンの14カ条に相当するもので、民族自決権や自由貿易体制などの条項からなり、国際連合の基盤ともなり、戦後の世界体制を決める宣言だった。 米は第一次大戦時に、英から覇権譲渡を約束されながら、ベルサイユでの戦後処理の会議の中で英に主導権をとられて騙された苦い経験があった。二度目の世界大戦で、米は、英が独にやられて本当に困窮するまで事態を放置した後、大西洋憲章によって再度の覇権譲渡の約束をとりつけた。米はその後、日本を引っかけて参戦した。日本は、第一次大戦で欧州列強が撤退した後の利権空白状態の中国に進出し、漁夫の利を得ていた。日本を潰し、中国に民族自決の共和国を作ることが、第二次大戦時の米の目標の一つだった。 真珠湾攻撃で米の参戦した翌月の42年1月、米英は、大西洋憲章とほぼ同じ内容の宣言を、ソ連、中国と、欧州でドイツに領土を奪われた国々の亡命政府や英連邦の国々、中南米諸国などに認めてもらい、これを合計26カ国による「連合国共同宣言」(Declaration by United Nations)として発表した。この宣言はそのまま、戦後にできた国際連合(United Nations)の基礎となっている。 敗戦国である日本の日本語では「国際連合」と「連合国」は違う言葉だが、英語では「United Nations」、中国語では「聯合国」という単一の言葉が使われている。日本では「連合国」というと戦時中の敵にあたり、これを「United Nations」の訳語として使うと日本人に悪いイメージを喚起する。戦時中の「連合国」とは別物という(歪曲的な)印象を与えるため、戦後の「United Nations」には「国際連合」という別の言葉があてられた。 米英は、大西洋憲章を締結する1カ月前に対独開戦していたソ連を仲間に引き入れ、連合国に入ってもらう代わりに、戦後の国連を中心とする世界体制の中で、ソ連に主要な国際地位を与えることにした。その後、終戦にかけてテヘランやヤルタで開かれた米英ソ首脳会談の中で、ソ連が連合国を支援する見返りに、米英は、ドイツの影響圏だった東欧をすべてソ連の影響圏として認めた。戦後、国際連合が設立されると、ソ連と中国は、米英仏と並び、拒否権を持つ常任理事国として認められた。 こうしたソ連に対する米英の大盤振る舞いは、米英の勝利に不可欠だったソ連の対独参戦を実現するために必要だったとされる。だが同時に、第一次大戦からの流れを見ると、ニューヨークの資本家の中には、ソ連や中国を国際的な大国として認め、米が英から譲渡させる覇権の中ソと共有化し、覇権の多極化を進めて、世界経済の発展加速につなげたいという戦略があった。 米英が、ソ連の連合国への協力への引き替えに、ソ連に国連安保理常任理事国の座や、東欧での覇権を引き渡したのは、ニューヨーク資本家の戦略が反映されたものと考えられる。英は不満だっただろうが、英は米の参戦によって亡国を救われた経緯があるため、米の方針に従うしかなかった。しかし英は戦後、冷戦を誘発し、多極協調型の世界体制を破壊した。 ▼冷戦の本質 米政界では、19世紀末に連邦政府の財政破綻を救済して以来、多極派であるニューヨーク資本家の影響力は大きかったが、同時期に出現した、親英的な軍事大国派(セオドア・ルーズベルトら以来の流れ。第2次大戦後の軍産複合体)も強く、2度の大戦に対するアメリカの戦略は、多極派と軍事大国派の両方の意見をすり合わせて作られた。 第2次大戦後、国際連合を中心とする多極的な世界体制が開始されたが、それはすぐに冷戦の米ソ対立にとって代わられた。冷戦が始まったきっかけは、46年3月に英チャーチル首相が訪米中に放った「鉄のカーテン演説」である。イギリスと、米政界の軍事大国派(軍産複合体)が組んで、英米中心の覇権の維持と、米ソ対立による準戦時体制の維持、長期的な軍事費増とマスコミ有事体制を出現させるために、冷戦が扇動された。冷戦開始によって、米ソが協調して世界を多極的に運営するヤルタ体制の構想は破綻した。 その後、1960年代にはケネディ大統領によって冷戦終結の試みが行われたが、それはケネディ暗殺によって終わった。1970年代にはニクソン・キッシンジャーによって米中・米ソ関係の好転が企図され、これで冷戦が終わるかに見えたが、新たにイスラエル右派(1973年に作られた政党リクード)系の勢力が米政界に入り込んでソ連の脅威を再扇動し、軍産複合体の窮地を救い、冷戦は延命した。続く1980年代、冷戦派の大統領としてレーガンが登場したが、政権内に多極主義者が入り込んでいたようで、政権末期にかけてレーガンは方針転換し、ソ連のゴルバチョフと和解し、冷戦を終わらせた。 アメリカはユーラシアとは別の大陸に存在する国なので、米中心の世界体制(覇権体制)を考える場合、ロシア(ソ連)を「世界運営の伴侶」「ユーラシアのことは、ある程度、ロシア、欧州、中国に任せる」と考えるのが、地政学的に自然である。しかし現実は、歴史的にも、現状的にも、そうなっていない。冷戦中は、共産主義を危険視するイデオロギー的な対立があるがゆえに、米は反ソ連・反中国の戦略を取らざるを得ないのだという説明が定着していた。だが、ソ連が崩壊し、ロシアも中国も共産主義を信奉しなくなっても、まだ米には、根強い反ロシア・反中国の戦略がある。特に、軍事産業と結託する右派に、その傾向が強い。 また、もし米がロシア(ソ連)と協調する覇権体制を組んだら、欧州におけるロシアの影響力が強まり、相対的にイギリスの影響力が落ちる。反ロシアの戦略は、英の国益に沿っている。これらを総合すると、米の反露・反中の冷戦的戦略は、軍産複合体と英が結束し、米のマスコミを有事的プロパガンダ装置に変身させて持続してきたものであり、その構図は冷戦後も存在していると考えられる。 とはいえ、今回のグルジア戦争をきっかけにした米露対立は、意味が違う。今の米露対立は、米が国際政治的に非常に弱くなり、イランやアフガンでロシアの助けが必要になった後になって、サーカシビリを支援する米の側から開始されている。この「新冷戦」は、わざわざ米が不利になった情勢下で開始されており、イラク侵攻と同様、冷戦型の戦略を過剰にやってわざと自滅する、隠れ多極主義の戦略に見える。(関連記事) 冷戦とその後の展開については、あらためて詳しく分析したい。 【続く】
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