仕組まれた9・11 【6】イラン革命と湾岸戦争
田中 宇
1979年、イランで起きたイスラム革命は、それまでイランにあった国王の政府を倒し、代わりにホメイニ師を頂点とするイスラム聖職者が作られた民衆革命だった。その余波として、国王を支援していたアメリカを憎むスローガンを叫ぶ学生らが首都テヘランのアメリカ大使館に押し入り、アメリカ人職員らを人質にして立てこもる「アメリカ大使館人質事件」が起きた。
この事件に対してアメリカのカーター政権(民主党)が行った人質救出作戦は失敗、事件は長期化してカーターは外交政策のまずさが批判され、これが主因でカーターは再選を目指した選挙で惨敗した。ところが、事件が起きてから1年半、カーターの任期が終わり、レーガン(共和党)が大統領になるやいなや、人質が解放された。
http://www.carpenoctem.tv/cons/october.html
これだけの筋書きだと、カーターよりレーガンの方が外交政策が上手だった、と考えたくなる。だが、人質が解放されたときの様子を詳細に追うと、おかしなことに気づく。1981年1月20日、ワシントンDCでレーガン大統領の就任式が行われ、新大統領のスピーチが終わってからわずか20分後に、テヘランで52人の人質全員が突然解放されたのである。レーガン政権が外交上手だったというより、レーガン政権になるのを待って人質が解放されたとしか思えない幕引きだった。
その後しばらくして真相が分かってきた。レーガンを擁立して大統領選挙を戦っていた共和党は、イランのホメイニ新政権との間に独自のパイプを持ち、密かに人質解放の交渉をしていたのだった。
これがマスコミに暴露されると「共和党がやっていた交渉とは、人質をなるべく早く解放させることではなく、共和党の政権が始まってから解放させるということで、民主党の政権が続いている間は解放しないでくれとイラン側に頼む交渉だったのではないか」という批判が吹き出した。カーター政権が人質解放に成功しなかったのは、共和党が邪魔していたからだった。
http://www.consortiumnews.com/archive/xfile7.html
共和党でイランとの交渉に当たったのは、レーガン政権の副大統領となったブッシュ(現大統領の父)だった。80年10月中旬、マスコミに注目されていた選挙戦のさなかにブッシュは2日間「行方不明」になり、どこに行っていたのだとマスコミに騒がれた。そして、その期間にブッシュをパリで見かけたという情報が出てきて、パリでイラン側と秘密交渉を行っていたことが暴露された。
ブッシュは1975−77年にCIA長官をやった経験がある。カーター政権の前、共和党のフォード政権のときだった。当時のイランは国王時代の末期、国王はアメリカの傀儡で、CIAは国王が社会主義者やイスラム主義者を弾圧することに手を貸し、積極的にイランの内政に首を突っ込んでいた。
その後、民主党カーター政権になってブッシュはCIA長官の座を追われたが、その後の民主党政権の4年間を通じ、ブッシュとCIAの親密な関係は変わらなかったということになる。伝統的にCIAや軍隊は政治的に共和党寄りなのだが、ブッシュの場合は、自分が選挙に勝つためにCIAが民主党政府の言うことを聞かないようにさせることができるほど、密接な関係だったのである。
(後で詳しく述べるが、ブッシュは長官になる前からCIAのために働いていたという指摘もある)
就任時に明らかになったレーガン政権とイランとのつながりはその後、1985年にも「イラン・コントラ事件」として発覚した。これは、アメリカ政府(CIA)がイランに対して武器を秘密裏に輸出し、その代金を中南米のニカラグアの社会主義政権と戦う反政府ゲリラ「コントラ」への軍事支援に使っていたことが発覚した事件で、イランへの武器輸出もコントラへの軍事協力もアメリカでは禁じられていた。
アメリカのイランへの武器輸出は、イラン革命の直後から続いており、武器の輸出だけでなく、イスラム革命以前のイランにアメリカが供給した兵器の修理用部品なども輸出していたことが分かっている。
http://www.zmag.org/chomsky/sam/sam-2-08.html
アメリカはなぜ、仇敵であるはずのイランに武器を輸出していたのか。アメリカ政府は十分な説明をしていない。革命後間もなくイラン・イラク戦争が始まったが、イランはアメリカによる秘密の武器輸出がなかったら、イラクとの戦争を8年間も続けることはできなかった。
そもそも、アメリカがイスラム革命の発生を本当に止めたいと考えていたかも不透明だ。イスラム革命は、カリスマ性の強いホメイニ師が亡命先のパリから戻ってこなければ成就しなかった。アメリカには、ホメイニのイラン帰還を止めることができたはずなのに、未確認情報として伝わってくる話は逆に、CIAがパリ亡命中のホメイニに資金提供していたというものだ。
http://www.redeemernews.org/essays/war_on_terror.htm
イラン・イラク戦争の際、アメリカはイランだけでなく、イラクにも武器を輸出している。イランもイラクも世界有数の産油国である。これらのことから考えられることは、欧米や日本に輸出した石油の代金としてイランやイラクの政府が得た外貨を、武器を買わせることでアメリカが「回収」するという構図である。
イラン革命からイラン・イラク戦争にかけての1979−81年は、原油価格が高騰した「第2次石油危機」の期間でもあった。原油の高騰はアメリカの大手石油会社(メジャー)の利益を急増させるため、高騰を実現した政権には政治資金の増額という恩恵がある。また1974年の石油危機によって石油価格の決定権をOPECが握るようになったが、これを崩して再びアメリカが石油価格の決定権を握れるようにする、という意図もあったのかもしれない。イランもイラクもOPEC加盟国だった。
アメリカの中東政策には、一般に流布している敵味方の関係をベースに考えると理解できないことが多い。そして、その中心にいた人物の一人がCIAとつながったブッシュで、その息子が今のアメリカの大統領である。しかもブッシュ一族の家業は石油業だ。そのように考えていくと、911テロ事件には複雑な裏面があっても不思議ではない。
イランのイスラム革命は、サウジアラビアなど他の中東諸国にも波及する可能性があったから、その後のイラン・イラク戦争では、アラブ諸国の多くはイラクを支援した。だが、この戦争が1988年に停戦すると、イラクがアメリカやアラブ諸国から集めた軍備と軍資金が、アラブの脅威になり出した。こうした中で起きたのが1991年の湾岸戦争だった。
湾岸戦争のもととなったのは、1990年のイラクのクウェート侵攻だが、これも一般に報じられている筋書きとは別の現実があった。イラク軍が突然クウェートに侵攻し、イラクの侵略行為を許さないアメリカがクウェートの依頼を受けて反撃した、というのが湾岸戦争の公式な筋書きである。
ところが実際には、クウェートがイラクを挑発し、アメリカは中立的な立場を表明したため、かねてからクウェートの独立を認めていなかったイラクのサダム・フセイン大統領がクウェート侵攻を実行したのであり、フセインはアメリカとクウェートの策略にはめられた部分が大きい。
イラン・イラク戦争の期間中、クウェートはイラクに軍資金を貸していた。戦争が終わった後、クウェートは貸した金をすぐに返せとフセインに要求した。フセインは「自分はイスラム革命がクウェートなどアラブ諸国に広がらないよう、アラブを代表してイランと戦ったのであり、クウェートもそれを望んでいたはずだ」として、戦費は借りたものではなくもらったものだと反論、支払いを断った。
これに対して、クウェートはイラクとの国境地帯にあるルメイラ油田で、油井をイラク側にのばして採油を始めた。金を出さないなら石油で返してもらう、ということだった。イラクは盗掘されたとして非難し、軍をクウェート国境に結集させた。
http://www.jca.ax.apc.org/‾altmedka/gulfw-17.html
イラクの外相はクウェート駐在のアメリカ大使と会い、イラクがクウェートに侵攻するかもしれないと伝えたところ、大使は「アメリカはアラブ諸国間の内紛には関知しない」と答えた。イラクが侵攻してもアメリカは傍観する、という意味だと受け取った。その後、交渉の中でクウェート政府代表が、フセインが私生児であることを揶揄する発言を行ったため、激怒したフセインは翌日クウェートに侵攻した。
クウェートの王室と政府の上層部は、侵攻直前に海外に避難しており、侵攻時にクウェートに残っていたのは、大半が他のアラブ諸国などからの外国人労働者たちだった。
イラク軍は侵攻前にクウェート国境に大軍を結集させたため、アメリカは事前にこれを察知できた。ロシア・・・イスラエルがイラク軍の動きをアメリカに伝えたが、米軍は何の動きも見せなかった。
イラク軍がクウェートに侵攻し、政府の情報省??のビルを占領して内部を捜索すると、1989年11月中旬にクウェートの情報省がアメリカCIAと会議をした議事録が出てきた。そこには「クウェートは、フセイン政権を転覆させるCIAの作戦に協力し、イラクに圧力をかける」という計画が書かれていた。
会議が開かれたのは、イラクがクウェートに侵攻する9カ月前で、ベルリンの壁が崩壊したまさにその月だった。考えようによっては、アメリカは冷戦が終わるとともに新たな敵としてフセインを選び、湾岸戦争を誘発したともいえる。
湾岸戦争が終わった後、フランスの哲学者ジャン・ボードリヤールが「湾岸戦争は起こらなかった」と題する本を出版した。ボードリヤールは「ポスト構造主義」の哲学者で、同じ分野の他の筆者の本と同様にこの本も、わざと読みにくくしたと思えるほど難解に書かれている。
そのため「湾岸戦争は起こらなかった」という主張の背景として解釈が何種類も存在するようだが、私の解釈では「湾岸戦争は、テレビで放映された戦争のストーリーのようには起こらなかった。アメリカ政府は、映像やデータの組み合わせ方を工夫して発表することで、自分たちに都合の良い戦争のストーリーをマスコミに報道させた」とボードリヤールは考えている。彼は、本の中でサダム・フセインを「傭兵隊長」と呼んでいる。アメリカの都合に合わせて動いてくれる人ということだ。
ボードリヤールは、人々の脳裏にある湾岸戦争のストーリーがペルシャ湾岸で生まれたものではなく、アメリカのテレビ局の編集室で作られたものなのだ、テレビに映る戦争は「ハイパーリアリズム」(超現実)なのだと主張した。これに対して「現場」に行ったジャーナリストたちから猛烈な反発があった。「俺たちはミサイルが飛び交う戦場にいて、現実をこの目で見たんだ。現場にも来ない哲学者が何をたわけたことを言っているんだ」というわけだった。
ところが戦争が終わってみると、テレビに映し出された有名な水鳥を油まみれにした油井の爆撃は、イラク軍ではなく、米軍が行った可能性が強いことが明らかになった。また「イラク兵が目の前で嬰児を殺害した」と証言した少女は、当初報じられていたようなクウェート市から逃げ遅れた一般市民ではなく、クウェート政府の駐米大使の娘で、イラク侵攻時にクウェートにはおらず、証言は事前に少女に練習までさせてねつ造したものであることが明らかになった。
湾岸戦争全体に貫かれている「欲深いサダム・フセインが起こした残虐な侵略に、アメリカが正義の鉄槌を下す」というストーリーがウソであることが、だんだん分かってきた。「現場」に行ったものの、得られるほとんどの情報は米軍が提供したものだったマスコミ各社より、テレビが映し出すものは現実と違うと何年も前から指摘し、それを哲学として研究してきたボードリヤールの方が、的確な視点を持っていたのだった。
911テロ事件が起きた後、「さすがのボードリヤールでも、アメリカのど真ん中で起きた事件を『起こらなかった』とは言えまい」という主張を、何度か見かけた。80年代にもてはやされたポスト構造主義哲学は90年代に入って人気を失い、ボードリヤールの著書もあまり読まれない。911後、ボードリヤールに対して発せられたのは、死者に向けた弔いの言葉だった。
ところが私には、ボードリヤールの分析は、911とその後のテロ戦争にも十分あてはまると思えた。それどころか、マスコミに「超現実」を報道させるアメリカ政府の手腕は、湾岸戦争のときより上達していた。湾岸戦争のときのアメリカでは反戦運動もけっこう起きたが、今回のテロ戦争では、反戦の意志を表明するだけで非国民扱いで、周囲の人々に非難されてしまう状態だった。
そもそも今回のテロ戦争は、911事件の発生からして湾岸戦争のときと似ている。アメリカ政府は、テロ攻撃やクウェート侵攻を受けそうだと知りながら、何の手段も講じず、むしろ攻撃が始まることを誘発した。湾岸戦争ではクウェートに挑発をさせたし、テロ戦争ではハイジャック関係者に対するFBIの事前の捜査を止めた。
攻撃させておいて、その反撃として、かねがねやりたいと思っていた「大攻撃」を行った点でも似ている。湾岸戦争では、イランとの戦争後のイラクが、油田地帯であるペルシャ湾諸国の政治・軍事バランスを崩しそうなので、アメリカはイラク軍を壊滅させたかった。テロ戦争では、タリバンを倒してアフガニスタンに石油ガスパイプラインを通すという計画が現実になった。
「敵」の設定については、湾岸戦争より911テロ戦争の方が「超現実」的である。湾岸戦争の敵はイラクという「国家」だが、テロ戦争の敵は実体もはっきりしない超国家的なテロ組織で、そのボスだというオサマ・ビンラディンは、テレビを通じてイスラム教徒に呼びかける存在だ。
また911後は、アメリカの横暴が我慢できなくなって立ち上がった人々を、アメリカは好きなように「敵」として定め、徹底攻撃を仕掛けることができる体制が作られた。この点もアメリカの好戦的な勢力にとっては「前進」だろう。米軍に爆撃されたくなければ、世界の人々は屈辱感を黙って我慢するしかない。米軍は、堪忍袋の緒が切れた人々から順番に攻撃していけばいいだけだ。そして、アメリカ国内でそんな状態に反対する人々には「売国奴」というレッテルを貼れるのである。
【7】オサマ・ビンラディンとCIAの愛憎関係
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