バンコク・ミャンマー大使館占拠事件の奇怪
1999年10月23日 田中 宇もしあなたが、アメリカのビザをとろうと思い、東京・虎ノ門にあるアメリカ大使館を訪れたちょうどその時に、武装したゲリラ集団が襲撃してきて、そのまま人質にとられ、24時間後に解放されたとしたら、どんな気持ちだろうか。
あなたが、日ごろからアメリカの世界戦略に反感を持っていて、しかも犯人たちが反米スローガンを掲げる人々だったとしても、自分を人質にしたゲリラを憎み、一刻も早く大使館から逃げ出したいと思うのではないだろうか。
ところが、10月1日から2日にかけて、タイの首都バンコクにあるミャンマー(ビルマ)大使館に立てこもったゲリラたちによって、人質にされた人々の反応は違った。襲撃から25時間後、タイ政府との交渉がまとまり、犯人たちが大使館を出る時、解放されることになった人質の一部は、ゲリラとの別れを惜しみ、涙を流したり、ゲリラと抱き合ったりした。
▼警報機は鳴らなかった
襲撃は、10月1日の正午前に起きた。5人のミャンマー人青年が、バンコクの中心街にあるミャンマー大使館にやってきた。5人のうち2人はギターケースを持っており、その中に機関銃「AK47」が隠されていた。大使館の入り口には金属探知器があったのだが、なぜか警報は鳴らなかった。5人は大使館に入ると機関銃を取り出してかまえ、館内にいた全員を一カ所に集めた。大使を含むミャンマー人とタイ人の職員、それからビザをとりにきていたアメリカ人や日本人など、合計38人が人質となった。
「ビルマ学生壮士会」(Vigorous Burmese Student Warriors)と名乗る青年たちは、庭に掲揚されていたミャンマーの国旗を引き下ろし、代わりに孔雀を描いたビルマ反政府運動の旗を掲げた。そしてミャンマー政府に対して、政治犯の釈放や、1990年の選挙で反政府派が過半数の議席をとった選挙以来、全く開かれていないミャンマー国会を召集することなどを要求した。
それまで大使館は、バンコクに2000人ほどいる亡命ミャンマー人学生が、母国政府を非難するデモの際の目的地となることは多かったものの、武力によって襲撃されたことはなかった。ミャンマーの反政府運動が、非暴力の方針を貫いてきたことが一因だった。だが、周辺の状況からすると、襲撃はいつ起きてもおかしくなかった。
ミャンマーからタイへの政治難民が増えたのは、1988年8月8日、ミャンマーで大規模な反政府行動が起き、政府の弾圧によって3000人以上が殺されてからのことだ。それ以来、12万人のミャンマー人がタイへ逃げ出した。国境沿いのタイ領内には難民キャンプが作られ、一時はそこを拠点に、機関銃などの武器を調達し、ミャンマー側に攻め込むゲリラ軍も組織された。
いくつかの報道を総合すると、襲撃犯は、国境沿いの難民キャンプからきた人と、襲撃の数日前にミャンマーから「バンコクに難民申請しにいく」とタイ側の係官に言って国境を越えてきた人の、混合グループだった。彼らが持っていたAK47や手榴弾は、国境付近にいるゲリラ部隊から調達してきたと考えられている。
タイとミャンマーは、歴史的なライバルだ。そうした背景もあって、タイは自国に入ってきたミャンマー人亡命希望者をあまり抑圧せず、いったん難民として認定した人には、国内を移動する自由も与えていた。難民キャンプでは武器が手に入りやすく、しかもバンコクに出てくることも簡単である以上、ミャンマー大使館を襲撃しようとする青年たちが現れることは、時間の問題だったともいえる。
しかもこの大使館は、タイ当局による警備が甘かった。入り口に警察官が一人いるが、居眠りしていることが多かったという(AsiaWeekの記事による)。ミャンマー政府は、タイ政府に対して、大使館の警備を強化するよう求めていたが、改善されなかった。
▼「テロリストじゃない、民主活動家だ」
タイでは、民主化要求を弾圧し続ける隣国ミャンマーの軍事政権に対して批判的なマスコミや世論がある。タイ政府が、大使館の襲撃犯に対して厳しい措置を執らなかったのは、それが一因だった。犯人たちは、自分たちを難民キャンプのあるビルマ国境近くの地域に、ヘリコプターで連れていくよう求め、政府はこれに応じた。ゲリラとの交渉を指揮したサナン内務大臣は、事件解決後に「われわれは、彼らをテロリストだとは考えていない。民主化のために闘っている学生活動家としてみている」と語った。大臣はまた「タイは仏教国なので、救いを求めてやってくる人々を見放せない」と、亡命ミャンマー人を擁護する発言もしている。
こうして、占拠事件は発生から1日で解決したが、タイ政府の寛容な対応は「テロ行為を容認している」として、ミャンマーや欧米諸国から批判された。なかでもミャンマー政府は、国営のメディアを通じて、襲撃事件は陰謀である可能性が大きい、などと批判した。犯人が大使館を出る際、人質たちから祝福されている姿をみれば、人質の中に犯人の仲間がいたのではないか、と考えることもでき、それがミャンマー政府の不満になっていると思われる。
しかも当初ゲリラたちは、ミャンマー政府に対するいくつもの要求を掲げ、それが満たされない場合、人質を一時間に一人ずつ射殺する、などという声明を発表していた。だが、間もなく彼らの要求は、自分たちをヘリコプターで国境沿いの地域に連れて行け、ということだけになり、タイ政府との交渉がまとまった。
大使館への立てこもり事件といえば、ペルーのリマ日本大使館の事件が思い出される。あのときは、襲撃犯が出した要求項目をめぐり、ペルー政府との間で、何週間にもわたって、厳しい交渉が続いた。最後は、要求に応じられないフジモリ大統領が、危険を冒して強行突入に踏み切った。
その例でも分かるように、大使館占拠事件といえば一般に、ゲリラが政府に要求を認めさせるためにやるものであり、ぎりぎりの交渉が何日も続くのが普通だ。少なくとも今回のように、軍のヘリコプターに乗せてもらうためだけにやるものではない。
そう考えると、バンコクでの大使館占拠事件には、他の同様の事件とは別の種類の目的があったのではないか、と推測できる。その目的として考えられることの一つは「9999」である。
▼8888と9999
ミャンマーで大規模な反政府運動が起きた1988年8月8日は「8888」だったが、数字に関する縁起を大切にするミャンマー人が、反政府運動の次の節目として考えたのが「9999」、つまり今年9月9日だった。だが9月9日を前にミャンマー政府は、民主活動家と思われる500人以上を逮捕するなど、取り締まりを徹底したため、当日はミャンマー国内では、ほとんど何も起きなかった。だが、ミャンマーでは経済が年々悪化する方向にある上、最近では市場でのコメの値段が上がったり、通貨チャットの対ドル相場が下落するなど、一般の人々の生活状態が悪くなっている。そんな中で、苛立ちを募らせた青年たちが、警戒の薄い隣国タイでの大使館襲撃を企てた、という可能性がある。
(ミャンマー人、特に現在の軍事政権が数字で縁起をかつぐことの代表例が、お札である。ミャンマーで発行されてきた紙幣の中には、15チャット、45チャット、75チャット、90チャットなどが含まれている)
88年に民主化が弾圧されてから10年が過ぎ、タイに亡命してきたミャンマー人による反政府組織がいくつも作られ、乱立状態の感がある。だが、祖国の民主化という目的は、ほとんど達成できず、袋小路に入った状態にある。
襲撃犯である「ビルマ学生壮士会」は、今年8月末に作られた新しい組織なのだが、彼らは、大使館襲撃という目立ったことをして、運動全体のじり貧状態をショック療法で立ち直らせることを目指したのではないか。だから、世の中の注目を集めただけで、襲撃犯は目標を達成し、再び国境のジャングルに戻ってしまった・・・。タイには、そんな風に分析する人もいる。
一方、ミャンマーの反政府運動はこれまで、全体の方針として非暴力を貫いてきたため、アウンサン・スーチー女史が率いる「国民民主連盟」(NLD)をはじめ、主要な反政府組織は、今回の武装襲撃を批判している。とはいえ「テロリズムは反対だが、暴力に訴えたい青年たちの気持ちは理解できる」というのが、ミャンマー人の「大人」たちの組織の本音のようだ。同様の立場は、海外の支援NGO組織や、タイ政府の反応からもうかがえる。
▼コソボと同じ「非暴力運動」の限界
この状況は私からみると、コソボにおける「非暴力派」と「武闘派」の対立を思い起こさせる。コソボではもともと「コソボのガンジー」と呼ばれた、イブラヒム・ルゴバという反政府リーダーが、セルビアからの独立を掲げ、非暴力運動を続けていた。だが、非暴力に徹したがゆえに、セルビア軍からの弾圧は、逆に昨年後半から強まってしまった。業を煮やした若者たちは、非暴力運動に見切りをつけ、武装組織「コソボ解放軍」(KLA)へと流れ込んだ。最後はNATOの空爆開始によって「国際社会」自らが、武力による解決方法を選択してしまい、コソボの非暴力運動は、ほぼ消えた。結局、KLAを中心としたアルバニア系「武闘派」は、アメリカと話をつけ、事実上コソボの「独立」を勝ち取ることに成功している。
そもそも、第三世界の非暴力運動の発祥地であるインドでも、ガンジー以来の流れを組む国民会議派は、先の議会選挙で、より過激な宗教系政党である人民党の連立与党に破れている。つまり、最近の世界情勢から見ると、一般の人々が武器を手に入れやすくなっていることなどを背景に、もう穏和な非暴力運動は、人々を引きつけなくなっていると考えることができる。
ミャンマーの青年たちが、そんな世界情勢の影響を受けたとは言い切れないものの、今回の事件を機に、第2第3のテロリズムが、ミャンマー反政府運動の非主流派として広がり、運動全体が暴力の方向に引っ張られていく可能性がある。
もう一つ考えるべきことは、事件からタイ政府が得たものについてだ。事件発生後、タイ政府による情報収集や対策は、機敏でなかった。たとえば大使館の周辺で、携帯電話や無線が使えないようにする妨害電波発生の措置を、即座にとらなかったため、襲撃犯が外部と連絡をとり、ことを有利に運べる状態が続いた。
にもかかわらず、困窮するミャンマー人の心情を理解し、事件を穏便に解決したということで、タイ政府に対する評価が高まった。同時期に日本で起きた東海村の核燃料事故で、日本政府の対応が強く非難されたのとは対照的だ。
しかもタイ政府は事件後、タイを批判するミャンマー政府に対して、「もともとタイにミャンマー人難民が押し掛けてくる原因を作ったのは、ミャンマーの方だ。他に行くところがない亡命者を受け入れざるを得なかったわれわれが、ミャンマーから批判されるのはおかしい」と反駁した。
これまでタイ政府は、はっきりミャンマー政府を批判することが少なかった。(東南アジアでは、他国の内政問題に口出ししないという外交上の不文律がある)今回の事件を機に、タイがミャンマーへのスタンスを、微妙に変化させていく可能性もある。タイ当局が、事前に襲撃を察知、あるいは関与していたという兆候はないものの、タイ政府が、この事件をうまく使ったのは確かだ。
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◆追い詰められてきたミャンマー軍事政権
1998年夏はミャンマー(ビルマ)にとって、あわただしい時期だった。スーチー女史の通行を阻止したミャンマー政府はアセアン総会で非難され、恥をかいた。民主化運動大弾圧10周年にヤンゴンでビラをまいた外国人活動家たちへの対応は、東南アジア各国を巻き込んだ「踏み絵」となった。スーチー女史とその背後にいるアメリカやイギリスは、外資系企業に戻ってきてほしい軍事政権のイメージアップ作戦を破綻させている。(98年9月29日)
参考になった英文記事など
Free Burma CoalitionA Siege - of Sorts : Behind the drama at Myanmar's embassy
AsiaWeek - OCTOBER 15, 1999In Exile and Powerless Still, Myanmar's dissidents keep up the fight
AsiaWeek - OCTOBER 8, 1999For Burma's dissidents, there may be no going back
Christian Science Monitor - October 8, 1999Bangkok siege 'stank of conspiracy'
BBC News Online - October 6, 1999Opposition in Burma attacks embassy siege
South China Morning Post - October 4, 1999
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