中国・トウ小平氏死去の読み方

1997年2月20日

 トウ小平氏が死去した。1997年2月20日の英字新聞各紙は、いずれも大きな紙面を割いて、トウ氏が中国を貧困から経済急成長へと転換させた功績と、1989年の天安門事件を引き起こした失敗について論じている。たとえば、ウォールストリート・ジャーナルのアジア版では、論評のページで、トウ氏はもともと、経済改革だけでなく、政治改革も進めたかったのだが、政治については実現することができなかった、と分析している。

 トウ氏の死去が現実となった今、次の関心事は、今後、中国の歴史の流れがどうなっていくかということだろう。文化大革命の後半期、周恩来氏が亡くなったときは、その死をきっかけに、第一次天安門事件と呼ばれる事件が起きた。のちの中国民主化運動の源流ともいえる動きで、その後の毛沢東氏死去と連なって、文化大革命から、180度転換した今の社会主義市場経済につながる遠因となった。

 周恩来氏の死去は、中国の人々に、社会の矛盾が高まっていることの象徴として受け止められた。人々が4000年の歴史を自覚する中国では、歴史の大きな流れがいつも意識される。知識としての歴史というより、民族の血を流れる歴史観とでもいう感じのものだ。

 (除夜の鐘とともに前年のことを忘れる習慣を持つ日本人とは、かなり違う。むしろ中国人は、モーゼの十戒とともに今も生きるユダヤ人や、今も1400年前の書物を使っての世界運営を試みるイスラム教徒と似ている)

 周恩来氏の死去は、中国の歴史が転換期に入ったことを、人々に察知させるものだった。中国は「人治」の国といわれるが、政治の中で最も重要なことは「天」が決めるとされてきた。次の王朝の支配者が誰になるか、とか、その王朝がいつ潰れるのか、といったことは天が決める。そして、人の「死」、特に権力者の死こそ、天の専管決定事項であり、人々はそのことによって、天の意志を知ろうとした。

 今は、文革末期のような、不安定な時代ではない。中国は、まさにトウ氏によって、すでに社会主義を脱出する道を、後戻りできない形で歩み始めている。だが、去年は中国では地震が多かった。洪水も頻発した。いずれも、中国の、特に農村部の人々の目には、王朝末期に特有の天変地異現象として映っている。

 そして、その同じ目に、トウ氏の死去はどう映るだろうか。それが単に「迷信」として片づけられないところに、中国社会の特性があるように思う。地方では、共産党の幹部でさえ、仏教や新興宗教のお寺に熱心に通っているのである。(神様への主な頼みごとは金儲けなのだろうが)

 具体的にまずおきそうなのは、中国の権力中枢での闘争が、表面化していくということだ。トウ氏の後継者となった江沢民氏は、トウ氏の強い後押しがあってこそ、その正当性を主張できた。就任当初に比べ、江沢民氏の権限基盤はかなり強くなっているようだが、それでもまだ、江沢民氏に挑戦してくる勢力は多いに違いない。

 軍と文官の対立、上海系人脈が握る中央と、広東省など地方との対立、経済開放派と「鳥かご経済主義」の保守派との対立、高成長に湧く沿海部と、立ち後れている内陸部の対立など、すでに構図は描かれている。

 1994年にトウ氏が公の席に姿を見せなくなって以来、何回もトウ氏の健康が悪化したとの情報が飛び交ったこと自体、権力闘争が起きていたしるしである。香港では「トウ氏は1年に10回死ぬ」と言われてきた。それほど、偽の情報が多かった。昨年後半に危篤情報が流れたときは、「中国の中枢の権力闘争で敗れ、汚職容疑で首脳が逮捕された北京市当局の筋が、撹乱のためにトウ氏危篤の情報を流した」などと言われていた。

 歴史的に中国は、皇帝という一人による独裁の国である。秦の始皇帝から、孫文、毛沢東に至るまで、トップは常に一人だけだった。そして「皇帝」たちは自らの絶対権力を、死ぬまで手放そうとはしなかった。

 トウ氏は、そうした中国の伝統的な権力構造を「封建的だ」と言い切った。冒頭で触れたウォールストリート・ジャーナルの論評は、トウ氏が1980年のスピーチで「中国では、最高指導者に就任したものは、死ぬまでその地位を手放そうとはしなかったが、われわれはそのようなシステムを変えなければならない。(共産)党と人民の生活の中から、そのような封建制をなくさねばならない」と言ったことを紹介している。

 事実、トウ氏は、1970年代に権力の頂点を極めた後、次第に権力の中枢から引退していく姿勢をとり、最後は中国ポーカー協会の名誉会長以外のポストを全て退いている。

 とはいえ、トウ氏は死去するまで、表の地位と関係なく、「最高実力者」と呼ばれ続けた。表では格好いいことを言っているが、本当はトウ氏は自ら権力に固執していたのだ、との批評もできるかもしれないが、作者はむしろ、中国という社会が、トウ氏に対してさえ、実質的な皇帝制度の廃止を許さなかったということではないか、とみている。

 そしてそれが、トウ氏が目指した政治改革の失敗を物語っており、江沢民氏ら後に残った指導者たちが、政治を近代化したくてもできないという悩みを抱え続けねばならない、という現状につながっている。4000年の伝統を持つ現在の政治構造が変わらない限り、中国は欧米流の選挙システムを導入することさえ難しいだろう。中国のような重い歴史を持つ国にとって、政治改革は、経済改革より、はるかに難しいのである。

 さらに言えば、一人独裁の伝統が脈々と息づいている以上、江沢民氏らが、いくら「集団指導体制」を叫んだところで、その継続は難しく、これからは、次の「皇帝」が一人に決まるまで、権力闘争の混乱が深まっていく可能性もある。

 戦前の満州と中国・華北に長いこと住み、関東軍にも近かったという、ある老人が言っていた。「中国の歴史は、王朝の変遷として見なければいけない。それは、共産党が政権をとった後でも同じだ。後世の人から見れば、20世紀後半の王朝は、短命だったということになるかもしれない」。





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