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大門小百合のハーバード日記(17)

剣道外交に学ぶ

2001年3月15日

 「ハーバードで一番有名な日本人を紹介してあげる」

といわれ、出会った人がいる。

 姫野純ニさんという大分県出身の52歳の方で、東京海上からハーバードに派遣されてきている。とはいえ、企業からの派遣とはちょっと違う。大学から学生達に剣道を教えてくださいと頼まれにやってきた。剣道7段の腕前のイメージどおり、背が高くて、眼がねの奥の目が優しく、また厳しくもある。

 会社に相談したところ、若い人たちむけの留学制度はあるが、姫野さんぐらいの年の人むけの制度はないという。人事部と相談し、結局、「国際政治・経済と日本人のアイデンテーテー研究」と剣道指導と言う事で、3年前にやってきたと言う。

 「剣道は人間関係そのものにあてはまるんですよ」と姫野さんは言う。「最初、剣道をマーシャルアート(格闘技)と訳していたら、そうじゃないとこちらの人に注意されました。確かに剣道は相手を倒すためのものじゃない。自分を鍛え、そしてそれを手伝ってくれる相手に対し、敬意を表す武道です」

 私は、今まで剣道とは強くなるためにあると思っていた。確かに自分を鍛えるという意味ではそうかもしれないが、どうもそれ以上に奥が深そうだ。

 ハーバードの剣道部は、数年前からあったのだが、誰も教える人がいなく、生徒同士で細々と練習をしていたのだという。日本から姫野さんが来て、たて直しに入ったというわけだ。

 「学生の努力ってすごいですよ。最初はよくこんな格好で剣道やるなと思っていた学生もいたけど、今ではすごく上達しました」

▼練習は日本語

 2月のある夜に練習場にお邪魔してみた。

 防具をつけたハーバードの学生が、次々とハーバードの体育館の一部にある練習場に入ってくる。入る前にきちんと靴を脱ぎ、必ず一礼をしてから入る。練習場から出ていくときも、一礼をして出ていく。これは、自分を鍛えてくれる道場に敬意を表すということらしい。日本人の私が見学者とはいえ、礼もせずにずかずかと練習場に入るのが、さすがにためらわれた。彼らの雰囲気が練習場の空気をあきらかにピリッとさせている。

 キャプテン格の金髪のジェシーの掛け声がはじまり、全員横に一列に並ぶ。シーンとした練習場に、「イチ、ニー、サン、シ」というジェシーの掛け声がとどろきわたり、準備体操が始まる。他の生徒たちが、「ゴー、ロク、シチ、ハチ」と続ける。

 「シンコキュー。モクソウ!」

 ちょっと英語っぽくて、耳を凝らさないと聞き取りづらいが、掛け声は全部日本語で、なんだかとても不思議な空間だった。一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる。

 準備体操に続けて、素振り30本。姫野さんが生徒の間を縫って歩きながら、丁寧に形を直していく。

 額から汗をだらだら流しながら、真剣に素振りを続ける学生の姿を目で追っていると、こちらまで疲れてくる。本当にきつそうだ。

 ハーバードに来てから、日本通のアメリカ人に何人か会ったが、私よりも日本のよき文化や伝統を理解している彼らと接すると、私はいつも自分が恥ずかしくなる。なんだか自分自身もきちんと背筋を伸ばして、彼らに接しないといけないような気になり、練習を見ていた私はまさにそんな気持ちになっていた。

 生物学専攻の一年生の女の子イザベルをつかまえて、なぜ剣道に興味をもったか聞いてみると、特に日本通だったというわけではないが、日本のアニメが好きで、アニメを見ていて興味をもったという。

 「練習は厳しいのになんだか毎週来てしまう。これから、帰って論文を2つ書き上げなきゃいけないのに・・・」

 東アジア研究と言語学専攻のタラという女の子は、忍耐を剣道から学んだという。彼女を最初に驚かせたのは、先生と生徒との関係、そして先輩、後輩の関係だ。

 「先生から学ぶことは本当に多いし、うまく機能していると思う。先輩、後輩の関係にしてもアメリカにはそういう感覚がないし、剣道以外の場ではしっくりいかないけど、なぜかチームの中ではそのほうがうまくいくみたい」と彼女はいう。

 韓国系のアメリカ人のヒュンサップは、剣道は相手に敬意を表すということの大切さや自分の精神を落ち着かせることを教えてくれたと言う。

 最初はぜんぜん興味のなかった日本について、剣道を通じ興味をもつようになった。今では多くの学生が日本語の授業をとっているという。最近日本の世界における地位の低下を感じていた私にとっては、とてもありがたい話だ。

▼日本の学生がやってきた

 姫野さんは、慶応の剣道部出身で元総理大臣の橋本龍太郎氏の後輩だ。その縁もあってか1999年にはハーバードに橋本氏を招待し、生徒たちに剣道を指導してもらった事もあるし、慶応大学の剣道部との合同練習も企画し、3年前から夏と冬に行われている。

 そして、今年も私がハーバード剣道部の練習を見学した翌週に慶応の学生が12人、ハーバードに合同練習のためやってきた。

 「夏に彼らが日本に来た時と比べて、ずいぶんうまくなっていたので驚いた」と話してくれたのは慶応大学1年生の真後広子さんだ。

 剣道の技術では慶応の学生の方が上だ。ハーバードのほとんどの学生は大学に入ってから剣道を始めたが、慶応の学生は小さいときからやっている人が多いからだ。

 「強くなるためだけだったら、日本で色々な人と対決した方がいいけど、弱い人とやることによって、自分も鍛えられる」というのは4年生の青柳龍さん。姫野さんの言っていた「まさに相手がそこにいるのを認める」ということだ。

 自分を鍛えてくれる弱い相手に感謝する。日本の先輩後輩関係もそう考えると納得がいく。ただし、先輩は威張るのではなく、自分より経験の浅いものに教える義務があるというきわめて合理的な制度のもとになりたっている。人との付き合い方、距離のとり方、そして相手を尊重するということの大切さをあらためて考えさせてくれる。

 慶応の学生達は、今回の約1週間のハーバードの滞在の間に授業にも参加させてもらい、ハーバード剣道部の学生と共に寮に泊まり、食事をし、夜は飲み会などで語りあったという。

 「日本の授業では、後ろに座っている学生は寝てるのか起きてるのかわからないじゃないですか。こっちの人はメモもたくさんとっているし、目も違う。そんな勉強に対する姿勢を考えさせられ、もっと早くこちらに来ていれば、自分の学生生活ももっと有意義にすごせたかもしれない」と4年生の平野大輔さんはいう。

 確かにハーバードの学生はボランテイアや勉強などをうまくやりくりし、何でも一生懸命だ。ただ、日本の学生と比べ自己主張が強いし、チームの中で責任の分担を決めるとその人間がやって当然ということで、相互チェックがきかないと姫野さんは言う。剣道の腕前はやはり日本の学生の方があるし、全員の知恵を結集して何かを作りあげるというのは、日本の学生のほうが得意のようだ。

 そんなふうに日米の学生が接することで、お互いが発見したことは多かったのではないだろうか。学生たちの感想を聞いていると、姫野さんの仕掛けた剣道外交、双方の学生にとって十分成果があったのではないかと思う。

▼自分を捨てる

 剣道で一番大切なのは「相手を正しい姿勢で冷静に見ること」だそうだ。そして、相手を打つときは自分の精神を完璧な状態に高め、その精神の強さで相手にプレッシャーをかけていくという。

 「人間っていうのは精神に迷いが出たときに隙ができるんですよ。それを相手の中にみたときは千載一遇のチャンスです」

 昔なら、竹刀ではなく本物の刀を使っていたのだから、隙をみせたら切り殺される。だから、自分を捨てて打たなければならないのだそうだ。

 考えてみると、現代日本の人間にとってそんな風に気をはりつめ、命をはる経験ってあるだろうか。

 物がないわけでもないし、大学に入り、会社に就職して、適当に健康で、特に不満はないが、何かが足りないような気もする。

 こんなことを考えながら、「最近、日本はもうダメだみたいな論調がありますけど、どうなんでしょうか・・・」と姫野さんに尋ねてみる。

 すると、「みんな文句を言うほど、何かをそんなに一生懸命やっているんですか?」という問いが逆に返ってきた。

 「普通、何かをやろうとする時にはエネルギーが必要で、たいていの人は何かを捨てないとできない」と姫野さんはいう。つまり、スーパーマンでない限り取捨選択をしていかないといけないが、現代人は捨てることなしにすべてを満足させようとしているというのだ。しかし、本当は何を達成したいのかよく見えないし、目標を失っているのではないだろうか。

 あれもこれもやりたい。これもほしいと思っていなかっただろうか・・・と自分に問い掛けてみる。命がけで何かをやることもないし、失敗を恐れるから中途半端にしか努力しない。そこに何かをつかみとる満足感というものが生まれないのは、当たり前なのかもしれない。

 厳しい剣道の練習における緊張感。剣道の世界の中だけのことではあるのかもしれないが、そこに学生達が相手を認めあい、また努力の後の満足感というものを学んでいるのだとしたら素晴らしいことだと思う。

 剣道には「守破離」という言葉あるのだそうだ。守というのは「師の教えを守り基礎を作る」こと。破というのは「人間、稽古をしているうちに個性が出てくる。その個人の特性を育てる」ことで、離というのは「そういう過程をへた上で師から離れ、今度は自分で表現し、発展させていく」ことだそうだ。

 姫野さんは今年の夏には日本に帰る。師がいなくなっても、彼が種をまいた剣道外交が、「守破離」のようにこれから何年もかけて学生達の間でさらに発展していくことを期待したい。



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