東南アジア庶民経済紀行

この文章は、95年9−10月に会社の出張で取材旅行した東南アジアについて、会社の原稿を書くだけではもったいないと思い、本にしようと書き始め、途中で挫折している作品です。


◎前書き

▽この本ができるまで
 共同通信社という報道機関で働いている僕が記者になったのは、一九八四年五月にイランの首都テヘランに滞在したことがきっかけだった。僕は大学生だったが、一年間休学をして世界を旅行していた。今も学生がよくやる放浪の旅だ。荷物は小さなリュックサック一つだけ、英語の貧乏旅行ガイドブックを参考に、数人の旅行者と部屋を共有するドミトリーの宿に泊まりながら、アメリカ大陸からヨーロッパ、ギリシャ、トルコと、鉄道やバスを使って移動してテヘランまできた。そこからパキスタン、インド、タイを経由して八月ごろに日本に帰るつもりだった。復学すると四年生になるので、就職活動をしなければならなかったからだ。
 当時、テヘランに滞在していた貧乏旅行者のほとんどは日本人だった。イランはイラクと戦争していたが、欧米のほとんどの国は反イラン、親イラクの立場だった。そのため貧乏旅行者に多いイギリス人、カナダ人などはイランのビザを取りにくく、何週間も待ってようやく五日間だけのビザをもらえるという具合で、トルコ国境からバスでテヘランに着き、翌日すぐにパキスタン国境に向けて出発しないとビザが切れてしまう。
 その中で日本人だけがビザを事前に取らずに一か月までの滞在が許されていた。イスラム原理主義のイランは、キリスト教徒の欧米諸国とは対立したが、日本はその対立と無関係だから、戦時下に物資を供給してくれる国として重宝したらしく、それが日本人へのビザ優遇につながっていた。(その後、観光ビザで入国して働くイラン人に困らされた日本政府がビザを出し渋るようになり、対抗してイランも日本人へのビザ給付に厳しくなった。イラン・トルコ国境に住むクルド人がゲリラ活動を始めたため国境も閉鎖され、イランを通る貧乏旅行ルートは失われた)

 テヘランにある貧乏旅行者用の宿は一軒しかなかった。イラク軍の空襲で天井に穴が開いた部屋もある宿には、十数人の日本人が滞在していた。僕はそこで何日か過ごすうちに、同じように休学して貧乏旅行をしていた早稲田大学の男子学生と親しくなった。
 彼も僕と同じ四回生で、帰国したらじきに就職活動をしなければならない。「卒業しても旅行しながら生活できる職業があればいいのになあ」と僕が言うと、彼は「あるよ。新聞記者になればいいんだ」。彼によると、新聞記者になれば行きたい場所に行ってそこで見聞きしたことを書くことで給料がもらえる、ということだった。彼自身も新聞記者を目指していて「入社試験が難しいので、帰国したらすぐに試験勉強を始めるつもりだ」と言っていた。彼とは数日間一緒にいただけだったが、「世界の辺境を旅行し、感じたことを書いて給料をもらう」という記者のイメージは僕の頭に残った。

 旅行にはバカンスの「楽しむための旅」と学生や脱サラした人の貧乏旅行「知るための旅」があるようだが、僕が好きだったのは「知るための旅」だ。自分が生活している社会の常識を越えた世界、自分の想像を越えた社会があると分かった時、そこに行ってみたいという欲求。マルコポーロも川口慧海も、貧乏旅行する欧米や日本の若者も、みんなそれを持っている(いた)はずだ。
 欧米など日本でよく知られた地域以外の地域に行くと、社会の様子が全く異質なので、初めは何が何だかさっぱり分からずに戸惑う。だが次の日になると、人々は日本人と同じように食い、寝て、生活していることに気づく。生活することの快感はどこでも同じであるようで、不思議な感じを受ける。この驚きは他の娯楽では得られない。
 そのうちに、だんだんとその社会の仕組みが分かってくる。それがまた快感だ。帰国してその地域について書かれたものを読んでみる。「なるほど、そういうことだったのか」。ここでまた快感。しまいには自分が受けた感動や理解の快感を、人に伝えたくなって文章を書き出す。それが上手に書けたと思った時に、また満足。僕は大学時代の何回かの旅行を通じて、そうした一連の楽しさにはまってしまった。そんな僕が記者になりたいと思ったのは言うまでもない。

 入社試験への準備不足と、「みんなが入りたがるマスコミなんか希望するのはありきたりだ」というやせ我慢から、いったんは繊維メーカーに入ったものの、一年後に共同通信を受けて合格し、入社した。「マスコミ就職読本」とかを読んで、どうやらテヘランで聞いた話は誇張がありすぎるようだと感じていたが、共同通信は国際報道に特に強いという評判だったから、もしかして、という気持ちがあったのだ。  入社すると京都支局に配属された。ポケットベルを持たされて、「ベルの鳴る範囲を出るときは必ず許可をとってからにしろ」と言われた。ベルが鳴るのはほとんど京都市内だけだった。その代わり、市内での行動は自由だった。裁判所の記者クラブの担当になったが、あまり追わねばならないニュースがなく、暇だった。豊富な自由時間を使って、京都の山奥の鉱山で働いた在日朝鮮人に話を聞いたノンフィクション「マンガンぱらだいす」(風媒社刊)という本を書いた。その後大阪、東京と転勤したが、あまり忙しい部署をやっていない。いつも行動は自由だったが、ポケットベルが鳴る範囲にいることが条件だった。
 「自由に行きたい場所に行って記事を書けば給料がもらえる」。テヘランで早稲田の学生が言っていたことは事実だった。「ポケットベルが鳴る範囲のみ」という悲しい条件がついてはいたが。
 あの早稲田の学生はその後どうしているだろう。実は名前も聞かなかった。彼もポケットベルをぶら下げて、どこかで記者をしているのかも知れない。

▽降って湧いた外国取材
 そんな経歴の僕だから、海外報道を担当する外信部に行きたかったのだが、希望者が非常に多いということを入社後まもなく知った。なにせ、僕の同期入社の記者は四十人近くいたが、そのうちの半数前後が外信部希望だったのだ。数年間の地方勤務の後、外信部に行けるのは毎年五人程度にすぎない。今年で入社後九年もたつのに、外信部に行くために本社の他の部からの招きを断り、まだ地方の支局で待っている同期もたくさんいる。
 僕は希望通りにならなかった時の挫折感がいやで、早くから志望を経済部に変えていた。世の中の仕組みの根幹をなす経済を知っておいてもいいかと思ったからだった。経済部は、地方にいて警察や県庁をカバーしている若い記者から「企業の片棒かつぎをしているので行きたくない」と思われて(警察や役所担当の記者も、相手組織にある程度すり寄らないとニュースをとれないのは同じなのだが)希望者が少なかった。それで九三年に東京の経済部にきた。経済部の取材は確かに勉強にはなったが、取材は東京だけ。ベルの鳴る範囲から外に出るには休暇をとらねばならない。もう一度海外を放浪したいという気持ちは消えなかった。日本のサラリーマンとしては全くぜいたくな欲求だが、休暇を使って一週間ぐらい海外に行くのは放浪とは呼べないと思っていた。

 九四年秋、年末年始用の企画に何か面白いものはないか、と上司に言われた。年末年始はニュースが減る上に増ページ版の新聞を出すので、普段より余計にニュースが必要だ。申し遅れたが、共同通信の主な仕事は、日本にある六十社近くの地方新聞社(北海道新聞や信濃毎日新聞など)に、新聞を作るための記事原稿や写真を送ることだ。
 どんな企画案でもいいと上司が言うから、僕は「国境貿易をやっている世界各国の担ぎ屋に同行して草の根の貿易を取材する」という企画を出した。自分が世界の辺境を旅行できる案を出したのだった。すると意外なことに「面白い」ということになり、受け入れられた。読者の皆さんは気づいているだろうが、実は新聞記者の発想は一般にかなり貧しくなっている。限られた先しか取材しなくてすむ記者クラブ制度の中で、役所や企業から特ダネをもらって同業他社との競争に勝つことばかりに目を奪われて、本当のところ世の中がどうなっているか、面白がって考えようという思考が先細りになっている。それでこんな企画でも通ったのではないか。
 こういう企画は経済部では予算が取りにくい、ということで、僕の企画は外信部がやる正月企画の中に編入されることになった。「中国からインドシナを流れるメコン川の流域で生きる人々の姿を追う」という主旨で、私の担当はメコン川上流の中国の雲南省に行き、中国とビルマ、ラオス国境の貿易を取材することだった。期間は一週間。入社七年目にして初めての海外出張だった。はっきりした取材のテーマがあると当然ながら、休暇の旅行に比べてはるかに深くその地域のことが理解できることが分かった。

 その企画の延長で「あいつはアジアが好きなのだ」ということになったのか、九五年春、こんどは東南アジアに取材に行けといわれた。「万国市場模様」と名付けられた連載企画の記事を書くためだ。この企画は九五年四月から毎週一回、一年間で合計五十回の記事を流すものだった。テーマは世界各地の市場の姿や流通、運輸、通信、社会主義から資本主義への移行など、各種の「市場現象」。ソ連、東欧などで社会主義国家が崩壊し、全世界が市場経済に組み込まれていく時代なので、市場現象をテーマにした企画をやろうということで、一回で一つの国を取り上げ、合計で五十カ国を紹介することになった。
 この連載の中で担当するように言われたのが、フィリピン、タイ、マレーシア、インドネシア、ブルネイの東南アジア五カ国の五回分。東南アジアの中でもシンガポールだけは他の先輩記者がやるので残りの国を僕がやることになった。
 各国それぞれテーマを設定して書くことになっていたので、出発前に二ヶ月ほどかけて五カ国の資料を集め、なるべくその国を象徴するようなテーマを考えた。出発前に決めたのが、次の五つのテーマだった。

 フィリピンは「海外出稼ぎ労働」。政治の混乱で経済が低迷しているフィリピンでは、国民の六%に当たる人々が海外に出稼ぎに行っている。出稼ぎに行く人は豊かになれるという夢を抱いて出かけるが、現実は厳しい。九五年春には、シンガポールでメードをしていたフィリピン人女性が真相のはっきりしない殺人事件の犯人とされて死刑になり、フィリピン人の強い反発をかって外交問題にまでなるなど、問題も起きている。出稼ぎ者たちに話を聞いて回る。
 ブルネイは「水上集落の金持ち社会」。石油価格の高騰で、世界有数の金持ち国になった産油国のブルネイでは、住民の多くは今も水上集落に住んでいる。川の上に木を組み合わせて建てられた彼らの家は質素に見えるが、彼らの多くは東南アジアでは飛び抜けて高い給料をもらう公務員だという。彼らはいったいどんな生活をしているのだろうか。
 マレーシアは「三つの民族、三つの市場」。マレーシアにはマレー系、中国系、インド系の三つの民族が住んでいるが、食生活をめぐる宗教や習慣が違うため、同じ町に三か所の市場がある。かつてマレー系が中国系を殺す暴動があったりした教訓から、三つの民族は注意深く、お互いの尊厳を侵害しないように生きているらしい。その現状を見る。
 インドネシアは「現代社会に放り込まれた石器時代の人々」。インドネシアの東の端、ニューギニア島(イリアンジャヤ州)の山の中には、最近まで石器時代と同じ生活をしていた人々(ニューギニア高地人)が住んでいる。だが最近、ジャワ島などから大量のインドネシア人移民が押し掛けるとともに、外国人観光客が増えて、高地人たちは現代の市場経済の渦の中に巻き込まれた。彼らは今、ペニスケースをつけて町中を歩くことで観光客に写真を撮らせ、金をとっていると。この地域では技術的な理由から、通常のテレビやラジオより衛星テレビの普及が早かったので、裸の人々がCNNのニュースを見ているという、ちぐはぐな光景もあるらしい。彼らの話を聞きに行く。
 タイは「世界有数の渋滞都市バンコクで生きる人々」。バンコクの交通渋滞は世界最悪だといわれる。仕事を求めて地方から集まってくる人々により人口が急増し、道路や鉄道の建設が追いつかないからだ。熱帯国タイの人は歩くことを嫌う。このことが渋滞をひどくさせる一つの原因らしいが、最近では渋滞する車の間を縫って走るバイクタクシーが現れ、急ぐ人々を運んでいる。バンコクの人々は渋滞にどう対応しているのだろうか。

 このようなテーマを決めるまでに二ヶ月近くの時間があったので、東南アジアに関する本や雑誌、新聞の記事を、図書館などで見つけられる限り読んだ。だが情報は意外と少なかった。フィリピンについてはマルコス大統領を追い出した「アキノ革命」以外のテーマについての本や記事が少ないし、八〇年代から「ルックイースト政策」で、日本に熱い眼差しを向け続けていたマレーシアに関する本や記事が少ないのも驚きだった。インドネシアのイリアンジャヤについての書籍など、図書館をいくつか探したが、日本軍がこの島を一時占領していた戦争中かそれ以前に書かれたものばかりであった。日本で紹介されている海外の情報は、ひどく欧米に偏重しているようだった。
 僕は情報が少ないので、しめしめと思った。これなら出張をした時の見聞を元にして、新聞記事とは別に本を書く意味が十分にあると思ったのである。出張期間は一カ国一週間強、合計で約四十日間と非常に長かった。東南アジアは日本人には身近な海外だと思っていたが、現地に行ってみると意外な発見が多かった。短い新聞記事にして終わりではもったいない。次にいつ海外出張に行けるかも分からない。「旅行して世界を理解し、各地に住んでいるのがどんな人々なのか、分かりやすく書きたい」という八四年のテヘラン以来、抱き続けていた計画を実行するのだ、と思いながら、九五年九月に成田空港を出発した。
 取材のコースはフィリピン、ブルネイ、マレーシア、インドネシア、タイ。共同通信の写真部カメラマン、柿木正人さんと全行程、一緒に取材した。この本の写真は全て、彼の手になるものである。

 前口上はこのくらいにして、本文を読んでいただこう。この本の順番は私たちが旅行して回った順番と同じで、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、インドネシア、タイと続いている。


◎第一章・フィリピン

 マニラの中心街の一つ、ケソン市の大通り沿いに建つ雑居ビル。その二十畳ほどの一室に、若い女性ばかり五十人ほどが、ぎっしりと椅子を並べて座り、前に立つ講師の話に耳を傾けている。彼女たちは、これからマレーシアやブルネイでメードとして働く予定で、出国手続きの一つとして義務づけられた一日講習会を受けにきた。
 講習会を開いているのは「カイビガン」というNGOで、講師はボランティア。講義の内容は出稼ぎ中に起こりがちな問題の解決方法などで、若い男の講師はタガログ語でジョークを連発し、会場はしばしば爆笑に包まれていた。言葉の通じない異国に出稼ぎに行く女性たちと聞いて「女工哀史」のような暗く不安げな顔が並んでいると思っていたが、予想に反して会場の雰囲気は陽気で和気あいあいとしていた。悲壮さが感じられないのは、楽観的といわれるフィリピン人の民族性からくるのだろうか。
 そんなことを考えながら、開いた扉から顔を出して見学していると、こちらに気づいた講師が参加者に向かって「日本人の新聞記者がきていますよ」。若い女性たちの好奇心に満ちた目が一斉にこちらに注がれて、ドキッとさせられる。こちらを意識して講師は「この中に日本へ行ったことのある人はいますか」と会場に尋ねた。数本の手が挙がる。「では日本に行きたいと思う人は」と言うと、今度はほとんどの人が手を挙げた。「日本に行きたい人は、自分を売り込む記事を彼に書いてもらいましょう」と講師が言い、また会場を沸かせた。

 フィリピンでは今、国民の六%に当たる四百二十万人が海外で働いている。そのうちの四五%が彼女たちのような女性のメードで、マレーシア、シンガポール、台湾、香港、サウジアラビア、クゥエートなどが主な出稼ぎ先。カイビガンでは曜日ごとに行き先別に講座を開いている。月曜日は台湾、火曜日は香港という具合だ。
 フィリピン人メードで思い出すのは、シンガポールで処刑されたフロア・コンテンプラシオンのことだ。彼女は真相がはっきりしない殺人事件の犯人として死刑を宣告された。フィリピン政府が追加調査を求めたが、シンガポール側は昨年三月に死刑を執行してしまった。えん罪を信じるマニラの大衆が怒りのデモを行い、一時は両国の関係も悪化した。
 中東のアラブ首長国連邦では昨年、十六歳のメードが自分を強姦した雇い主を殺し、死刑判決を受けた(外交問題になったため後で罰金刑に減刑)。ブルネイでは子守を任されていたメードが赤ん坊を殺害する事件も起きている。事件の背景には、社会の目に触れない異国の個人宅で一人きりで働くフィリピン人メードは、自分の権利も主張できないまま酷使され虐待されることが多い現実がある。追い込まれると過激な行動に出てしまうのだ。このためフィリピン政府は、働きに行く彼女たちにせめて身を守る知恵をつけてやろうと、講座への参加を義務づけた。

 昼休みに彼女たちの何人かを食事に誘い、話を聞くことにした。講師に頼んで教室の時間を何分かもらい、取材の目的を話して希望者を募った。だが、みな好奇心はあるようなのに誰も手を挙げず、隣の友達を突いたりするばかり。意外にシャイなのだ。何回か促してようやく、それまでよく講師に質問していた女性が名乗り出て、最終的に三人を誘うことができた。どこでも行きたいレストランに連れて行ってあげる、と言ったのに、彼女たちが相談して決めた場所は、日本人二人を含む五人で食べて約千七百円という安い食堂。何ともつつましやかだ。
 逆に、取材に対しては積極的に応じてくれた。出稼ぎに行く理由を尋ねたところ、最初に名乗り出てくれた二十七歳のティタ・ラバニョンは「実家を新築して、近くの町で服や雑貨を売る店を開くのが夢です」と答える。三十一歳のナンシー・ワガスは「弟や妹が何人もいるので、全員をカレッジに行かせるだけのお金を稼ぎたい。父母のために家も新しくしたい」。三十七歳のヘルリータ・マルティネスは最近まで看護婦をしていたが「姉がアメリカで看護婦をしており、私も同じ病院で働きたい。マニラではアメリカのビザが取りにくいので、取りやすいマレーシアに働きに行きます」。三人とも、はっきりした夢や目標を持って出稼ぎに行こうとしていた。
 出身地は三人とも、マニラがある北のルソン島と南のミンダナオ島の間にある、たくさんの小さな島からなるビサヤ地方。漁民が多い地域で、男は船員になって外国船に乗っている人が多い。世界の船員の大半は彼らフィリピン人だ。この地域には、昔は海賊稼業もたくさんいた。もともと海外に行くことに抵抗が少ない人々だから、今もメードや船員として出稼ぎに行く人が多いのだろう。

 マレーシアでの月給は約三万円相当。これでは二年間働いても七十万円しかたまらない。物価の安いフィリピンで使うといっても、実家を新築し、弟と妹にカレッジを卒業させ、故郷で小さな店を開くというフルコースを実現するには、彼女たちの概算では三百万円はかかるという。二年契約のメード出稼ぎを四ー五回こなし、十年近く海外で働き続けねばならない計算だ。
 三人のうちティタとヘルリータは、すでにメード出稼ぎの経験を持っていた。ティタは二十四歳でシンガポールに渡った。その時の雇用主がいい人で、二年間の契約が終わった後、マレーシアに住む弟を紹介してくれて、今回はそこで働くことになっている。ほとんどの人は求人代理業者から仕事を紹介してもらうため、月給の数カ月分にあたる仲介手数料を取られるが、ティタの場合、新しい雇用主が直接手続きしてくれたので、仲介料を払わずにすんだ。
 ヘルリータは前回もマレーシアに行ったが、ティタほど雇用主に恵まれなかったので、二回目の今回も仲介業者に頼んだ。しかもマニラに知人がいない彼女は、同じ業者に申し込んだ二十四人の女性と一緒に、業者がマニラ市内に持っている宿舎で生活しながら、手続きを進めている。もちろんその滞在費は仲介料に加算される。「故郷に送金できるのは、向こうで働き出して半年たってから。それまでは毎月給料の七五%を業者に取られる。大変だけど、出稼ぎに行く人の多くは似たような境遇ですよ」。彼女を支えているのは、マレーシアに行けばアメリカのビザが取れるだろう、という希望だ。

 ヘルリータの渡米計画を聞いて感心しかけたとき、「その方法は無理よ」。食後のコーラを飲みながら横で聞いていたティタが、やおら口をはさんだ。「私も前回、シンガポールでアメリカのビザを取ろうとしたけど、出稼ぎのパスポートは一般のと違って、出稼ぎ先の国にしか有効ではないの。出稼ぎ先から直接アメリカには行けないわ」。いきなり言われてヘルリータは理解できず、目をぱちぱちさせていたが、事情が飲み込めるとがっかりした顔になった。すでに一度出稼ぎに行ったのに、パスポートが特別なものとは全く気づかなかったらしい。「マレーシアに行くことはもう決まっているんだし、ビザが取れるかどうか行ってみないと分からないわ」。気を取り直したヘルリータがつぶやいた。
 陽気だがシャイでつつましやか。そのうえ前向きに夢や目標を持っていて、ヘルリータのように計画がうまくいかないところがまた愛嬌だ。彼女たちと接して、日本人よりもフィリピン人の女性を好きになってしまう日本人の男が多いという、最近の傾向が理解できるような気がした。

 さらに女性たちの話を聞くため、二日後に再び講習会場を訪れた。土曜日のその日は、香港でメードをする人たちを対象にしていた。前回と同じ方法で三人を募り、昼食に出かけようとすると、その中の一人が「ちょっと待ってください」と言って、会場の雑居ビルの前の駐車場のすみに立っていた中年男性のところに早足で近づいて行った。他の女性が「あれは彼女の夫です」と言う。確か彼は、一時間ほど前に私がここに着いた時には、すでにああやってすみの方に立ち、煙草をふかしたりしながら手持ち無沙汰な様子だった。妻を会場まで連れてきて、そのまま講習会が終わるまで待っているらしい。彼も食事に誘ってあげなくては、と思って声をかけると、むっつりした表情のまま、しきりに遠慮する。結局、「いいから一緒に行きましょうよ」と言って袖を引っ張る妻の後について、彼も歩きだした。
 この奥さんはエルヴィーラ・アイソン、四十一歳だった。無愛想なので名前を聞きあぐねた旦那の方は、衣料品の工場で働いているとのこと。パートタイムの仕事なので稼ぎは多くないらしい。政治の混乱や政策の失敗から経済の低迷が続いてきたフィリピンでは、半失業を含む失業率は二割以上といわれ、彼のような人は珍しくない。
 頼るは海外出稼ぎということになるが、男性向けの仕事は最近減っている。六〇年代以降多かった中東での建設作業員の仕事が、湾岸戦争以来、激減してしまったからだ。代わって増えているのがアジア向けのメードだ。この夫婦のように、妻が出稼ぎに行き、夫と子供たちが家で仕送りを待つ、というパターンが一般的になっている。ご主人が無愛想なのは、妻に養ってもらっているという引け目からきたものとお見受けした。
 エルヴィーラのメード出稼ぎは今回が三回目。最初は九〇年からサウジアラビアで三年間、次に台湾で一年働いた。最初にサウジに行ったのは、中東向けの方が求人代理業者に払う手数料が安いため。アジアに行く場合の手数料は、台湾が二十八万円、香港が十六万円程度かかるが、中東なら四万円前後。台湾や香港だと雇用主を探す現地の業者も手数料をとるので高くなるのだ。そのかわり月給は台湾が五万円以上、香港が四万円程度である半面、中東では二万円以下だ。ちなみに日本で働くフィリピン人女性の大半はホステスをしているが、初めて働く人で月に八万円ほどを稼いでいる。日本に行きたいと手を挙げた人が多かったのは高収入のためだ。
 初日の取材で会った渡米希望のヘルリータのように、業者から借金をして最初からアジアに向かう人もいるが、エルヴィーラは「業者から借りると利子がとても高いのでいやだった」。彼女のようなこつこつ型の人は、最初は中東で働き、金が少したまる二回目からはアジアに向かうケースが多い。
 サウジでは深夜まで働くこともあり、雇用主一家は英語が上手ではなかったので、言葉の問題もあった。半年かけてアラビア語を独学で学び、片言に話せるようになった。その苦労に比べると、台湾での日々は良い思い出だった。「雇用主は自動車ディーラーの社長一家で、親切にしてもらいました。今も手紙をやり取りしています」と言って、財布の中に大切に入れてある、ベンツのマークが入った雇用主の名刺を見せてくれた。  そんな彼女が今回、出稼ぎ先を台湾から香港に変えたのは、外国人労働者は一人一回しか台湾で働けないという規則を台湾政府が作っているからだ。「台湾で一度働いた後、フィリピンで自分の名前を変える手続きをした上で、新しい名前でパスポートを作り直し、また台湾に行く人もいるけど、私はそこまでしたくない」。

 二人目の女性、三十四歳のアレハンドラ・レヴィも中東でつらい経験をした。「九二年から二年間、クゥエートで働きましたが、雇用主の一家で英語ができるのは娘さんだけ。彼女がいないと奥様が何を命じているか分からず、いつもがみがみ言われていました。大きな屋敷なので掃除も大変で、朝五時から夜中まで働かされ、三時まで働いたこともあります。もちろん残業代なんてくれません。もう中東には行きたくない」。求人業者からは「雇用主一家は英語ができるので、言葉の問題はない」と聞かされていた。
 メードたちの間では一般に、中東は評判が悪い。カイビガンのスタッフは「中東の人間は、メードのことを奴隷だと思っている。月給も払わずに深夜まで働かせ、抗議すると逆に暴力をふるって脅される場合が多い。オイルマネーで努力せずに金持ちになってしまったので、現代人として必要な、契約や人権に関する意識を持っていないのだ」と非難した。フィリピン人はアメリカの植民地だった歴史があるため、国際語である英語がうまく、そのことを民族の誇りとしているだけに、英語を話さない雇用主への不満が大きくなるのかも知れない。

 残る一人の女性、三十一歳のヘリン・パディーラも出稼ぎ三回目だが、これまでの行き先はシンガポールと香港で、今回は二回目の香港。独身の彼女がメードをするのは「海外で生活して見聞を広めるため」。地方の小さな町や村に家がある大半のメードと異なり、彼女はマニラに住む都会っ子。二回の出稼ぎで貯めたお金で、ハイクラスな地域であるマカティ地区に両親と自分のためのマンションを買った。
 ヘリンは「一度、日本でも働きたい」と言う。日本で合法的に働くための唯一の方法は、歌手やダンサーといったエンターテイナーとして認められ、芸能ビザをもらうこと。「私は美人じゃないから駄目だと思う」と言う彼女に「あなたなら大丈夫ですよ」と言うと、少しその気になったのか「私のチャームポイントはこの髪よ。本当に日本に行けるかしら」と、はにかみながらロングヘアをかき上げてポーズを作った。
 昼食からの帰り道、クゥエートで苦労したアレハンドラと歩きながら話した。家族のことを尋ねると、「夫は愛人を作って出て行きました。子供が三人いるので、出稼ぎに行くんです」と言う。これは悪いことを聞いてしまった、と思っていると、「でも夫がいなくなって自由な気持ちです。夫はあまり働かず、私にあれこれ身の回りの世話をさせて、私が働きに出ることも嫌がったので、ずっと貧乏でした。今はこうして働いて、子供たちのためにお金も貯められるようになったんですから」と、淡々と話してくれた。

▽ピナツボ山麓の悲劇

 マニラに着いて以来、私は「イタリア村」のことを知ろうと聞き回っていた。イタリア村というのは、香港で発行されている英文週刊誌に紹介されていた、イタリアに出稼ぎに行くメードが多い村の通称である。マニラから西へ七〇キロ、サンタローザという町の近くにある人口七千人のこの村から、二千人近い女性がイタリアに働きに行っている。村には、彼女たちが持ち帰ったイタリア製の家具をしつらえた立派な家が並ぶ。各家のおかみさんや娘たちがイタリアに行ってしまったので、村にはヴェスパのイタリア製スクーターを乗り回す失業中の男ばかりが目につく、といった内容だった。
 だが、マニラ駐在の通信社特派員も、地元のジャーナリストも、この村のことを知らなかった。週刊誌の記事は眉唾か、と思い始めていた矢先、カイビガンのリーダーであるアーネル・グスマンに尋ねてみると、「ああ、あれは僕が記者に紹介したんだ」と言う。「香港からアメリカ人の記者が来て、マニラから地方に出かけて海外出稼ぎのことを取材したいって言うから、こんなストーリーはどうかと言って、あの村のことを教えた」。どうやら雑誌の記者は、アーネルのアイデアをそっくりもらって取材したらしい。
 「私もイタリア村に行ってみたい」とアーネルにもらすと、彼は「お前も俺に頼るのか」という目で皮肉な笑いを浮かべたが、「すでに紹介されている場所に行っても面白くないだろう。こんなストーリーはどうか」と言う。説明してくれたのは、九一年に噴火したピナツボ火山の麓に住む人々の話だった。
 「ピナツボ火山の南側にあるパンパンガ州はもともと出稼ぎ者が多い地域で、人々は仕送りで家を新築したりして、わりと豊かな生活をしていた。ところが火山の噴火で噴き出した火山灰が泥流となって広い平野に流れ出し、彼らの家を埋めてしまった。しかも、せっかく家を立て直しても、毎年、今ごろの台風シーズンになると、上流に積もっていた火山灰が大雨で流されてきて、再び家を埋めてしまう。人々はなすすべもなく、避難所生活を続けている。絶望感に打ちひしがれながらも、再び出稼ぎに行かざるを得ない」
 私はその話に飛びつき、さっそく翌朝、自動車をチャーターしてパンパンガに向かった。香港の雑誌記者を笑えた義理ではない。

 パンパンガ州はマニラの北約六十キロにあり、サンフェルナンドという町が中心地で、ルソン島を南北に貫く幹線道路が通っている。この道路は別名、マッカーサー道路とも呼ばれている。サンフェルナンドの北にあるアンヘレスという町に、沖縄と並んで東アジア最大級のアメリカ空軍基地であるクラーク基地があったからだ。太平洋戦争に勝ってフィリピンを日本から奪い返したマッカーサーはクラーク基地を作り、そこからマニラまで道路と鉄道を敷いた。鉄道の方は、独立後に運営を引き継いだフィリピン政府の管理がいい加減だったため使われなくなり、軌道の跡が残っているだけだが、道路は今も現役だ。並行して高速道路も開通している。
 クラーク基地はすでに存在しない。アキノ政権になって以後の民主化運動で米軍基地への反発が強まっていたところに、ピナツボ火山噴火の被害で基地が使えなくなり、復旧に金がかかりすぎるということで、アメリカ政府は九一年にクラーク基地を閉鎖し、駐留軍を撤退。九二年には、ピナツボの南西にあって同じく被害を受けたスービック海軍基地の両方も閉鎖した。冷戦中なら、金がいくらかかろうと急いで基地を復旧し、中国やベトナムににらみを効かせ続けたであろうが、そんな時代は過ぎた。アメリカは財政難もあり、基地を閉めたいと思っていたところに、フィリピン側の米軍追い出し要求や火山の噴火があり、これ幸いと撤退してしまったのが本当のところだろう。
 閉鎖とともに、この地域の基幹産業だった基地関連の仕事はなくなり、人々は失業した。基地の近くの歓楽街にひしめいていたアメリカ兵相手のバーや売春宿も閉店した。最近、マニラでは町のイメージアップ作戦で、市当局が風俗産業の取り締まりを強化したため、マニラで廃業に追い込まれた風俗産業の一部がアンヘレスに戻ってきているというが、往年のにぎやかさはない。パンパンガの人々は、噴火で家や田畑を失った上、基地の閉鎖で仕事もなくなった。今、唯一の産業は災害復旧の公共工事である。
 クラークとスービックの跡地ではその後、再開発計画が進んでいる。両方の計画に共通しているのは、フィリピンの安い労働力を強みにして外国企業の工場を誘致しようという工業団地の計画で、クラークではこれに加えて、滑走路の敷地を流用してマニラの第二国際空港を併設する計画だ。プロジェクトはスービックの方が先行しており、すでに台湾や欧米の企業が工場を建設している。

 パンパンガに向かう日は、朝から雨だった。私がフィリピンを訪れた九月中旬はちょうど雨期の終わりで、南の海上で台風が次々と生まれ、フィリピン各地に被害をもたらしていた。マニラ市内を抜けると両側に水田が広がるが、あちこちで田んぼは広大な湖のようになり、道や家並みが冠水していた。
 車内でその日の朝刊を広げると、第一面に「パンパンガ州で深さ十一フィート(約三メートル)の泥流が村を埋める。死者二人」と写真つきの記事。今から向かう地域で二日前に大雨が降り、発生した泥流で村が埋まってしまったと書いてある。私たちが向かっている地域は、災害現場になってしまっているのだった。大丈夫だろうか。
 サンフェルナンドでマッカーサー道路を左折し、西に向かう。この道はスービックに向かっており、工業団地とマニラを結ぶ産業道路だ。ところが道は間もなく、木の柵でふさがれ、行き止まりになってしまった。横に立っていた警察官に運転手が尋ねると、この先は泥流原で道が切断されているという。「それを取材に日本から来たんだ」と運転手が言うと、警官は「グッド・ラック!」と言って柵を動かして開けてくれた。全くフィリピン人は調子が良くて官僚的でない。日本だとこんなに簡単には通してくれないだろう。
 車は一キロほど進み、小川に橋がかかっている場所で止まった。川の西側は見渡す限り灰色の平原だった。泥流原だ。噴火前は田んぼが広がっていたに違いない。空もどんよりと曇り、天も地も灰色だ。遠くピナツボ山の方向は低く垂れ込めた雲に隠れている。
 川の向こうに数軒の家が並んでいたが、二階の中ほどまで埋まっていた。一帯には、三メートルほどの厚さの土砂が積もっていることになる。遠くの方に隣町の教会の尖塔や家並みが見えるが、そっちも町全体が半分埋められている。二日前の大雨で泥流が流れ込み、死者が出たバコロールの町だ。火山の近くから海岸まで、泥流原は幅数キロ、長さ数十キロにわたって続いているようだった。
 スービックに向かう国道は、泥流原の真ん中で途切れていた。九一年の噴火の直後、泥流に埋まった国道は、その後いったん復旧したものの、次の雨期には新たな泥流で再び埋まってしまった。以来、毎年のように不通と復旧を繰り返している。土手を盛って上に道を通し、泥流に埋まらないように工事をしたが、今年も二週間ほど前に押し寄せた泥流で土手ごと流された。
 泥流は小川の流れを変えてしまっていた。グーグー川という名前のこの川は、以前は泥流原の東側を流れていたが、今は泥流原の真ん中を幅三〇〇メートルほどに広がって流れ、国道の土手を突き破っている。ブルドーザーなどが持ち込まれ、百人ほどの作業員が復旧工事を始めていたが、川の流れを元に戻さない限り国道の復旧は無理だろう。いずれ以前の流れに戻す計画らしく、水が流れていない元の川床の両側には新しい堤防が作られていた。
 国道を分断した川の流れの中を、たくさんの人々が行列を作って渡っていた。皆、マニラの方向から荷物を持って歩いて来て、国道が途切れる場所で靴を脱いで川に入り、向こう岸まで徒渉していく。一人の若者に尋ねると「マニラで働いているが、日曜日なのでこの先の故郷に日帰りするところです」と教えてくれた。マニラからバスで来てこの区間だけ歩き、向こう側でもバスがお客を待っているのだという。毎年の災害で慣れているらしく、人々は不安定な川の中を転びもせずに渡っていた。

 泥流で埋まった家並みの前を通ると、何軒かには人が住んでいた。埋まった家の隣にバラックを建てたり、半分まで埋まった二階に住んでいる。庭に出ている人を見かけたので話を聞いた。中年の女性とその息子らしい若者だった。「ずっとここに住んでいるのか」と尋ねると、母親の方が「避難所に住んでいたが、向こうも家が足りず、小さな掘っ建て小屋にしか住めないので、それなら自分の家の方がいいと思い、帰ってきた。大雨の時だけ避難所に戻る。農業をしていたが、田圃は埋まってしまった」と言う。
 二階の窓の下をぶち抜いて玄関口にし、部屋には固まった土砂をそのまま床にしてベッドやテーブルが置かれていた。彼女は「噴火の直後は、五年以内に泥流がおさまると学者が言っていたが、最近では二〇〇八年まで泥流は続くという予測に変わった。だから家を建て直しても無駄です。私たちには全然、未来がない」と悲しげに薄笑いを浮かべた。彼女の一家は海外出稼ぎに行ったことはないが、「このあたりには出稼ぎに行く人が結構いるので、バランガイキャプテン(集落の長)の家で聞いてみたらどうか」と教えてくれた。
 フィリピンでは、市や町の下にある集落(バランガイ)も自治組織で、その長や代表議員は選挙で選ばれる。ここはサンフェルナンド市の西隣、バカロール市のカバランチャンという集落だ。集落の長の家があるグーグー川の東側は、泥流の被害を受けていなかった。川は噴火前から、川床が周囲の平野より高い場所にある天井川だったらしく、高い堤防からは緑の木々に囲まれた家並みが見渡せた。泥流が押し寄せたとき、川の西側の堤防が決壊したので、東側は被害を受けなかったのだ。灰色と緑色。川の東西で、風景が生と死にも似たコントラストを見せていた。

 集落の長の家を訪れ、集落の代表議員の一人、ディオスダード・ダヴィドを紹介してもらった。娘たちがオーストラリアに出稼ぎに行っている人だという。堤防のすぐ近くにある彼の自宅は工事中で、ベランダのついたおしゃれな二階建てが完成しかかっている。出てきたディオスダードは「娘たちからの仕送りで、家を建て直したんだ」と恥ずかしそうに笑い、突然の訪問者を家の中に招き入れてくれた。
 五十五歳のディオスダードには八人の娘と二人の息子がいるが、そのうち娘三人と息子一人、それに奥さんもオーストラリアで働いている。三人の娘は看護婦、歯医者、会計関係の事務員、息子は自動車整備技師、奥さんは子供たちが働いている間、向こうで生まれた孫の世話をしている。家に残る子供たちのうち、近ごろ看護学校を卒業した二人の娘も、向こうに行く手続きを進めている。
 一家の豪州行きのきっかけは、二番目の娘がフィリピンで働いていたオーストラリア人と八四年に結婚し、向こうに行ったことだった。その後約十年間、仕送りで子供たちは次々と専門学校を卒業し、手に技術を持って渡航していった。最終的にはディオスダード自身も向こうに行くのかと尋ねると「私は行かない。子供たちも皆、いずれこの村に戻るつもりでいるんだ。みんな故郷が好きだからね」。子供たちが帰ってくる日に備え、家を新築しているのだという。
 彼の最大の心配は裏の堤防のことだ。「大雨が降るたびに、夜中でも近所の人と手分けして堤防の見回りをする。決壊して泥流に埋まる恐れがあるから、夜は二階で寝る。これから政府の計画が実行されると、決壊の危険がさらに高まるんだ」と言う。
 英語があまり得意でないディオスダードに代わり、同行した集落の書記、ヘラディオ・ケソンが説明を引き継いだ。「グーグー川は今、泥流原の真ん中を流れているが、政府は川の流れを元に戻そうと計画している。国道の被害を減らすためだ。スービックに進出した外国企業は、マニラに向かう国道が毎年のように不通になることに不満を持っているからね。でも流れを元に戻すと、西側は泥流で埋まって地面が高くなっているから、次に泥流が襲ってきたときは東側が決壊し、われわれの集落からサンフェルナンド市にかけての一帯が壊滅するだろう。政府はそれを知っているが、外国企業を優遇するためには、町の一つや二つ埋まってもかまわない、という考えなのだ。そんな政策には絶対に反対だ。今週末にはサンフェルナンドで反対集会を開く予定になっている」

 話を聞いていると、別の客がやってきた。元気良く入ってきたその男は開口一番、日本語で「オレはナゴヤでバラシの仕事してた。ナカムラコウギョウ、知ってるか」。日本で働いていたことのある、ロイ・コンテスで、私たちの取材を聞きつけてやってきたのだった。四十六歳のロイさんは八八年から五年間、バラシ(ビルの解体作業)をしていた。ちょうど日本でバブル経済の建設ブームが起きていた時で、この集落から五十人ほどの男たちが、建設作業員として日本に出稼ぎに行っていたという。
 「日本では一日一万五千円。キュウリョウいいだろ。オレ、カネためてジプニー(小型の乗合タクシー)五台買って、今、シャチョウだよ。アタマいいだろ」。ロイが来て、急に座が賑やかになり、雑談が始まった。みんなリラックスして屈託がない。堤防の西側の人々も、以前はこんな表情をしていたに違いない。逆にこの集落の人々も、堤防が決壊したら、西側の人々のように暗い表情で生きていかねばならない運命にある。そう考えると、人々の笑顔が貴重なものに思えてきた。

 カバランチャン集落の男たちが、避難センターに案内してくれることになった。センターには、泥流で家を埋められた二千家族が住んでいる。カバランチャンから北東に、砂糖きび畑の間のがたがた道を約二十分、自動車で走って着いたセンターは、むき出しの赤土の上に、木造の掘っ建て小屋が並んでいた。マニラのスラム街と同程度の生活水準だ。一帯はセンターの中でも最近建てられた仮設住宅で、噴火から四年以上たっても泥流の被害に遭う地域が増えているため、財政不足で木造住宅しか建てられない。センターの人口が増え続けているので、別の場所にもっと大きなセンターを作り、移住する計画だという。人々の表情は一様に暗く、生気がない。トイレは土に穴を掘って囲いを作っただけで、糞尿のにおいがあたりに漂っていた。
 センターの敷地を奥の方に行くと、ブロック造りの家が並んでいた。噴火直後に作られた地域だ。このあたりの住民は四年以上、避難所生活を続けている。センターには小学校が設けられているが、ほとんどの教室に人が住んでいた。最近の泥流で新たに家を失ったり、泥流で半分埋まった自宅にいったん帰ったものの、雨期は危険なので一時センターに戻ってきた人々だ。一つの教室に数家族が住んでいる。阪神大震災直後の神戸の避難所と同じ雰囲気だ。
 ある教室の一角に、避難している人々の住民自治会の事務局があった。海外出稼ぎの経験者に話を聞きたいと申し出ると、事務局の女性が「この部屋の住人にもいますよ」と言って一人の男性を紹介した。三十三歳のヴィクトリーノ・マナランで、グーグー川の西側に住んでいた。彼は八二年から八九年までサウジアラビアで建築作業員をした後、帰国して家を新築したが、噴火直後の泥流で家を埋められた。財産を失ったので、同じ町の五十人の男性とともに今度はグアム島に渡り、九三年まで二年間、再び建築の仕事をした。「お金を稼いでも毎年泥流が来るので、多分もう、家を建て直すことはできないだろう」と弱々しく言う。
 話を聞いているうちに、取材のことを聞きつけて人が集まってきた。ヴィクトリーノの話を聞き終えると、近くにいた別の男性が「私もインタビューしてください」と申し出た。三十八歳のロナルド・パシオンで、八二年から九三年までサウジで電気工事技師をしていた。「泥流で故郷が埋まったことはサウジにいるとき、新聞で知った。いてもたってもいられなかったが、飛行機代が高いので契約期間が終わるまで帰国できなかった。仕送りで寝室が四つある家を建てたが、自分で見ることができた時には、二階まで埋まっていた。節約して働いて、お金を貯めて、貯めて、その挙げ句の果てがこれですよ。でも、悲しんでいても仕方がない。人生やり直しです。また海外で働きたい」。
 彼の話がすむと、今度は中年の女性が「私は中東のオマーンでメードをしていました。私もあなたのノートに名前を登録していいですか」と言ってきた。私は取材する時に、まず相手の名前と年齢を取材ノートに書き込んでもらっていた。最初に「インタビューしたい」と言ったのが、取材ではなく、出稼ぎの募集のための面接だと思われたらしい。ノートに名前を書けば、応募したことになると勘違いされたようだ。いつの間にか集まっている人が増え、行列の形をとり始めていた。「私は求人業者ではありません。ジャーナリストです」と言うと、皆がっかりした表情になった。

 泥流に埋まったバコロールから北へ二〇キロ行くと、再開発計画が進むクラーク米軍基地の跡地だ。近くまで来たついでに寄っていくことにした。かつての基地のゲートの傍らには、高さ二〇メートルはありそうな国旗掲揚台があり、巨大なフィリピンの旗が翻っている。かつては星条旗がはためいていたのだろう。基地の敷地のすぐ外の駐車場には、古いジプニー(小型の乗合タクシー)が百台近く、捨てられたように並んでいた。以前は非番のアメリカ兵たちが、ここから次々とジプニーをチャーターしてアンヘレスの歓楽街に繰り出したのだろう。今も乗り場は残っているが、お客はおらず、数人の運転手が暇つぶしにお喋りしていた。
 基地の中を車で一回りしたが、再開発らしきものは工事中のホテルだけ。こんな場所に建ててどうするのだろうか。再開発計画を進める事務所を探し当てるまでに三十分以上かかった。事務所は滑走路脇にあり、噴火の際の地震でひしゃげた格納庫が建ち並ぶ一角の、目だたない平屋のプレハブだった。
 訪ねると背広を着こなした若い担当者が出てきた。ティンキー・ルクバンといい、マニラの空港公団から派遣された新空港プロジェクトの主任だった。若きエリートだ。取材は大歓迎だという。「あなたがこの計画を日本で紹介して、日本から資本が入れば、こんな嬉しいことはありません」。
 クラーク国際空港計画は、今のマニラ国際空港が手狭になってきたため、三五〇〇メートル級滑走路を二本持つクラーク基地を新しい国際空港に作りかえる計画で、九八年に建設開始予定だ。年間五百万人が利用できる巨大なターミナルを作るとともに、今は放棄されているマニラに向かう鉄道線路の敷地を利用して、時速一六〇キロを出せる高速鉄道を建設し、マニラ・クラーク間八〇キロを四十五分で結ぶ計画である。
 空港の周囲の基地敷地内には、ハイテク工業団地、国際会議場、ゴルフ場、ホテルなどを配置する予定で、すでにゴルフ場は営業を始めている。基地内は法人税などが減免される特別な地域に指定されている。滑走路はすでにチャーター機の発着ができるので、台湾や香港からゴルフをしにくる企業経営者が増えているという。「香港が中国に返還された後の、東アジアのハブ(中核)空港になる計画です」と、ルクバンはカラー印刷した完成予想図を見せながら説明してくれた。
 壮大な計画だが、避難センターの悲惨な人々を見てきた目には、非現実的なちぐはぐさを感じてしまう。しかもアジアのハブ空港には、日本の関西新空港や香港に建設中の新空港のほか、シンガポール、ソウルなどがすでに名乗りを上げている。すぐ近くのスービック米海軍基地の跡地でも、基地の滑走路を利用した貨物ハブ空港計画が進んでおり、ハブ空港をめぐる競争は激しい。
 新空港が完成するころには、カバランチャン集落はとっくに泥流原と化し、賑やかに話していた村人たちは避難センターで暗い表情をして生きているのではないか。糞尿のにおいがする避難センターの近くを、ぴかぴかの電車が時速一六〇キロで走り抜ける光景を思い浮かべた。

▽日本をめざす女性たち

 壁が鏡張りになっている二十畳ほどの広さの板の間の練習室に、レオタード姿の若い女性たちが等間隔で数人立っている。彼女たちは横に置いた腰の高さほどの木のてすりに手をかけて、音楽が始まるのを待ってポーズをとっている。前に立つレオタード姿の若い男性の先生がラジカセのボタンを押すと、音楽が始まった。ピアノ演奏のワルツだ。
 音楽にかぶさってフランス語のアナウンスが「バレエの基本形、用意」と言った後、「アン、ドゥ、トロワ、アン、ドゥ、トロワ」とリズムをとり始めた。女の子たちは音楽に合わせてつま先を立て、手を前に出してゆっくりと踊り出す。しかし、どうもぎこちない。習ったはずの動作の順番を忘れ、照れ笑いしてしまう子もいる。先生が「指の先をしっかり伸ばして」などと言って指導している。一瞬、ヨーロッパの田舎町のバレエ教室にいるような気になった。
 だが、ここはマニラ。カイビガンのメード講習会場の近くのビルの五階だ。ここは日本で働くことを目指す女性たちのレッスン教室である。現在、フィリピン人が日本で合法的に働くためのほとんど唯一の方法は、ダンサーや歌手として入国を認める芸能ビザをとることだ。ビザをとるためには、フィリピン政府が実施するクラシックバレエや歌の実技試験と、日本の歴史や文化、制度、日本語についての筆記試験に合格し、芸能人手帳というのをもらわねばならない。それがないと日本大使館がビザを発給しない。マニラには、芸能人手帳の試験に備えるための教室がいくつもあり、この教室もその一つというわけだ。
 三十分ほどでレッスンがひと区切りして休憩になったので、生徒の一人に話しかけた。シェリーという名前の二十四歳の女の子で、スペイン系の血が混じっているためか、目鼻が通った色白の美人だ。まだ幼さが顔に残っていて、高校生ぐらいに見える。
 彼女はすでに一度日本に行き、岡山のフィリピンパブでホステスとして働いていた。芸能人ビザは六カ月までの日本滞在しか認められないので、期間が過ぎたら再びフィリピンに帰国してビザを取り直さねばならない。彼女はビザの期限が切れたので、次回も同じ店で働くことを雇用主に内定してもらい、いったん帰国した。だが、帰ってみると芸能人手帳の試験が難しくなっていて、バレエ実技で良い点がとれずに落ちてしまった。「バレエやダンスが上手でも、日本のホステスの仕事には関係ない。政府はそれを知りながら試験を難しくした」と不満な顔だ。
 フィリピン政府が芸能人手帳の試験を難しくしたのは九五年四月。バーやクラブで働くフィリピン人女性の多くが、日本の暴力団に給料を給料をピンはねされたり、売春を強要されたりする実態がフィリピンのマスコミで問題にされ出したため、女性たちをなるべく日本に行かせないように実施したとされている。
 女性たちの渡日を手引きして働かせ、金を稼ぐことが暴力団の資金源の一つになっているため、それを断ちたいという日本政府の思惑とも重なっているらしい。そういえば芸能人手帳の筆記試験には日本の歴史や制度についての問題が多く、何だか日本の法務省の、受験を得意としてきた東大卒の官僚が考えそうなテストだ。
 フィリピン政府は試験を難しくするとともに、年齢制限も強化した。それまでは十代の女の子でも、年齢をごまかして日本に行けたのだが、今では二十歳以上でないと行けなくなった、とされている。断定的に書けないのは、シェリーを含めこの教室の生徒の中にも、どうも十代としか見えないあどけない顔の女の子が何人かいて、今でも二十歳以下の人がいるようにも思えるからだ。彼女たちは皆、二十代だと言っており、フィリピン人は年齢より若く見えるだけなのかも知れないが。
 前回、シェリーが働いたときの月の平均収入は七万円ほど。お客さんから指名がかかり、隣に座って相手をすると一回につき五百円入る。指名は一晩に五回から十回ほど。そこから食費や寮の滞在費を引くと、月に七万円ほどになったという。
 「でも次に行ったらなじみのお客さんがたくさんいるから、もっと収入は増える。日本で働くのが五回目の子がお店にいたが、日本の男の気持ちをつかんでいるからお客さんへの対応が上手で、指名がたくさんかって月に二十万円以上稼いでいた」。月給二十万円は日本人にとっては大した額ではないかも知れないが、フィリピンに送金して家族が使うとなると価値が膨らむ。ホステスの仕事は楽ではないだろうが、それでも日本で働きたいと思う裏には、日本で働く回数が増えるにつれて収入が上がる状況がある。この教室にはときどき日本から芸能プロダクションの人がきて、就職を斡旋してくれるという。
 シェリーの悩みはバレエがなかなかうまくならないことだ。この教室の先生は「バレエは体が固くなる前の幼児期に始めるのが望ましい。それを二十歳代の彼女たちが身につけようとしているのだから大変です」と言う。

 日本に出稼ぎに行っているフィリピン人は違法滞在者を合わせて十万人程度いると推定されているが、ほとんどはバーやクラブでホステスとして働いている「じゃぱゆきさん」と呼ばれる若い女性たちだ。
 日本で働くフィリピン人の起源は、戦後の進駐軍とともにやってきたバンドマンやダンサーだった。彼らは日本政府から芸能ビザをもらい、終戦直後は米兵相手のダンスホールやライブハウスで働き、その後は日本人向けの店やホテルでも演奏や踊りを披露するようになった。
 「じゃぱゆきさん」が多くなったのは八〇年代に入ってからだ。日本が経済成長を遂げ、ホステスを安い給料で雇えなくなったため、代わりにダンサーや歌手の名目で日本にきたフィリピン人たちがホステスとして働くようになった。

 芸能人手帳の試験が難しくなってから、合格率がぐんと下がり、そのあおりでこの教室の生徒も激減した。「以前は百人以上の生徒がいたが、今では二十人ほどに減ってしまった」。隅のベンチでレッスンを見ていた男のマネージャー、ルディが教えてくれた。
 彼はいかつい顔をしているが、どうやら女性らしく振る舞おうとするオカマらしい。考えごとをするとき、指をまっすぐに立てて頬に当てるなど、仕草が女性的だ。「三年ほど前までは私もバレエの先生をしていたが、太ってしまったのでもうだめです」と言って、手を上に挙げてバレエのポーズを作った。この教室には、女の子見たさに案内してくれたカイビガンのスタッフと一緒に来たが、後で彼に尋ねると「彼はオカマだ。フィリピンでは、ダンスの先生やテレビ業界にオカマが多い」と言っていた。
 この教室の経営も、あまりうまくいってないらしい。教室を三回訪れたが、うち二回は生徒が誰もおらず、休業状態だった。経営状況を聞きたくて外出中の社長の帰りを待ったが、しばらくして帰ってきた社長は、私たちの顔を見ると困ったような顔をした。社長は「向こうの練習室で待っていてくれ」と言って私たちを部屋から追い出し、事務所のドアを閉めてしまった。練習室のベンチで待つこと約二十分、出てきた社長は「急ぎの用事があるから行かなければならない」と言い残し、そそくさと再び外出してしまった。取材されたくないという感じだった。

(まだ続く)


◎その二、ブルネイ

 そろそろ陸地が見えてくるころだと思い、飛行機の小さな窓に顔を押しつけ、外の暗闇に目を凝らしたが、下界は黒ぐろとした雲の重なりにおおわれて見えなかった。雲をじっと見ていると、飛行機の移動にあわせて、その重なり方も変化していく。下はボルネオ島のジャングルだから、人家の明かりは見えないかも知れない。
 そう思いながら見ていると、一瞬、雲が白くなり、また黒くなった。雲の下に光るものがあるのだ。何だろうと思っていると雲が切れ、雲間にディズニーランドの建物のような輝く宮殿が見えた。サーチライトで照らし出された、金色のドームを持つモスク(イスラム寺院)だ。ブルネイの首都、バンダルスリブガワンに着いたのだった。
 金色のモスクは、スルタン(イスラム教国の王)が自らの名前をつけた自慢のハッサン・ボルキアモスクに違いない。イスラム教の禁酒の規則を守り、機内サービスに酒類が一切ないブルネイ航空機は、敬意を表するようにモスクの上空をゆっくりと旋回しながら下降している。
 すでに夜の十一時を過ぎており、モスクだけが闇に浮かび、まわりは暗かった。周囲には規則正しく青白い街灯が並び、整然と都市計画された住宅街が広がっている。モスクの脇を通って縦横に走っている通りは広いが、車の通行はまばらだ。東南アジアの他国の首都の、下界に降りていくのがためらわれるような雑踏とは無縁の光景だった。
 深夜に輝くモスクは、初めて訪れる外国人に、オイルマネーで潤うブルネイの豊かさを見せつけようとする意図があるように見えたが、強く感じたのは豊かさよりもむしろ、ジャングルばかりのボルネオ島の片隅にこんな町があることの不思議さだった。

 空港から町の中心へ行く途中、深夜のタクシーでモスクの脇を通った。運転手にモスクの名前を尋ねると、異教徒には教えたくない、といったぶっきらぼうな言い方で教えてくれた。二時間前まで滞在していたマニラの、調子がよくて抜け目がないタクシー運転手とはえらい違いだ。マニラやバンコクでは怪しげな連中が近寄ってくる空港の出口も、この国では客引きが全くおらず、タクシーも探さないと見つからなかった。フィリピンやタイに比べ、あまり苦労せずに金を稼げる国であるらしい。タクシー料金も日本ほどではないが、周辺国の水準よりはるかに高い。オイルマネーの影響で物価も高いのだ。
 翌日、モスクを訪ねた。夜は金色が強調されていたが、昼の光の中では、ドームの金色とその他の部分の黒色がゴージャスなコントラストになっていた。このモスクは新市街にあって、先代のスルタンが旧市街に作ったオマールモスクが白色を基調にしているのと対照をなしている。
 大理石が敷かれた内部に入ると事務員に呼び止められ、備え付けの黒いガウンを着るように言われた。異教徒をモスクに入れるときの決まりだという。事務の青年が案内してくれた内部は、ホテルのロビーのようだ。高い天井には大きなシャンデリア、階段の手すりはイタリア製の大理石。イスラム教では礼拝の前には手足を洗うが、洗い場は手足をかざすだけで水が出る自動式だ。中央入り口にはスルタン専用のエレベーターもあった。巨大な礼拝場は冷房ががんがんに効き、刺繍の入った新品の絨毯が敷き詰められている。
 豪華さに目を見張ったが、不思議なことに信者の姿をほとんど見かけない。人が集まっているところを見たくて、午後三時過ぎの礼拝の時間に合わせて訪問したにもかかわらず、だ。通訳の青年に尋ねると「金曜日には礼拝場に入れきれないほど人がくる」ということだった。金曜日には異教徒はモスクに入れないが、気になったので金曜日の午後にモスクの門前まで行ってみると、確かに普段よりは人が多かったが、コーランの詠唱が流れる礼拝の時間になっても、訪れる人は意外に少なかった。「敬けんなイスラム教徒の国」とされているが、現実は違うのかも知れない。
 ちなみに後日、東京で中東のイスラム諸国の駐日大使館に勤める数人の若い外交官たちと知り合ったが、彼らイスラム教徒のうち、酒を飲まないのは一人だけだった。イスラム教というと厳格な宗教というイメージがあるが、実際はキリスト教や仏教と同様、戒律を守るかどうかは個人の心の問題のようだ。

 モスクを案内した青年はフィリピン人だった。イスラム教徒が多い南部のミンダナオ島の出身。「フィリピンはカトリックの政府でイスラム教徒には仕事をくれないから、出稼ぎに行かざるを得ない」と言う。モスクの雑用にはイスラム教徒のフィリピン人やインドネシア人が多く担当しており、彼の主な仕事は掃除だ。
 後日聞いた話では、このモスクを建設したのは韓国の建設会社で、日本企業などと競った結果、工事を受注したという。ブルネイでは大型工事のほとんどが外国企業によって施工されている。技術者は日本や韓国、欧米から、肉体労働者はタイやフィリピン、マレーシア、インドネシアから来る。作るのも維持するのも外国人で、ブルネイ人は使うだけ、というこのモスクの現状は、ブルネイの社会構造を象徴しているようだ。

 ブルネイはボルネオ島の北西海岸にあり、国土の八割をジャングルにおおわれた千葉県ほどの広さ。シンガポールのような都市国家ならまだしも、こんなジャングルばかりの場所にあるにしてはあまりに小さな国だ。しかも三方をぐるりとマレーシアに囲まれている。マレーシアもブルネイも、かつてはイギリスの植民地(正確にはブルネイはイギリスの保護領)だった。なぜここだけマレーシアの一部にならず、独立した別の国になったのだろうか。ブルネイの歴史を調べると、意外なことに昔は大きな国だったが、世界史の大きな流れに翻弄されて、今の姿になったことが分かった。
 ブルネイが国家としての形を整えたのは十四世紀のこと。中国とインド、アラビアを結ぶ海上の貿易ルートがこのあたりを通っていたため、風待ちの寄港地として栄え始めた。ブルネイは湾の奥にあり、船の停泊に適した場所だった。加えてボルネオ島は樟脳(タンスの中に入れる防虫剤)や材木の産地でもあり、ブルネイ国王は豊かな資産を持つようになった。現在まで続くブルネイ王室は、日本の天皇に続き世界で二番目に長い歴史を持つ王室である。
 十五世紀には国王がイスラム教徒になった。アラビア商人は商品だけでなく宗教も運んできた。国王が改宗したきっかけは、イスラム商人の貿易港だったマラッカ(マレーシアの西海岸、シンガポールの近く)に住むイスラム教徒の貴族の娘と結婚したからだった。イスラム教徒は異教徒とは結婚できない決まりになっており、イスラム教徒の女性と結婚するには国王といえどもイスラム教徒になる必要があった。イスラム教徒になったことで国王はスルタン(イスラム教国の王)と呼ばれるようになった。ちなみに、イスラム教徒と結婚する異教徒はイスラムに改宗しなければならないという決まりは、今も世界中で厳格に守られている。
 スルタンは間もなく、王族の間だけで信仰していたイスラム教を、国民の間にも広めることによって、スルタンに対する国民の忠誠心を生み出し、強い国家を作ることができることに気づいた。フィリピンからインドネシアにかけて住んでいる海洋民族の社会には、もともと強い中央集権国家を作る風土がなかった。水辺に小さな村が点在し、それぞれが交易などでゆるやかに結びついているだけの社会だったらしい。海を自由に移動し、海産物を採って暮らす人々には、大きな国家など必要なかったのである。
 イスラム教は統治の道具として便利だ。お寺や教会といった宗教の中心が政治権力から独立し、宗教の対象が個人生活のあるべき姿や人生哲学に限定されている仏教やキリスト教と違い、イスラム教では教えの中に政治や経済の法律が含まれている。「目には目を」の刑法や「利子を取ってはならない」とするイスラム金融制度がその代表だ。国民がイスラム教徒になれば、自然とイスラム法に基づく国家運営ができるようになる。ブルネイは十五世紀後半にイスラム国家となり、イスラム教を周辺地域の人々に布教していくことにより、国家の領土も広がっていった。
 ブルネイの領土としての最盛期は十六世紀で、ボルネオ島全域と、その北にある現在のフィリピン南部、ミンダナオ島までの広い国土を持っていた。一時はマニラ周辺からも貢ぎ物が届けられた。当時、ボルネオ島からフィリピンにかけては他に大きな国がなかったので、大きな戦いもなく領土を広げられたのだった。
 そのころはちょうど、ポルトガルとスペインが世界各地を次々と植民地にしていった時期でもあった。十六世紀初め、ブルネイをしのぐ貿易港だったマラッカが、ポルトガルとの戦いに負け、植民地になってしまった。マラッカに住んでいたマレー人やアラビア人の商人たちがブルネイに引っ越してきたため、貿易港としてのブルネイの重要さが増した。ポルトガルはブルネイと友好関係を結んだので、香辛料の世界的な生産地だったモルッカ諸島(今はインドネシア領)で採れたコショウを積んだ船が、ブルネイに寄港した後、マラッカ、インド、アフリカを回ってヨーロッパまで航海した。ブルネイから中国のマカオに行く貿易航路もでき、十六世紀中ごろに日本に初めて届けられた鉄砲も、ポルトガルからブルネイを通るルートで運ばれたのだろう。
 ポルトガルとの友好関係と異なり、フィリピンを植民地にしたスペインとは、フィリピンの領有をめぐり激しく対立した。スペインとの戦いは最初、かろうじてブルネイが勝ったものの、その後間もなくスペインはポルトガルを併合した。ブルネイは友好関係にあった後ろ盾を失い、十七世紀にかけて何度もスペインに攻められて町を燃やされた。それまでおとなしくしていた海賊も領海をばっこし始め、貿易船が近寄らなくなって港もさびれた。貿易が減って財政が苦しくなったスルタンは国民からの税金を増やして反発をかい、あちこちで反乱が起きた。王族どうしの内紛も始まり、ブルネイは長い没落の時代に入っていった。十八世紀末には、スルタンが実際に統治している地域はブルネイ市街の周辺だけとなり、今のブルネイ領土とほぼ同じ広さになっていた。
 十九世紀中ごろ、南部のサラワク州で起きた反乱の鎮圧に失敗して困っていたスルタンのところに、一人のイギリス人冒険家がやってきた。ジェームス・ブルックというその男はスルタンの依頼を受け、船でサラワクに乗り込んで反乱を鎮圧。見返りに自分をサラワクの領主にするようスルタンに求め、受け入れられた。江戸時代の日本にきたヨーロッパ人が大名になるような話である。ブルックはその後、サラワクの領有権をイギリス女王に献上した。
 ブルックは陰謀家だった。ブルネイの王族の一部と親しくなり、スルタンを倒すクーデターを起こすことを持ちかけた。クーデター計画はスルタン側に漏れ、ブルック派の王族は処刑され、スルタンはブルックに立ち向かってきた。だが軍事力ではブルックの方が強い。ブルックは首都の町を焼き討ちし、スルタンはイギリス女王に忠誠を誓うことを条件に追放を逃れた。こうしてブルネイは十九世紀半ばにイギリスの保護領となり、宗教行事以外の全ての行政をイギリス人が行うようになった。イギリスがスルタンを退位させて完全な植民地にしなかったのは、ブルネイ人のイギリスへの反感が強まらないように考えての方策だった。
 ミンダナオ島とその西のスル諸島では、ブルネイ王に服従していた領主が十七世紀後半にスル王国として独立、その後スル国王はボルネオ島北部のサバ州で増税に反対して起きた反乱を鎮圧した見返りに、サバ州をスルに割譲させた。サバは今、マレーシア領だが、フィリピンは当時の経緯から、サバはフィリピン領だと今も主張している。
 その後スル王国はフィリピン全土を支配しようとしたスペインに攻撃されて弱くなったため、ブルックはサバ州の領有も狙っていた。ブルックに破れる前、スルタンはイギリスに全ての領土を取られることを恐れ、サバ州の運営をアメリカ人の事業家に任せたがうまくいかず、結局ここもイギリスの植民地となった。
 一九二六年、ブルネイで油田が発見された。第二次大戦中の一九四二年から四五年には石油目当てに日本軍がブルネイを占領、ブルネイ湾にはマレー半島やジャワ島に出撃途中の大型戦艦が並んだ。戦後、ブルネイを日本から取り返したイギリスは、ブルネイや周辺のイギリス植民地を全て統合してマレー連邦を作り、独立させる計画を進めた。だが連邦に加盟すると、ブルネイの財政源の大半を占める石油の売上金が連邦政府のものになってしまう計画だったためスルタンは反発し、加盟しなかった。マレー連邦は一九六三年にマレーシアとして独立したが、ブルネイはイギリス保護領のままとなった。
 七〇年代に入ると、イギリスは植民地政策に反対する世論が高まったため、スルタンに独立を持ちかけた。スルタンは、独立すると近隣のマレーシアとインドネシアからの干渉が強まると考え、当初は独立に消極的だったとされている。結局イギリスの取り計らいで近隣の二国がブルネイの独立を尊重すると宣言し、ブルネイは一九八四年に独立した。

▽水上集落の暮らし

 ブルネイの首都、バンダルスリブガワンは人口約十万人ほどの小さな町だ。町の名前はもともと「ブルネイ市」だったが、一九七〇年、先代のスルタンの退位後の呼称「スリ・ブガワン」(在位中の名前は「スルタンオマール」)に「港町」という意味のマレー語「バンダル」をつけた今の名前に変えられた。
 この町は雰囲気が全く違う三つの地域から成っている。一つ目の地域は世界最大の広さを持つ水上集落。バンダルスリブガワンはブルネイ川の河口近くにあるが、両岸に近い川面に無数の支柱を立て、水面から二メートルほどの高さに家や通路が長さ数キロにわたって続いている。今は丘の上の宮殿に住んでいるスルタン一族も、昔は水上集落に住んでいた。ブルネイだけでなく、ボルネオ島やミンダナオ島の海洋民の多くが今も水上集落に住んでいる。
 二つ目の地域はダウンタウン(旧市街)で、保護領となってイギリス人が住み始めてから、水上集落の一部を取り壊し、水面を埋め立てて作られた、縦横それぞれ五百メートルほどの狭い川沿いの場所。中国系の人々が経営する商店が並んでいる。
 三つ目の地域は新市街で、独立後に豊かな国家財政を使って作られた広々とした街だ。自動車がないと移動できない。最近になってマイクロバスを使った乗合バスが運行を始めたが、これはフィリピンやマレーシアなど、近隣諸国から出稼ぎにきた貧しい人たちの乗り物で、ブルネイ人は使わないのだという。

(まだ続く)

◎インドネシア

▽裸の男たちが撮影料を要求
 山道を下っていると、真っ黒い肌をした中年の男が三人、こっちへ向かって上ってきた。三人とも服は全く着ていないが、代わりにいくつかの装飾品を身にまとっている。下腹のあたりには、竹筒のような材質でできた長さ三十センチほどの細長いペニスサック。頭には、ヘアバンドに白い鳥の羽を刺した飾り。胸には、白い小さな巻き貝をびっしりと糸でつなぎ、帯にして首から下げたネクタイの一種。三人とも、ほぼ同じ装飾品をつけていた。
 隣にいた同行の柿木さんがカメラを構えると、それを遠くから目ざとく見つけた一人が「一人千ルピア(約五十円)ずつだぞ」と大声で言った。撮影料を要求しているのだ。前を歩いていた通訳のフランキーが「五百ルピアが相場ですよ」とやり返したが、「ダメだ。千ルピアずつくれなきゃ撮らせない」とまけない。結局、言い値を払うことにしたが、フランキーは「二年前までは百ルピアだったのに、今では五百ルピアでも満足しない人が増えているんですよ」とこぼした。

▽隔絶された盆地
 ここは、インドネシアの東の端、赤道直下のニューギニア島、イリアンジャヤ州の山中にあるバリエム盆地というところ。オーストロネシア系の三つの種族が住んでいて、三人の男はその中の一つ、ダニ族だ。彼らが話すのはダニ語で、インドネシア語とは全く違う体系の言葉。通訳のフランキーはラニ族だが、ダニ語、インドネシア語、英語ができ、男たちの言葉をややたどたどしい英語に通訳してくれる。毎日、外国人観光客と接している二十四歳の彼は、TシャツにGパンというスタイルだ。
 盆地の人々の多くは現在でも、石器時代とほとんど同じ生活をしている。今でも服を全く着ない人が多いばかりでなく、ナイフや鍬など、金属の道具も最近まで全く持っていなかった。それはこのバリエム盆地が、外の世界と隔絶した地理条件にあるためだった。ここはニューギニア島の中央部にあり、周囲は四千メートル級の山々に囲まれている。それを越えた広大な平原はマラリア蚊がいる熱帯のジャングルで、今も道路がほとんどない。盆地には約二十万人が住んでいるが、一九三八年にアメリカ人探検家が欧米人として初めてこの地を訪れるまで、この盆地の存在が世界に知られることはなかった。

▽むき出しの「象徴」
 彼らの社会では最近まで、貝殻がお金として使われていた。貝でできたネクタイは富の象徴で、それをつけるのは、村のリーダー格の男たちが正装するときだけだ。撮影料を要求した三人は、そこそこ地位の高い人々であるようだ。千ルピア札を渡しながらフランキーが尋ねると、三人とも盆地北部の村の人々で、近くの村の葬式に参列しに行くところだという。
 私たちが彼らに会ったのは盆地の南端の村だった。男たちは盆地の中心地ワメナの近くの村から、ベモと呼ばれる約十人乗りの小型乗合バスに乗り、終点から山道を上がってきた。
 「ベモに乗ると、ペニスサックのひもが切れて困る」と中の一人が言う。サックはペニスに差しただけでは不安定なので、ダニ族の場合、先端部分に糸をつけ、それを胴に回し、サックを糸で斜めに吊るす状態にしている。ベモに乗ると振動が激しく、隣の人とぶつかったりして、糸が切れやすいのだという。糸が切れたら、サックをつかんでいないとフルチン状態になってしまうから大変だ。
 ペニスサックをわざわざ糸で吊るのは、大きなペニスを持っているかのように見せるための伝統だろう。盆地に住むもう一つの種族、ラニ族は、ペニスサックを赤い布で腹に巻き付けて固定しているので、はずれにくい。彼らの場合も布が赤いのは、男性の象徴を際立たせるために違いない。現代社会では奥にしまい込まれているものが、ここではむき出しになっているのだ。
 ちなみに女性も、下半身には藁のような植物繊維で作られた腰巻きをつけているが、上半身は裸で胸をさらけ出している人が多い。ただし、信者に服を着るように求めるキリスト教の布教が進み、インドネシア政府が推進する近代化教育の影響もあるため、男女とも三十歳代までの大半は、Tシャツにズボンやスカートという格好をしている。

 盆地は赤道直下にあるが、標高は約千七百メートルで、一年を通じて気温は二〇度前後と過ごしやすい。まさに桃源郷のような場所なのだが、お金に対する彼らの赤裸々な姿勢は、ペニスサックの件と同様に、外部者のロマンチックな幻想を吹き飛ばす。
 三人の男だけでなく、ここでは外国人に写真を撮られた原住民たちは老若男女を問わず、ほぼ必ず撮影料を要求する。男女がかたまって歩いているところを撮ったら、男が千ルピアで女は五百ルピア、と言われたこともあった。
 この盆地には数年前から、欧米や日本の旅行者が訪れるようになった。世界でも数少ない、石器時代さながらの生活をしている珍しい原住民の姿を見られる場所だからだ。盆地周辺を含むイリアンジャヤ州の全土では、インドネシアの統治に反対する人々が長らくゲリラ活動をしていたため、それまでは外国人の自由な立ち入りが禁じられていた。今では撮影料も先進国の物価水準にまではね上がった。私たちも、この盆地の人々の生活ぶりを取材しようとやってきた、半分旅行者のような存在だ。
 インドネシアの首都、ジャカルタから十時間以上飛行機に乗ってイリアンジャヤ州の州都ジャヤプラまで行き、そこで小さなプロペラ機に乗り換えてワメナまで約一時間。不便なようにも感じられるが、外部と隔絶されていた盆地が急に世界と飛行機でつながってしまったのだから、盆地の人々にとっては想像を絶する変化であるに違いない。アメリカとジャカルタを結ぶ国際線が、ジャヤプラの近くのビアクという街に寄港することも、観光客が増えた一因だった。
 平屋建ての小さな飛行場ターミナルの前や、観光客が必ず立ち寄るワメナの公設市場の前には、何人かの裸の男たちが立っている。観光客がパチリとやると、笑顔で近づいてきて握手を求め、撮影料を要求し、唇に指をあててたばこもねだる。彼らの姿を見ていて、東南アジアの大都市に立っている売春婦と同じだな、と思った。彼らもまた、自分の身体と尊厳を売って、金を稼いでいるのだ。
 山道で男たちとすれ違ったら、大体握手を求めてくる。そしてたばこの要求。観光客はたばこをくれる存在ということで定着しているようで、私たちもフランキーにすすめられ、いつも何箱かの安いたばこを市場で買って持っていた。

(まだ続く)

(マレーシア、タイの部分は全く未完成)

ホームページに戻る