大門小百合のハーバード日記(1)

2000年8月26日

 8月15日午後11時、ボストンの空港に降り立ち、これから約1年弱の生活を開始した。私は高校時代にアメリカで生活した経験があるとはいえ、こちらに着いてから驚きの連続だ。

 まずは、空港からのタクシー。かっぷくのよい黒人の運転手(暗闇で見たので申し訳ないけど、ちょっと怖そうな印象を受けた)が、実によく日本のことを知っていた。アメリカ人は国内の事にしか興味ないと思っていた私の固定観念を見事に打ち破ってくれる。

 「日本のFRB(日本銀行のことを言っていると思われる)は金利を上げたらしいけど、日本の経済は本当によくなっているの?」といきなり聞かれて、私は「エコノミストの間でも意見はまちまちなのよ」と答えるのが精一杯。

 おまけに「日本は経済のとても強い国だと思う。10年前は本当にすごかった!でもそのすごかった日本がなぜ今だに立ち直れないのかがわからない。この問題では誰一人僕を納得させる答えをくれなかったよ」と言われてしまった。

 うーん。きっとこれからこういう質問攻めにどんどんあうのだろう。銀行の貸し渋り?構造改革の遅れ?グローバライゼーションのペースの問題。将来への不安。それとも・・・一言でわかりやすく説明できるようにしないとまずい。それに、タクシーの運転手を甘く見てはいけない!ボストンは、アメリカでも知識レベルの高い人々の町なのだろうか。

 ハーバードのIDオフィス(身分証明書を発行してくれるところ)では、なんと2分でIDカードを発行してくれた。「どこの学部?」と聞かれ、「いえ、ニーマンフェローなんですが」といって自分の名前を言ったらすぐにコンピューターに私の情報が映し出され、「オーケー。写真取るからこっちへ」と言われてカメラをカシャッで終了。2分後にはOFFICERと大きく書かれた身分証明書が私の手元へ。この速さと効率のよさには感激した。(アメリカでは珍しいのでは?)

 もっともここでは年間10万枚のカードを作るそうなので、だらだらと時間を掛けていては仕事にならないのだろう。もちろん10万といってもハーバードの学生は、学部と修士、博士でだいたい1万1千人くらいしかいないので、短期の学生や講師、教授も合わせた数らしいが。

▼卒業試験に水泳テストがあった理由

 学校もかなり広い。何がどこにあるのか全くわからないのでまず、学生による一般旅行者向けキャンパスツアー(ハーバードではキャンパスではなくヤードと呼ばれている)に参加してみた。

 まず、1年生が入る寮の周りを案内された。緑の芝生のなかに散らばっている赤レンガの寮のそれぞれの部屋には代々の住人の名前が書いてあるそうで、エマーソンやルーズベルト、そして民主党の大統領候補のアル・ゴアまで、今では世界の有名人の名前が残っているらしい。もちろん中退したビル・ゲイツのもあるという。「俺の部屋にはxxxがいたのか」と、将来自分もそんな風に名だたる人になろうと夢を膨らませ、学生はここで大学生活の1年目を過ごすのだろうか。

 ハーバードのキャンパスには、いろいろな伝説がRumor(噂)として残っている。たとえば、ニューヨーク出身のお金持ち卒業生ワイドナー(Widner)の話。古書の収集家だった彼はイギリスを訪問中、哲学者ベーコンの非常に貴重な昔のエッセイ集を見つけ、それをアメリカにもちかえろうとした。だが帰途に船の事故にあい、亡くなってしまった。その船の名はタイタニック。金持ちの彼は、もちろん救命ボートに乗れた。だが、ベーコンのエッセイ集を船室に忘れたのに気づいて船に戻り、帰らぬ人となった。

 ワイドナーの母親は、彼をしのんで図書館を学校に寄贈し、ハーバード大学最大のワイドナー図書館となった。母親は、息子が溺死したことを悲しみ、同じような悲劇が起きないようにと、ハーバードの卒業試験には50ヤード(約50m)の水泳の試験を加えるように、学校側に図書館寄贈にあたって条件をつけたという。

 あの氷の浮かぶ海では、たとえ泳ぎができたとしても生き残れるかは疑問だが、とにかく1970年代まで泳ぎの試験は続いたらしい。さすがに今は、障害者差別につながるということで、廃止されたとのこと。水泳の試験をやっている大学は他にもあって、ニューヨークのコロンビア大学などは今でも続けているらしい。

▼ブレトンウッズは山の中

 先週のニューイングランド地方の旅行では、ブレトンウッズという所を訪れた。あの国際通貨基金(IMF)を作り、ドルを世界の機軸通貨とした「ブレトンウッズ体制」を築くきっかけとなった会議が開かれた場所である。

 ブレトンウッズがどこにあるか、ご存知だった人は何人くらいいただろう?私と夫もニューハンプシャー州のホワイトマウンテンの地図をみていて、偶然この地名に気づいた。ガイドブックで見ると確かにあの歴史的重要な会議が開かれた場所だ。ならば行ってみようということになり、レンタカーを走らせた。

 正確には会議の開かれた場所はマウントワシントンホテルといって、その頃は本当にごく一握りの金持ちだけが来る白い壁に赤い屋根のコロニアル風の豪華なホテルだった。山の中の避暑地だったところで、近くにはコグレイルという歯車が線路に付いている蒸気機関車が通っているが、それ以外は何もない。

 秘密裏に行われたこの1944年の会議に世界からきた参加者は3週間の討議の後、金1ポンドを35ドルとすることや、IMFと世銀を作ることなどで合意する。戦争中だったので、敵国である日本からの参加者はいなかった。

 それにしても、このホテルは歴史にそれほど興味がなくても、一見の価値があると思う。1903年にオープンしたこのホテルには当時からの(つまり100年前の)家具が今でも普通に使われている。家もそうだが、ここアメリカでは古いものが本当に長い間大切に使われている。築200年という古い建物の外装、内装が何度も修理され現在も誰かが住んでいるという家が結構ある。日本では築25年のマンションでさえ、設備が古すぎて住む気がおきないが、この違いは何なのだろう。

 それは、こちらの人の持っている「家は自分で作るもの」という感覚の違いなのかもしれない。中古の家を買ったら、まず壁紙を張り替え、バスルームに手をいれ、自分の好きな色に外壁を塗り替えたりというぐあいにとにかく、開拓者がやったであろう事をそのまま今もやっているように思う。日本みたいに業者にお任せではない。

 このホテルの高級さを表すものとしてもう一つディナー(夕食)がある。ディナーの時には大きなダイニングルームで泊り客は男性も女性もフォーマルな服で着飾って現れ、フルコースの夕食を楽しむ。そして、その後はダンス。さながら舞踏会の様相だ。これらの習慣においてはここでは100年前とあまり変わっていないのだろう。

 しかし、この豪華さとは反対に、このホテルの存在とその歴史的意義は、あまり宣伝されていないように思った。会議の開かれたホールと、その後に覚書が調印された「黄金の間」は見学することができるが、その他は簡単な写真(参加者の1人、経済学者のケインズなどの)と、説明書きがあるパネルがあるだけだ。

▼すし屋がにぎわうポーツマス

 その数日後、大西洋沿いのポーツマス(ニューハンプシャー州)という町に寄った。こちらも日本人ならおなじみ、日露戦争終結のポーツマス条約が結ばれた場所だ。残念ながら、ここではその歴史的事実を記した場所を見つけることができなかった。条約の調印場所がアメリカの海軍基地内だったからかもしれないが、関係の史跡が町にないのは、アメリカ人にとってはあまり興味のない話だからだろうか。

 なぜかこの町には日本料理屋が何軒もあり、地元のアメリカ人で賑わっていた。ボストンなどの日本食レストランと比べ、店の中には日本人客はほとんどいない。日本に住んだことがある人なら別だろうが、私のアメリカ人の友人達は一昔前まで「Raw fish? No way!(生魚?絶対いや!)」と言って、日本食を敬遠していたのだが・・・

 店の客をしばらく観察してみる。みんな箸を使うのが上手だ。いつの間に、日本食がアメリカ人にとって抵抗のないものになったのだろう。小村寿太郎が、もしこの町でアメリカ人が箸を片手に寿司をつついているのを見たら、さぞ驚くにちがいない。私の錆び付いたアメリカ観も、これからずいぶん修正することがありそうだ。



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