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大門小百合の東京日記(8)

母は強し

2003年8月17日

 人間からだが弱っているときに限って、気も弱くなりがちだ。  昨年の今ごろの私もそうだった。子宮外妊娠で救急車で病院に運ばれ、大量に輸血してもらい命拾いした後の数ヶ月、貧血に悩まされ、思うように歩けず、自宅から最寄の駅まで歩くとぐったりしてしまうという日々が続いた。

 入院中、病室のベッドにいると毎晩のように聞こえてくる救急車のサイレンの音。ああ、今日もまた誰かが生と死の境をさ迷っているなどと考えながら天井を見つめていると、柄にもなく命のはかなさを感じたりして、気も沈みがちになる。

 そんな時、夫がせめてEメールでもできるようにとコンピューターを病室に持ち込んでくれた。

ある日、一通のメールが届いた。元総理大臣の橋本龍太郎氏からだった。過去に何度かお目にかかったことがあるだけだったが、2月に同じように救急車で病院に運ばれ心臓の弁の手術をしていた橋本氏に、私の方が勝手に病室という空間を共有したような気になってしまい近況報告のメールを書いてしまったのだ。

 メールの返事は予想以上に長かった。自分も同じように救急車で運ばれたこと、私の輸血の量に驚いている様子、そしてお嬢さんの一人が流産をされた時、体力的にも精神的にも落ち込んだ彼女をどうすれば元の明るい彼女に戻すことができるか苦しんだことなどが細かく書かれていた。総理大臣といえども父親である。難しい顔をして、我々記者の質問をかわしていた総理のイメージとは違う、落ち込んでいるであろう私を気遣ってくれた思いやりに満ちたメッセージだった。

 「患者学の先輩として、あせらずゆっくり直すように・・・今私が心臓にメスを入れて118日目、もう剣道も出来ますし、お酒も呑めます。手術の傷も痛みませんし、少しずつ薄くなってきました。途中で焦った時が今になればロスタイムです」そして最後に「退屈になったら遠慮なくメールしてください。時間がある限りチャンと返事しますから、入院中のメール、結構嬉しいものでした」と締めくくられていた。

 そしてその言葉通り、本当に忙しい中、毎日のようにメールで励ましていただいた。厚生族のドンといわれるだけあって医療の知識にも精通している。メールからは医療について、命について実に真剣な橋本氏の考えが伝わってきて、元総理を病気友達と呼ぶのはおこがましいかもしれないが、そんな病床への頑張れメールに私がどれだけ励まされたかは言うまでもない。

 ところが、あれから一年、私はまた、病院のお世話になるはめになってしまった。ある日、おなかに激痛がはしり、出血。病院に駆け込んだ私に医者は、非情にもまた子宮外妊娠かもしれないし、流産かもしれないと告げた。過去一年を恐る恐る過ごしてきた私にとって、最悪の通告だった。

自分の身体に問題があるのか。働く女性は流産が多いというが、女性の身体は仕事にはむかないということなのか。夜遅くまでの勤務がいけなかったのか。思考がどんどん悪い方に傾いていく。どうしても子供が欲しいと思っていたわけではなかったはずなのに、情けなくて悔しくて悲しかった。それに、もう一度子宮外妊娠だったら、今度こそ笑えない。

 先生は丁寧にホルモンの値等、そして妊娠反応をこまめに調べて、慎重に対応をしてくださった。「今の時点ではどちらか判断がつかない。でも、痛みがあったらすぐ病院にくるんだよ・・・」

去年の経験が頭の中によみがえる。あの時、腹痛を起こしてから、あっという間に動けなくなってしまった。その間ほんの数分。まずいことに今回夫は長期出張中。一人で居るときに腹痛を起こしたらどうなるのだろう。もう少し様子をみようなどともたもたしているうちに動けなくなり、出血多量で死んでしまう可能性だって高い。

流産かもしれないという悲しみとともに、初めて「怖い」という思いに駆られた。一年前は、あっという間にあちらの世界にいってしまったら、悔いもそんなに残らないかと思ったほどだった。それなのに、今は命にこんなに執着している。

その後の数週間は、気が休まらず落ち込む日々だった。ところが、ある夜電話をかけてきた私の母は、「私は、あなた達を生んだとき、そんなことなかったのに。まあ、せいぜい家でゆっくりしていたら」と、まるで、自分の娘が風邪でもひいているかのように、淡々としていて思いやりがない。彼女は江戸っ子でさばさばしている性格だが、それにしても実の娘が落ち込んでいるこの時に、もう少し優しい言葉は選べないのだろうか。憤慨した私は、思わず「ねえ、少しは思いやりの気持ちはないの?私、かなり落ち込んでいるんだけれど」と自己申告で訴えた。

ごめんなさいね。そんなにあなたが悩んでいるなんて・・・などという言葉が返ってくるかと思いきや、「自分だけが一番不幸だと思わない方がいいわよ。世の中には、あなた以上に苦しんでいる人がたくさんいるんだから。少しは元気出しなさい」とピシャリ。

しかし、この言葉は、メソメソしていた私にとって強烈に効いた。母の言葉にはっとさせられ、自分を反省してしまったのである。身体が弱っているとき、自分ひとりが不幸の中心のように思い、周りが優しくしてくれることに甘えてしまう。その心の甘えを見抜く母は凄いし、きっぱりそれを娘に伝える母はやはり強いと、変に納得してしまった。

そして、その後すぐ、もう一人の母にも勇気づけられることになる。

3月に脳の病気で突然倒れて以来、ずっと意識不明だった夫の母を自分も沈うつな気分のままお見舞いに行った時のことだ。

病室では、看護士二人がかりで義母の痰を取る作業をしていた。苦しそうにしている義母。もちろん自分で意思を伝えることも、酸素を自分で吸う力も足りず、酸素が足りないという警告の機械がひっきりなしにピーピー鳴っていた。

 それでも私が帰るまでには息もおちついたので、私は、耳元で「では、帰りますので、お義母さまもがんばってください」と言った。すると、彼女の口がかすかに動き、小さいがはっきりと、「ありがとう」と言う声が聞こえたのである。倒れてから初めて聞く義母の声だった。

 びっくりしたと同時に、嬉しかった。今まで、こちらから話し掛けてもほとんど反応のなかった義母が、私に頑張れというメッセージとともに伝えた「ありがとう」だったように思えた。お見舞いに行ったつもりが逆に励まされてしまったのだ。

 その後、しばらくして流産だったということがわかり、自分の命に別状もなく体調も元通りになった。

 一方義母の方はあの後ずっと容態がよくなかった。まるで、私に「ありがとう」を告げてくれた後、遠い意識の向こうに行ってしまったかのように、こちらが話しかけても反応しなくなっていた。それでも私はあの時、全身の力を振り絞って発してくれた義母の声を忘れることはない。

 そんなことを考えながらこの文章を書きおえるはずだった。まさに筆を置こうとしていたその時、思いがけず義父から電話が入った。興奮した口調の電話だった。あの後ずっと言葉を発することもなかった義母の意識がしっかりしてきてこちらの言うことを理解できているみたいだ。話も少しならできる。奇跡のようだと。

この世に神様がいるのかどうかはわからないが、私は感謝したい気持ちで一杯になっていた。人はこんな風に様々な場面で思いがけない人から勇気づけられ、元気をもらって生きているのだろうか。

二人の母の言葉をあらためて身にしみて感じながら、私は「母は強し」という言葉を思い出していた。



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