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大門小百合のハーバード日記(7)

ジャーナリズムの苦悩

2000年12月10日


 ハーバード大学にあるハーバード・クリムゾンという学生新聞のオフィスを訪れた。大学の中心のハーバードスクエアから、歩いてすぐのビル一軒分がクリムゾンのオフィスだ。なんと1873年から続いている日刊の学生新聞で、ハーバードにやってくるさまざまな著名人の講演を記事にしたり、その他の学内の話題ものから、世界のニュースにいたるまで実に細かくカバーしていて、なかなか馬鹿にできたものではない。クリムゾンから、本当にジャーナリストになってしまう人もかなりいるらしい。

 私が訪れたときには、ちょうど編集会議が夕方5時から開かれていて、新聞のトップページに何を載せるか、10数人の学生が喧喧諤諤議論の最中だった。

 「ゲイの話はもう何度ものせているから、もう読者は飽き飽きしていると思う。それなら、新しい角度で、こちらのストーリーはどう?」

 「いや、これはとても大事な話だ。ニュース性もある・・・」

という具合だ。大学という小さな窓からも社会の矛盾、人種、宗教の違いなどが見えてくる。心温まる話も転がっている。編集会議で自分の記事の大切さを熱っぽく語っている学生達を見ていて、なんだかとても新鮮な気持ちになった。

 実はルーズベルト大統領もクリムゾン出身者の一人という話を聞いた。そのせいもあってか彼はジャーナリストが好きでホワイトハウスに記者を呼んでは、自らオフレコの記者懇をしていたといわれているが、その時から比べ、メディアを取り巻く環境というのはずいぶん変わった。ベトナム戦争やウォーターゲート事件で時の大統領が人々の非難の対象になり、テレビやインターネットの普及で大統領を取り巻く報道合戦はさらに激化する。

 学生新聞と違って現実の世界は厳しい。テレビのみでなく、アメリカの新聞でも昨今の競争激化の中で、いかにして読者に読んでもらう記事を提供するかということにずいぶん苦労をしているように見える。

▼透明人間になれるか

 先日ボストン大学で開かれたジャーナリズムのセミナーでは、ナレイティブ・ジャーナリズムがテーマだった。ナレイティヴというのを日本語に直訳すると物語風のとでもいうのだろうか。ただニュースの事実関係を伝えるだけでなく、企画物の記事などは情景描写、会話など巧みにいれて、読者に楽しく読んでもらおうという試みだ。もちろん、それらはフィクションではないので、そのような記事を書くためにはかなりの取材が必要だ。

 セミナーの中で講演者の一人の女性記者が、「自分は取材に行くときは、何ヶ月もかけて準備し、人々の生活に入り込み、話を聞くだけでなく、よく観察することにしている」と言っていた。そして「時には透明人間のように、完全に傍観者となることで、本当のことが理解できる」と。

 ここまではよかったのだが、その後の話を聞いていて、私は「うーん・・・」とうなってしまった。

 彼女がケンタッキーのある町を取材した時のこと。ここは65パーセントの人が金銭的に政府の補助を何らかの形でもらっていて、35パーセントが完全に生活保護に頼っていたが、ある時政府の援助が止まった。3週間その町のある一家の生活を取材。取材のテーマは「ぎりぎりの生活」

 その一家の赤ちゃんが、病気になり高熱にうなされる。赤ちゃんを病院に連れて行きたいが、車にはガソリンもない。当然そこにいた記者の彼女とカメラマンの車に一家の目が注がれるが、彼女達は何も言わない。完全に傍観者に徹したというのだ。理由は手助けを仮にしてしまったら、その「ぎりぎりの生活」を乱してしまうからという。

 双方しばらくの沈黙が続いたが、父親がとうとう家にあった銃をつかみ、外に出ていった。そして彼は隣の家に行き、銃を担保にお金を借りてきたという。赤ちゃんはおかげで病院に行くことができ、記者の彼女も自分が助けなかったから、このぎりぎり状態でこの家族がどういう行動に出るかがわかったと言う。しかし、しかしである。この話を聞いていて私は「ちょっとあんまりじゃない?」と思ってしまった。

▼報道合戦のプレッシャー

 これがアメリカのジャーナリズムなんだろうか?

 その結果臨場感あふれるすばらしい記事が書けたのかもしれないが、そこまでしないとよい記事が書けないものだろうか。戦争取材で出かけたとして、一人だけを助けることはできないし、残酷だから死体の写真を撮らないという話とはまた違う次元のような気がする。ペンの記者はその瞬間を捕らえなけばならないテレビやフォトジャーナリストとは違うし、努力したとしても、完全に透明人間にはなるのは無理だと思う。

 複雑な思いでアメリカ人のニーマンフェローの友人に聞いてみた。

 「それは、必ずしもよい手本じゃないよね。我々はジャーナリストでもあるけど、人間であることはやめられないもんね・・・」

との答えが返ってきたので、少しほっとした。もちろん、何が正しくて何が間違っているとは決して断定はできないし、それぞれの記者のやり方というのもあるのかもしれない。でも、私にはきっとそういう風には記事が書けないだろう。

 調査報道など、メディアがきちんとその役割を果たしているという意味では、アメリカの記者はすごいと思う面がたくさんある。政府や司法の文書を徹底的に調べ問題点をあばいていくというその姿勢はやはり脱帽ものである。しかし一方、早く伝えることに重点をおきすぎたテレビなどの取材姿勢や他のメディアとは違う視点を探し出さなければというプレッシャーにかられた報道合戦の中で、最近の報道は逆に悪くなったと言われたり、プレスは意図的にネガティヴ(マイナスの面)を探し出して、それのみを報道しようとしているという声もある。(これは日米ともに聞かれる批判かもしれない)

 きびしい競争社会になりつつあるからこそ、このあたりでちょっと耳の痛い話についても考えてみた方がよいのかもしれない。



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