アメリカのハーバード大学に2000年9月から2001年6月まで留学していたジャパンタイムズ(The Japan Times)記者の大門小百合(Sayuri Daimon)が、見聞きしたことをエッセイにしました。帰国後、東京日記、そしてサウジアラビア滞在の話を追加しました。日記といえるほどの頻度ではありませんが、アメリカ、日本、そしてアラブを考えるうえで参考にしていただけたら幸いです!
Who is Sayuri Daimon?
インタースクールによるインタビュー記事
前編
後編
隔月発行の「The Japan Times ニュースダイジェスト」に日本語コラム「ニュースルーム」を連載中。
夫と共著で「ハーバードで語られる世界戦略」という本を光文社新書から出版しました。
* サウジアラビアにて
女性記者パワー(2005年4月20日)
我々のお世話になっている王立研究所の所長がある女性ジャーナリストを通じてイスラム教学者を紹介してくれるといったので、「彼女はどんな人?背が高い?」と聞くと、「僕もしらないんだ。顔をみたことがない。だから、会ってどんな人が見てきてほしい」という。私が怪訝そうな顔をすると、この国で相手が女性の場合、顔をしらないというのは普通のことなんだという。サウジアラビアのマスコミ(2005年4月18日)
よく聞いてみると何を紙面に載せ、何を載せないかはこの社会の文化、習慣に反することがないよう自分たちで決めているという。たとえば、マドンナの写真をフルページで大々的に扱うことはしないし、ほかの女性の写真にも気をつかうようで、紙面をみるとサウジアラビアの女性の写真はほとんどない。選挙の当選者に会う(2005年4月17日)
今回の選挙で当選した議員は大学教授、教師、企業経営者など宗教色の強い保守派の人達とみられていて、私達が会った議員も元大学教授だった。ビジネスの世界に進出する女性たち(2005年4月14日)
リヤドにきてすぐに知り合った女性ホダ・アルジュレイシーさんは、リヤドのビジネス社界でとても活発に活躍している。彼女の父親がこちらの商工会議所の会長とあって、彼女自身はちょっとした有名人だ。女だけのパーティ(2005年4日10日)
家にはいると居間の手前でディーマが迎えてくれた。今日は妹さんの誕生日だそうだ。見ると居間には、ディスコのようなチカチカの照明にステレオの音楽がガンガンと鳴り響き、椅子などが回りに並べられた広いスペースがダンスフロア風にしたててあった。なるほど若者のパーティだ。男女別社会(2005年4月4日)
研究所の所長に挨拶に行くと、アラビア服の男性が小さなガラスのカップに入った紅茶を持ってきてくれた。中東らしくたっぷりと砂糖の入った甘いやつである。アバヤデビュー(2005年3月31日)
3月のある日、夫と生後9ヶ月の娘とともについにサウジアラビアにやってきた。 夫がこちらの王立研究所の研究員として招待されたからだ。幸い、私もジャーナリストということで夫のお世話になる王立研究所の研究員として迎えてもらえることになった。
* 東京日記
中国 オールド&ニュー(後編)(2003年10月31日)
知り合いに北京で今はやっているという音楽バーに連れて行ってもらった。そのお店のオーナーは、音大卒業でアーチストだ。自らアコーディオンを手に客の間を歩きながら熱の入った演奏で観客を魅了する。中国 オールド&ニュー(前編)(2003年10月21日)
遅い夏休みを確保してやっと成田を飛び立ったのは、10月5日。今回の旅は夫との北京旅行。10月の北京は少し肌寒い感じがしたが、町は人と自転車とそして自動車であふれていて活気があった。母は強し(2003年8月17日)
人間からだが弱っているときに限って、気も弱くなりがちだ。あれから一年、私はまた、病院のお世話になるはめになってしまった。最近の流行(2003年3月2日)
アートマネージメントの大学の先生が面白いことを教えてくれた。彼女は、講義を受ける学生に必ず質問をしていることがあるという。「東京で一番好きな場所はどこか?」緊急入院、そして生と死と・・・(2002年7月10日)
このたび入院してよかったこと、それは死というものが身近になったことかもしれない。今まで大きな病気もせずに生きてきて、自分の死はまだまだ先だと過信していたところがある。死ぬということも、また、霊感とは程遠いと思っている私は、死んだ後の世界ということすら考えてもみなかった。フェアレディZと片山さん(2002年1月7日)
昨年インタビューに出かけたのだが、久しぶりに元気をもらって帰ってきた。お相手は日産インターナショナルの顧問でいらっしゃる片山豊さん。なんと92歳だ。テロについて思うこと(2001年9月29日)
今回のアメリカでのテロ事件をふりかえると心に浮かぶことが三つ。一つは記者として何がおこっているのか把握しようとしていた自分。二つ目は純粋にアメリカの友人たちのこと。そして、三つ目は確実に長期戦争に向かっているとしか思えないアメリカへの心配だ。山辺町からの発信(2001年8月31日)
この町には素敵な人たちがいた。Taiken堂という会のメンバーだ。この会は山辺町周辺の町からきた有志と山辺町教育委員会の共同主催で、一年を通じて、様々な分野の人を呼び、講演をしてもらう。変わったのは名ばかり?(2001年8月9日)
英字新聞のデスクに復帰する私が何よりも一番心配していたのは、省庁や金融機関の名前が様変わりしていたことだ。日本語でもピンとこない名前がたくさんある上、英語の名前も頭に入れておかなければならない。東京でカルチャーショック(2001年7月12日)
10ヶ月ぶりに東京に帰ってきた。アメリカに行っている間は倉庫に全家財道具を預けていたので、ホームレスの私たちは、うだるような暑さの中、不動産屋さんを巡り、一日中物件をみて歩くと夕方にはふらふらになっている。
* ハーバード日記
卒業式 (2001年6月14日)
ハーバードの卒業式はなかなか見物である。4年制のハーバードカレッジだけでなく、ビジネススクールやロースクールなど全てのスクールの卒業生がハーバードの中庭に会す一大イベントだ。改革者?小泉総理 (2001年4月29日)
久しぶりにこちらの新聞で明るい日本の記事が続いている。最初は、地元紙ボストン・グローブの1面に写真入りで、でかでかと載ったレッドソックスの野茂のノーヒット、ノーランの記事。野球ではその後イチローや新庄の活躍も報道され、気分がよいなと思っていたら、今度は、日本で新しい総理大臣が誕生したニュースだ。リーダーの条件 (2001年4月22日)
ハーバードには、過去にホワイトハウスで実際に大統領に仕えていたという教授達がたくさんいる。大統領の手足として働いていた彼らの授業をとるうちに、いかにアメリカのリーダー達が演説というものを重要視していたかがわかってきたし、それらの演説のパワーというものにすっかり魅せられてしまった。
剣道外交に学ぶ (2001年3月15日)
防具をつけたハーバードの学生が、次々とハーバードの体育館の一部にある練習場に入ってくる。入る前にきちんと靴を脱ぎ、必ず一礼をしてから入る。練習場から出ていくときも、一礼をして出ていく。これは、自分を鍛えてくれる道場に敬意を表すということらしい。ワシントンのエリートたち (2001年1月23日)
ワシントンは競争社会だ。ここで生きていくにはストレスもたまるし、日本人がワシントンの偉い人とパワーランチにこぎつけるのも大変らしい。女性と政治 (2001年1月5日)
テレビをボーっとみていたら女性上院議員は100人中13人で、史上最高の数になったとのこと。ちなみに下院は男性は375人で女性は59人だそうだ。私はアメリカのことだから、もっと女性議員の数は多いのかと今まで思っていた。サルサレッスン (2000年12月23日)
私は2年前にキューバに行ったが、町中サルサの音楽でいっぱいだった。あー私も踊りたいと思い、その時以来学ぶ機会をねらっていた。拍手される授業 (2000年12月19日)
最後の授業を終えて、「よい休暇を」と教授がいうと私の参加したクラスでは決まってパチパチパチと生徒達が拍手をしていた。私がすごくよい授業だったなと個人的に思っていたクラスでは、なんと生徒が全員立ち上がってしばらく拍手が続き、まるでオーケストラや劇場で素晴らしいパフォーマンスが終わった後のようだった。ブッシュの勝利宣言 (2000年12月14日)
新大統領はテレビの前で一つのアメリカを強調し、党利党略説を払拭することになった。双方いかに泥仕合のダメージを最小限にするかということに心をくだいた結果だろう。ジャーナリズムの苦悩 (2000年12月10日)
学生新聞と違って現実の世界は厳しい。テレビのみでなく、アメリカの新聞でも昨今の競争激化の中で、いかにして読者に読んでもらう記事を提供するかということにずいぶん苦労をしているように見える。大統領選挙当日、そして・・・ (2000年11月12日)
本当はどちらかの陣営がその夜盛大に祝杯をあげるはずだった・・・ しかし、結果は「パーティはおあづけ」である。現在報道されている通り、5日たった今も次期大統領が決まっていないばかりか、本当に泥試合の様相をていしてきたようだ。白熱する大統領選挙 (2000年10月31日)
日本では絶対にできないことをしてみようと思っていたら、先日ちょうどよい機会がめぐってきた。ハーバード・ロー・スクール(法律大学院)の民主党支持の学生達とともに選挙活動の手伝いに隣のニューハンプシャー州のナシュアという町に行くのである・・・ニーマンフェローシップ開始 (2000年9月5日)
何よりもうれしいのは、ここではどんなに偉い人も地位の高い人も話かけると気さくに答えてくれる。日本では権威のある人はなかなか近づきがたかった。英語という言語に丁寧語や尊敬語のような違いがないからだろうか。いや、もっと文化的なものかもしれない。ニコニコしながら「ハイ!」と挨拶する文化。後ろの人のために必ずドアを空けて持っていてくれる気遣い・・・興味津々の第一歩 (2000年8月26日)
私のアメリカ人の友人達は一昔前まで「Raw fish? No way!(生魚?絶対いや!)」と言って、日本食を敬遠していたのだが、私がポーツマスの日本食料理屋で見た今のアメリカ人は、みんな箸を使うのが上手だった。いつの間に、日本食がアメリカ人にとって抵抗のないものになったのだろう・・・
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