他の記事を読む

チベットは見捨てられるのか

2003年7月1日   田中 宇

 記事の無料メール配信

 ヒマラヤ山中の国ネパールは、中国とインドという二大国にはさまれた小国だ。ネパールは、中印双方に嫌われないよう、慎重にバランスを維持する外交政策を続けてきた。

 特にデリケートな分野の一つがチベット問題である。中国は自治拡大や分離独立を希求するチベット人の政治運動を弾圧してきたが、その一方でインドは、チベット人の最高指導者ダライラマら無数の難民たちをインド国内に受け入れ、中国に敵対するチベット人の運動を支援してきた。

 チベット難民がネパールへ逃げ出すのを阻止したい中国と、チベット難民を中国牽制の道具として使いたいインドという、相反する思惑の2大国にはさまれているネパール政府は「ネパールに逃げてきたチベット難民は、密入国してきたばかりの国境近くで捕まえた場合は中国に強制送還するが、国境を抜けて首都カトマンズ近くまでたどり着けた難民は、捕まえてもUNHCRに引き渡す」というバランス政策をとってきた。UNHCRは、ネパール当局から引き渡されたチベット難民をインドに行かせていた。

 ところがこの不文律は、さる5月31日に崩れた。ネパール当局はこの日、拘留中だった18人の難民を中国国境まで送還し、中国側に引き渡した。(関連記事

 この強制送還の直前には、UNHCRと中国当局との間で、難民の身柄の奪い合いが起きている。18人の難民は捕まった後に裁判にかけられ、罰金(払えなければ懲役刑)を科す有罪判決が4月に下っていた。難民たちには罰金を払う資力がなかったので、UNHCRの意を受けたカトマンズのチベット難民センターのスタッフが5月29日に監獄に出向き、代わりに罰金を払って難民たちの身柄を受け取ろうとした。

 すると偶然、同じ時に在カトマンズ中国大使館の係官も、同じ難民たちの身柄を引き取りに来ていた。中国当局は、ネパール警察の助けを借りて難民たちを中国側に送還しようとするところだった。

 難民センターのスタッフが急いでUNHCRに電話連絡したため、中国とネパール当局が難民を送還しようとしているのが世界的に発覚し、大騒ぎとなった。チベット人や欧米の人権団体が反対したが、難民たちは2日後の5月31日に中国に送還された。(関連記事

▼中国の人権侵害を黙認するアメリカとインド

 ネパール政府は、このときのチベット難民の中国送還について「例外的な措置だ」と表明したが、ネパールがチベット難民を中国に送還する傾向を強めたのは、最近突然始まったことではなく、2001年後半からのことである。(関連記事

 しかも、ネパール政府がチベット難民問題で中国寄りの立場を強めていることに対し、インドは何も制裁的な措置を発していない。インドは、ネパールが中国寄りの政策をとることを黙認している。またアメリカは、インド在住のチベット難民たちに対し、UNHCRを通じて合計毎年20万ドルを拠出するなど、中国封じ込めの立場から、チベット難民の支援に積極的だった。(関連記事

 だから、5月29日にネパール政府がチベット人を強制送還しようとしていることが発覚したとき、従来のアメリカの政策から考えれば、米国務省の高官がネパール政府に電話を入れて強く抗議しても不思議はなかった。そうすれば、2日後に強制送還が実施されることはなかったはずだ。

 アメリカ国務省は強制送還が行われた後、ネパール政府を批判する声明を出している。しかし、これは欧米の人権団体からの批判をかわすための発表だった可能性がある。イラク戦争後、世界中から恐れられているブッシュ政権がその気になれば、難民の強制送還を止めることは難しくなかったはずだ。強制送還は、アメリカとインドが黙認すると分かっていて中国が動き、ネパールはそれに従った結果、起きたと思われる。

 なぜそのような事態になるのだろう、と思っていたら、先日もっとあからさまな出来事があった。6月23日、インドのバジパイ首相が中国を訪問して発表した中印共同声明の中に「チベット自治区は中国領であり、インドは自国内でチベット人たちが反中国の政治活動を行うことを許さない」という一文が盛り込まれたのである。

 今回のインド首相の訪中をきっかけとして、中印関係はこれまでの敵対的な態度をやめ、経済分野を皮切りとして、親密な関係を築いていくことになると予測されている。こうした関係強化の犠牲になるかたちで、チベット難民のインド流出が止められるようになったと考えることができる。

 インドと中国の接近に歩調を合わせるように、今年に入ってダライラマの側近が2回中国を訪れ、中国政府とチベット問題の解決に向けた話し合いを行っている。インド外務省は「(中国と仲良くなっても)ダライラマを追い出すようなことはしない」と発表したが、このような発表が出てくること自体、チベット人たちが従来のようにインドで問題なく住める状態は、間もなく終わるかもしれないという懸念につながる。ダライラマが中国政府と話し合いを再開した理由がそこにうかがえる。(ダライラマと中国の交渉は1993年から途絶えていた)(関連記事

 6月23日に、チベットが中国の一部だとインドが認めたのは、以前の見解をくつがえしたものではない。1950年にチベットが中国の統治下に組み込まれた後の1954年、すでにインドはチベットに対する中国の統治権を承認している。インドは今回、以前の承認をより明確にしただけだ。

 それでも、難民問題でネパールが中国寄りの態度に転換したこと、ダライラマが中国政府と交渉を再開したことと合わせて考えると、インド首相がこのタイミングで「チベットは中国領だ」と表明したことは重要だ。チベット人の自治要求運動は今後、下火にさせられる可能性がある。

▼冷戦とチベット問題の歴史

 しかし、それによってインドが得るものは、ほとんど何もない。チベットが中国の一部だとインドが認めたことは、シッキムがインドの一部だと中国が認めることと交換に行われたと報じられた。だが、インドの新聞サイトには「シッキムやカシミールはインドの一部であり、それを中国が承認しようがしまいが、大した違いはない。そんな承認と引き替えにチベット人の人権を踏みにじっていいのか」といった調子の論文が掲載されている。(関連記事

(シッキムはチベットの南、ネパールとブータンにはさまれたヒマラヤ山中の小さな地域で、古くはチベット王国の属国だったが、1975年にインドが併合した。中国は「シッキムはチベットの属国だった以上、インド領ではなく中国領になるべき地域だ」と主張し、インドによる併合を承認していなかった)

 このような論調がある一方で、そもそも歴史を振り返ると、インドがチベット人の政治運動を引き受けたのは、人権を重視したり、チベットに対するインドの影響力拡大を狙ったりするために行ったものではないことも分かる。インドがチベット問題に首を突っ込んだのは、冷戦時代に中国封じ込めを狙うアメリカから頼まれたからだった。

 アメリカ政府は1950年、中国軍がチベット軍を打ち破ってチベットの占領を進め出したとき、チベットが独立国として存続できるよう協力すべきだとインドとイギリスに働きかけたが、拒否されている。(関連記事

 アメリカは独力でチベット人組織を支援する介入を行い、1957年からCIAがチベット人ゲリラをサイパン島や米本土コロラド州などで訓練する軍事作戦が始まった。アメリカはダライラマにも亡命を勧め、いったんは断られたものの、1959年に中国占領下で身の危険を感じたダライラマはインドに亡命した。

 インドと中国(共産党政権)は、1947年と49年に、いずれも社会主義的な民族主義を掲げて建国した。そのため最初は仲が良かったが、その後米ソ冷戦が激化し、中ソ対立も表面化する中で、中印関係も悪化した。1962年にはカシミール北東部(アクサイチン)の帰属をめぐって中印が戦い、インドが負けてしまった。このあと、インド政府はアメリカの対チベット作戦に協力するようになった。

 ところがアメリカでは1969年にニクソンが大統領に就任し、冷戦下の中国敵視政策から、中国との国交回復へと政策を大転換した。ニクソンの当選が決まった1968年末、ダライラマのチベット亡命政府は、CIAから対中国軍事作戦の援助を打ち切ると通告された(ニクソンは、立候補したときから中国との国交正常化を方針にしていた)。(関連記事

▼中国政治自由化の挫折と「人権外交」

 その後、ニクソンがウォーターゲート事件で追い落とされ、中国も文化大革命の混乱が続いたが、それらが落ち着いて中国がトウ(