中国で増える内陸から沿海地域への出稼ぎ

(96.12.23)

 中国では農閑期を中心に、農村から沿海地域の大都市へ出稼ぎに行く人が増えている。高度成長にわく沿海地域と内陸部との貧富格差の拡大によって引き起こされたもので、潮の満ち引きのように大量の人々移動する姿をとらえて「潮流工」と呼ばれている。農村から大都市に行ったまま帰らない人も多い。
 たとえば、四川省が最近発表したところによると、省外の大都市への出稼ぎ者は今年500万人以上となり、過去5年間、毎年70万人ずつ増えた。中国で最大の人口(約1億人)を抱える四川省は、沿海地域から1000キロ以上離れた山岳地帯と盆地からなる地域である。出稼ぎ者からの送金は今年、100億元(1100億円)を突破する見通しで、四川省の経済を支える大黒柱の一つとなっている。

 改革開放以前の中国には、厳しい住民登録(戸籍)制度があり、当局の許可なしに農民が都市に住むことを禁止されていた。無許可で住もうとしても、都市当局が発行した食糧切符(糧票)がないと食品が買えなかった。そのため農村が余剰人口を抱えていても、出稼ぎに行くことはなかった。この政策は、都市にスラム街ができるのを防ぎ、当時から発展が遅れていた内陸部の農村を振興させることなどを目的としていた。それが大きく変わったのが、トウ小平の改革開放政策である。彼は毛沢東が作った社会のタガを緩め、戸籍や糧票の管理を有名無実化していった。(この過程で汚職が増えた)
 また毛沢東時代の中国政府は、重工業などの基幹産業を沿海地域から内陸部に移す政策を続けていた。外国から再び侵略されたとき工業地帯が内陸にあった方が守りやすいという防衛上の見地と、経済発展が遅れている内陸部を振興させ、国土の均一な発展を目指したことが理由だった。文化大革命の際、都市住民を農村へ強制移住させた「下放」と呼ばれる政策も「農民階級に学べ」というイデオロギー的な意味のほかに、内陸部の振興策だったとみることもできる。広大で地域間の特性に大きな差がある中国は、こうした人為的な政策を とらなければ、沿海地域に人が集中しすぎてしまう特性がある。
 だが、工業地帯を全国に分散させ、中央集権の計画経済に基づいてそれらを一元管理するという社会主義経済の手法は、なかなか効率を上げることができなかった。そのためトウ小平氏は、毛沢東亡き後に従来のやり方を捨て、市場経済原理を大幅に導入した。
 それによって困難に陥ったのが、内陸部の産業である。計画経済のもとでこそ、個別工場の採算を考えずに運営できたが、改革開放によって各工場が独立採算を求められるようになると、主要市場である沿海地域から遠く、輸送コストが高くつく内陸部の工場は開店休業状態となり、半失業状態になった地方の労働者たちは、仕事を求めて沿海地域に流出するようになった。
 こうして80年代初めから、余剰人口を抱えていた農村と、工場が倒産状態になった地方都市の両方から、出稼ぎ労働者の大きな流れが始まった。行き先は、広東省と上海周