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ニーマンフェローシップ開始

2000年9月5日  大門小百合


 8月の30日、とうとうニーマンフェローシップのオリエンテーションが始まった。この3日間は、リップマンハウスというハーバード大学の一角にある大きなニューイングランド風の一軒屋で缶詰だ。

 もともとこのプログラムは、毎日締め切りに追われてじっくり勉強をすることができない新聞記者達のために、最高の環境で仕事から離れて自分のやりたい分野を1年間じっくり勉強できるようにという趣旨で作られた。世界中から記者を集めてお互いに刺激しあい、見聞を広め、ジャーナリズムに貢献してほしいという意味もある。

 リップマンハウスにはこのプログラムを主催しているニーマン財団のオフィスがあり、ここで世界中からきた我々ニーマンフェロー(研究員)たちは、セミナーを開いたり、コンピューターを使ったり、ソファでくつろぐことになる。これから1年間は我々の第2の家だ。

 さて、その日オリエンテーションに集まったフェロー達はもちろん全員が初顔合わせ。普段なら物怖じせず、ニュースのためなら初対面だろうが何だろうが、どんどん突き進んでいくジャーナリスト達のはずではあるが、これから一年間ともに過ごす仲間となるとどうも勝手が違うようである。このプログラムが始まる前にこの財団から、ニーマンの1年は「The Best Year in your life(人生で最高の年になる)」と何度も聞かされていたのとともに、「他のニーマンフェローは家族であり、友人であり、この1年で築く人間関係のなかでももっとも貴重なものになる」とまで断言されてしまっては、緊張せざろうえない。

 財団の言っている「最高の年・・・」というのをそのまま真に受けるわけではないが、フェロー達がこれから大事な仲間になることは間違いはない。物事最初が肝心ということで、みんな緊張した面持ちでお互い挨拶する。私もどきどきしながら、まるで中学校や高校の入学式のような気分を久しぶりに味わった。

 全員セミナールームに集まり、みんなの前で自己紹介が始まる。12人はアメリカの各地から来ている記者だ。ワシントンポスト、タイム、シカゴトリビューン、アラバマ州の地方紙の記者、そしてパリ在住のフォトジャーナリストなどなど。外国から来ている13人の記者はもっとバラエティに富んでいる。中国の国営放送の記者、ワシントンDC在住のサウジアラビアの新聞記者、ボスニア、コロンビア、チリなど、よくまあこれだけ集めたと思われるくらいさまざまな記者が集まった。

 それぞれが事前にニーマン財団のインターネットのサイトに自己紹介文を載せたが、それによるとみんな輝かしい経歴だ。さまざまなジャーナリズムの賞の受賞ないしは、最終選考まで残ったという記述が文章に並び、この世界ではトップといわれるピューリッツア賞をもらったという記者もいた。

 断っておくが、私にはとくに賞といわれるものはない。もともと日本では自分の会社の社長賞や編集局長賞は別だが、それほどジャーナリズムの賞の数はないと思う。それに比べ、欧米は賞の類が多い。終身雇用ではないぶん記者の質をはかる公の物差としてしばしば使われているのだろう。

 賞はともかく選考された結果ここにいるのだからと気を取り直す。何事もチャレンジチャレンジ・・・そんなことを考えながら自分の自己紹介に入った。

大人にやさしい大学

 今年のニーマンフェローは全部で25人だが、プログラムの方針として配偶者にも同等の権利が与えられることになっているので、オリエンテーションの部屋には40人近くが集まった。多くのフェローは家族づれで引越してきているので、ここの地下には子供達用のプレイルームまである。両親が両方ともニーマンのプログラムで忙しい時には財団がベビーシッターを調達してくれるので、子供を連れてくることができる。両親ともどもゆったりと勉強してくださいということだ。なんと働く(勉強する?)大人にやさしい環境なのだろう。家族全部を面倒見ますというプログラムだ。

 ニーマン財団の懐の深さにはおどろいたが、それにはハーバード全体としての姿勢も影響している。大学の方針で、配偶者はやはりフェローのように大学の授業を取ることができる。たとえば夫ないしは妻(後者の方はまだまだ少ないが)がハーバードに研究員として呼ばれてきている期間は、どうぞこの大学の知的財産を家族全員で十分活用してくださいと言っているようである。もちろん講義に興味がない配偶者が授業をとる義務はない。

色々観察してみると、ここが本当に「大人のための大学」であることがよくわかる。アメリカのほかの大学でも、一度社会にでた人が更なるキャリアアップのために大学に戻ってくるケースは多い。しかし、ここには、ハーバードの名前ゆえに世界中から一流の教授が教えに来ている。生徒達もまた一級の研究者、政府関係者、企業のエグゼキュテブ達であり、彼らの存在が一層この大学を魅力的なものにしているのだと思う。

 こちらにきてから学内にある研究所が主催するいくつかの講演に顔を出してみた。毎日、いや毎時間のように、学内外の著名人が常に大学のどこかで講演をしているし、そこにはハーバードの教授陣もちょくちょく顔を出しては、ディスカッションに参加していく。つまり、さっきまで黒板の前で教鞭をとっていた教授が、今は自分の隣に座ってまったく自分と同等の立場で議論に参加しているという具合だ。教授も生徒もお互いにここを学問の場としているのだ。こういう場には、学校内から専門家が集まってきていて、ディスカッションはしばしば授業よりもおもしろい。たとえば国際紛争がテーマだとすると、講義の参加者は学会の研究者のみでなく、国連の職員、政治家、外交官などなどである。

 しかし、何よりもうれしいのは、ここではどんなに偉い人も地位の高い人も話かけると気さくに答えてくれる。日本では権威のある人はなかなか近づきがたかった。英語という言語に丁寧語や尊敬語のような違いがないからだろうか。いや、もっと文化的なものかもしれない。

ニコニコしながら「ハイ!」と挨拶する文化。後ろの人のために必ずドアを空けて持っていてくれる気遣い。自動ドアがあまりなく、店のドアや教室のドアが、どっしりしているからそれも必要なのかもしれないが、それにしてもどの人をみても心に余裕があり、他人に優しい。人ごみをかきわけ、家に帰ってくるとどっと疲れてしまった東京での暮らしを考えると対象的だ。

 もともとのアメリカ的気さくな気質に加え、ハーバードがギトギトした現実のビジネス競争社会から隔離されているアカデミックな世界だからかもしれない。

 こんなによい環境があるのに、子供の世話のためにすばらしい講演をミスしてしまったらどうだろう。おそらくこれはハーバードにきている家族連れの研究者がかかえる共通の悩みだろう。だから大学やフェロープログラムのスポンサーはできる限りの手助けしようということなのだと思う。そして、その懐の深さゆえ、世界中から家族ずれで優秀な人々が集まってくる。

 我々夫婦には子供はいない。これなら子供を作ってからくればよかった・・・とまで思ってしまうのは私だけだろうか。日本もこんな「大人の大学」を作ることができれば、教育改革、そして少子化対策にも寄与して、未来に明るい光が少しはさすかもしれないのに。



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