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サウジアラビアにて (7)

女性記者パワー

2005年4月20日

 我々のお世話になっている王立研究所の所長がある女性ジャーナリストを通じてイスラム教学者を紹介してくれるといったので、「彼女はどんな人?背が高い?」と聞くと、「僕もしらないんだ。顔をみたことがない。だから、会ってどんな人が見てきてほしい」という。

 私が怪訝そうな顔をすると、この国で相手が女性の場合、顔をしらないというのは普通のことなんだという。

 「僕には4年前から知っている女性の友人がいるが、彼女には今までに一度も会ったことがない。電話ではよく話すが、彼女がどんな顔をしているかもしらないし、本当に存在している人なのかどうかもあやしいかもね」と冗談半分に話してくれた。

 男女が顔を合わせるのをよしとしないこの国で、たとえ仕事でも顔をつきあわせないとのこと。驚きである。

 そしてその不思議さがジャーナリズムの世界では顕著だった。絶対数ではまだ少ないが、この国には女性ジャーナリストも結構いる。男性に取材するときは、電話、ファックス、メールなどを通じてインタビューする人もけっこういるという。

 ビジネスをしている女性の場合は、女性客だけを相手にしたり、仕事上必要であれば彼女自身の代理人をたて、相手の男性に会いにいかせることもできる。しかし、記者となるとインタビューを他の人に代わってもらうこともできないし、ニュースも現場に行かずにすませるのにはなかなかハンディがある。

 とはいえ、女性記者にも色々な人がいて、私の友人の記者はサウジアラビア育ちだがイラク人で、彼女は会合やイベントの取材にも制限をもうけずに出かけていくという。仮にそれが男性ばかりの会であってもだ。一方、別の女性記者は、女性問題を専門に書いているので、男性なんかに会う必要はないと断言していた。必要があれば、電話かファックスで連絡をとるんだそうだ。

 彼女によると、大手新聞は女性記者が増えてきてはいるが、まだ意思決定できる場所、つまり編集の中心に座っている女性がいないという。編集長はもちろん男性だ。また、女性記者の多くは、会社に行って原稿を書くより自宅から原稿を送り、編集デスクと電話でやり取りする場合が多いとのことである。

 そうはいっても、サウジアラビアの最大手のアルリヤド紙には女性記者のために女性セクションがあり、20人のフルタイム女性記者と8人のライターが所属している。それを最初に聞いたときは新聞社内でもやはり男女同席は許されていないのかとちょっとがっかりしたが、それでも彼女たちの仕事にはあまり支障がないという。

 彼女たちは、女性問題や生活欄等に記事を書くために雇われたわけではなく、政治や経済の記事も書いている。紙面的には女性用の紙面男性用の紙面とわかれているわけではなく、新聞の中の色々なページに彼女たちの記事が載る。

 日本の大手紙でもまだまだ女性の進出している分野は少ない。最近でこそ政治部や経済部に女性が配置されだしたが、まだ絶対数は少ない。ほとんどが学芸部や生活部といったところだ。

▼小さな記者?

 サウジアラビアの社会でも、だんだん女性の存在が高まっているのはよいことだと思っていたら、ある女性記者の家のパーティに招かれた。

 その夜、広い豪華な家から出てきて我々を出迎えてくれたのは、意外と年配の女性だった。彼女の名前はヒダヤ・ダルウィッシュさんといって、中東で初めてインターネット新聞を立ち上げた女性記者だという。毎日記事を更新して忙しいとのこと。初の女性ということで、色々なところからも取材されたという。

 ダルウィッシュさんは、リヤド紙の元記者で、今までにさまざまなアラブのリーダー達を取材したという。

 夜も更けてくるとともに彼女の友人たちも現れた。集まったサウジ人女性は4人。一人はビジネスをやっている人で、あとの3人は、みんなアルリヤド紙の元記者だ。いずれも年配の女性たちで、今は第一線を離れ、大学で教えていたり、先ほどのインターネット新聞のようにあらたな分野でみんな活躍中だ。

 その中に、我々のいる研究所の事務総長の奥様であるサガフさんもいた。とても温和なゆったりした話し方をする婦人だ。サガフさんにどうして記者になったかという質問をしたら、「私が最初に記事を書いたのは何歳の時だったと思う10歳の時だったのよ。それ以来、私はずっと記事を書きつづけることにしたのよ」という返事が返ってきた。

 「それどういう意味ですか?そんなに小さくて記者になれるんですか」と聞くと、彼女の少女時代の話をしてくれた。

 ほとんどの女性は学校に行っていなかったころの話である。メッカにあるアル・ナドワ紙に女性は学問を身に付ける必要はないという論調の寄稿記事が載っており、子供ながらに彼女は反論した文章を書いたという。「イスラム教では、我々も書いたり読んだりすべきだと言っているのよ。マホメッドは我々は勉強して、考えを発展させなければならないといっている」

 その文章は本当は学校の作文の時間のための宿題として書いたものだったが、彼女は新聞社に送りたいと母親に相談してみる。

 「お前はまだ子供なんだから、そんなことはやめなさい」と母親にたしなめられたのだが、気持ちは変わらず、自分の家の運転手に頼み込み、郵便局まで連れて行ってもらい、郵便局員に「どこに送りたいの?」と怪訝そうな顔をされながらも、手伝ってもらって住所を書き、無事新聞社に送ることができたというのである。

 その郵便局員は、「これでちゃんと送っておくから、明日には新聞社について、君の記事がきっと載るよ」といってくれたそうである。ところがその言葉を信じて、毎日新聞をみて待っていたのに、記事が載る気配が全くない。その2週間後、両親が彼女の署名入りの記事見つけ驚く。しかし、彼女の方もびっくりしたという。彼女が書いた原文にはかなりの手が加えられていたからである。

 「こんなの自分の書いたやつじゃないって、すごく悲しくて、私泣いたわ。考えたらあのころはいつも泣いてのね。自分の記事が載っていないって泣いて、載ったら載ったで私の記事じゃないって泣いて・・・」 と笑いながら話してくれた。

 女性は学問を身に付けるべきだと子供ながらに訴えた記事。新聞社としてもこの少女の心意気を無にしたくなかったのかもしれない。そうかといって、そのままでは出せず、かなり手を加えた上で、出稿したに違いない。そして、そんな思いをもった少女が、やがては大学まで進み、ジャーナリストになった。

▼国内初、女性チームの誕生

 よく聞いてみるとサガフさんは、アルリヤド紙で初の女性編集主幹になった人だという。おまけに彼女が中心になって、この国で最初に新聞社の中に女性セクションを作リ、その夜のパーティにいた3人の年配女性たちはみんな、そのときの設立メンバーだったという。

 「彼女たちはみんな私の生徒だったのよ」とサガフさんは言う。彼女はもともとアラビア語を大学で教えていた。つまり国語の先生だったわけだ。先生をやりながらもアルリヤド紙に書いていた。そして彼女が編集主幹に抜擢された1985年、彼女の生徒の中で優秀な女性6人を選んで、彼女率いる7人の女性記者チームをこの国で初めて立ち上げたのである。それまでは、女性記者は自宅から原稿を送ってはいたが、新聞社の本社にデスクを持ってそこから発信するようなことはなかったという。つまり、女性は記者といっても一種のアウトサイダー的な存在で、編集方針などの意思決定には参加していなかった。しかし、彼女が編集幹部になったことで、女性の声もそのようなところに反映されるようになったのである。

 その後、他の新聞社も後に続き、続々と女性セクションを立ち上げた。まさにこの国始まって以来の最初の女性記者チームが、その後の女性ジャーナリスト育成に大きく貢献したことは間違いない。日本だったらプロジェクトXにでもなりそうな話だ。

 それにしても、この国の女性はたくましい。法的、そして社会の慣習からもかなりのハンディがあるのに、そんな壁にもめげず、着実に社会に進出してきた。たった30−40年前の女性たちは、学校にも行かず、字も読めず、10代の早い段階で親の決めた結婚相手と結婚をして子供を生んで育てるという生活をしていたのにである。

 しかし、目の前の彼女達はくったくもなく笑っていたし、「男社会を変えてやる」というように肩に力が入っているわけでもない。夫と子供に恵まれ、家庭生活もエンジョイしている彼女達は本当に自然体で格好良かった。

 この国は若いんです。だから、変わるのも速いんですとこの国の人たちは言う。サウジアラビアは1932に建国された。首都のリヤドにいたっては1970年代の石油ブームになって大規模に開発されはじめたので、町全体は新しい建物で埋め尽くされ、上からみると碁盤の目のように区画整理されて整然としている。そんな新しい町並みが今なお外側に開発が進められ、今まで砂漠だったところもどんどん町の一部になっている。5年後にここをまた訪れたなら、きっと町の形もだいぶかわっているだろう。

 そんな町並みのように、この社会もかなりのスピードで変わっていくに違いない。そしてこの国の女性たちも、その中でこれからもっと活躍していってほしいと思う。



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