★ 六本木の恐怖

▼1986年8月 東京都港区六本木 深夜2時30分

 この日の東京は記録的な猛暑に包まれていた。暑さは深夜になってもおさまらない。
人々はこの異様な熱気から逃れたくて、足早にあちらこちらの店内に吸い込まれてゆ
く。土曜の深夜だというのに通りを行き交う人がとても少ない。なにか変な夜だった。

 僕の勤めているBARは猛暑から逃げ出してきたお客様で賑わっていた。みんな外
へ出るのがよほど嫌なのか、たいしてお代わりもせずに空のグラスをもてあそびなが
ら会話に興じている。そのせいで店内は満席近い状態なのにとても回転が悪い。オー
ダーが来ないので、僕は入口のドアのところに立って、「満席お断り係」をすること
にした。

 このBARはビルの半地下にある。入口のドアはガラス戸で、外壁を2つのスポッ
トライトが強烈に照らしている。お客様が10段ほどの階段を下りて来ると、真っ黒
な影が先に入口に到着する。陰が見えたらこちらからサッとドアを開けて、「申し訳
ありません。ただいま満席でございます」とお断りするのだが、そのたびに誰もが落
胆の色を露わにし、不満げにまた階段を上がってゆく。

「ねえ鳴海く〜ん、ちょっと聞いてよお」

いつもカウンターの隅の席を陣取る常連のホステスが、甘ったるい声で僕を呼んだ。
そうそう、このホステスの愚痴を聞くのが嫌なので僕はホールへ出ていたんだったっけ。

「はい、何でしょうか」

「なによ、いやによそよそしいじゃない。あっそ、あたしと話すのが嫌なのね」

「いえいえそんなことありませんよ」

あ〜あ捕まった。僕は仕方なくカウンターへ戻った。そのホステスは勤め先であまり
人気がないらしく、いつも店の不満ばかり言っている。だから眉間にくっきり怒り皺
が刻まれちゃうんだよ、などと別のことを考えながらホステスの話を聞き、適当に相
づちを打っていたその時である。

パン、パン、と乾いた音が外で鳴った。なんだろう。少し気になったのだが、目の前
のホステスがキーキーと甲高声で喋っていて、よく聞き取れなかった。

「それでね、もう頭きちゃって、あたし彼女に言ってやったのよ。いいか(パン)げ
ん(パン)にしてよって」

今度ははっきりと聞こえた。うちのビルの外壁に誰かが石を投げつけているのかもし
れない。僕はホステスをほったらかして入口に駆けつけ、ガラス戸越しに外を見た。
あいにく投石をしているような不審人物は見当たらない。店の前に酔ってふらついて
いる男の足が見えるだけである。

いったい何の音だったんだ。店内から通りの奥の暗闇を凝視したのだが、人影はなか
った。また音がするかもしれないのでそのまま様子をうかがった。それにしてもこの
酔っぱらいは何だ。フラフラしながら移動せずに立っている。

僕は足を少しかがめてその男の顔を見上げた。男はうつむいて両目を閉じている。完
全に泥酔していて、倒れないように勝手に足が動いているように見える。伸びきった
パンチパーマにグレーのスーツをはだけて着ているその巨漢男は、ふらつきながら右
手に握りしめている何かをしきりにズボンのポケットにしまおうとしていた。

なんとそれは拳銃だった。僕は「ひっ」と驚き、もう一度目を大きく見開いて凝視し
た。やっぱり拳銃だ、本物だあ。

なんだなんだなんだなんだ、あれはこいつが発砲した音だったんだ何を撃った、あっ
黒人が倒れてる気が付かなかったひえええええ殺人だああああああ。

僕は怯えた。その男と僕の距離は直線にして2メートル弱。驚異を覚えないはずがな
い。男が立ったまま眠っているのが幸いだった。男はなおも無意識に拳銃をポケット
にしまおうとしていたが、ズボンのポケットから膝まで大きく破れていて、ポケット
はなくなってしまっていた。

男の目がかすかに開いた。僕は慌てて入口ドア用の木の板を取り付けてドアの鍵を閉
めた。撃たれたらやばい。僕はドアから遠のいた。急いで従業員を呼びつけ警察に電
話するよう捲し立てた。

「外でやくざが拳銃持って立ってる早く警察に電話電話すぐ外にいるんだよすぐ来い
って電話電話早く早く」 

その時、女性客が立ち上がり「じゃ、行って来るね」と連れに言い残して店を出てい
こうとした。僕は慌ててその客を制し、小声で言った。

「すみませんがしばらく外にはお出になれません」

「なんで〜? いいじゃん別に。ちょっと行って来るだけだよ」

「実は今、すぐ近くに拳銃を持った男が立ってるんですよ。危ないんです。だから外
へ出ないで下さい」

「え〜? 見たい見たい。外へ行く外へ行く」

「すぐそこにいるんです。拳銃を持っているんです。人が撃たれてるんです」

「うそ〜〜、よけい見たい見たい見たい」

女性客は僕をすり抜け、入口ドアに手をかけた。やばい! 僕は反射的にその女性を
後ろから羽交い締めにして、耳元で囁いた。

「お客様、申し訳ありません。いま外にはお出になれません。すみませんがおとなし
くしてください」

「やだやだやだ、見たい見たい見たい、離して離して、きゃははははは」

全く言うことを聞かない。仕方がないので羽交い締めにしたまま、お連れ様のところ
まで運んでいき事情を説明して、この女性が動かないようにしてもらった。

入口ドアのガラスをふさいでしまったので外の様子がわからない。そのドアが唯一の
外との接点なのだ。まだあの男はいるのだろうか。警察は来たのだろうか。店の階段
を下りてきたらどうしよう。店内に向かって発砲されたらどうしよう。

10分ほど気を揉んでいたのだが何事も起こらない。思い切ってドアに取り付けた板
を外して、恐る恐る外の様子を伺った。

男はいなかった。撃たれた黒人もいない。人も歩いていない。誰もいない。僕はドア
の鍵を回して外へ出た。突然、目の前を人影が過ぎって僕は体が固まった。そこに現
れたのは警察官だった。

安心してへなへなへなと座り込みたい気分だったが、我慢して立っていた。

「捕まえたんですか?」 「捕まえました」 

よかった〜〜。僕はホッと胸を撫で下ろした。でもまだドキドキしている。

その後、店の前の通りは捜査線が張られ、警官や鑑識の人々でごった返した。大勢で
男が発砲した弾丸を探している。少ししてテレビ局や新聞社が現れて捜査線の外で取
材を始めた。僕も警官から事情聴取を受けたのだが、決定的瞬間を見ていないので大
して参考にはならなかったようだ。

六本木もニューヨークみたいに物騒になってきたなあ。またこんなことが起こるのか
なあ。起こったら嫌だなあと思いつつ、とても希有な体験をしたという気持もあって
複雑な思いだった。しかしその時は、2ヶ月後にまた同じような事件が起こるとは予
想もしていなかった。
                            (2001年4月13日)


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