アメリカ・たばこ訴訟の裏側

1999年10月6日   田中 宇

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 「ウィンストン」とか「セーラム」というたばこを、ご存じの方も多いだろう。これはアメリカ第2のたばこメーカーである「R.J.レイノルズ・タバコ社」 (R.J. Reynolds)の製品なのだが、この商品名は、同社の本社がある、アメリカ・ノースカロライナ州の町「ウィンストン・セーラム」にちなんだものだ。

 人口17万人のウィンストン・セーラム市は、RJレイノルズが1875年に、この町でたばこ事業を始めて以来、同社とともに歩んできた。付近のノースカロライナ州一帯は、たばこ栽培が盛んな地域で、同社以外にも、いくつかのたばこメーカーが、拠点を構えている。今から100年ほど前まで、アメリカのたばこ販売の99%をおさえていた「アメリカンたばこ」の本社も、車で1時間もかからない場所にある。

 だが今や、たばこ城下町の栄光は、過去のものになりつつある。たばこは、喫煙者本人ばかりでなく、周囲の人々の健康にも悪いものという意識が、アメリカじゅうで定着し、アメリカでの消費量は、この30年間で30%以上減った。それに伴って、RJレイノルズの従業員数も半減し、今や市内で最大の雇用者を抱える組織は、同社ではなく、大学病院となった。(英エコノミスト誌9月4日号の記事「A bad habit broken」による)

たばこ訴訟の重い負担が次々に

 さらに、この状況に追い撃ちをかけたのが、昨年11月に和解した「たばこ訴訟」だった。この裁判は、アメリカの46の州政府が、アメリカ国内の大手たばこメーカー5社を相手に、州政府が医療保険への補助金として支出したお金のうち、喫煙によってかかる病気の治療に使った分を、たばこ業界に支払うよう求めた裁判だった。

 和解金は、総額2460億ドル(約25兆円)で、アメリカの裁判の和解金としては、史上最高額である。被告となったRJレイノルズ、最大手メーカーのフィリップ・モリスなど大手5社は、この額を今後25年間以上かけて、分割払いで支払うことになっている。

 5社は、たばこの値上げによって支出をまかなう予定で、今後、少なくとも一箱50セント以上の値上げが必要だと予測されている。また5社は、看板などによるたばこの広告を止めさせられたことに加え、たばこの害についての公共教育に、資金を出さねばならないことになった。

 たばこ会社にとって、試練の時期が続いていると思えるのだが、そうではないと見る人々もいた。この和解によって、これ以上たばこ業界が裁判にさらされることがなくなり、和解金の負担を値上げでカバーできれば、業界は蘇生できる、という予測だった。

 だが、ことはそれほど甘くなかった。和解から2ヵ月ほど経った今年1月、クリントン大統領は、一般教書演説(年始の政策発表)の中で、たばこ業界を訴えることを決めたと発表し、たばこ業界に、再び暗雲が垂れ込め出した。そして去る9月23日、アメリカ連邦政府の司法省は、たばこ大手5社を相手に、裁判を起こしたのである。

 今回の提訴でアメリカ政府は「たばこ業界が1950年代以来、たばこの害を正しく国民や政府に伝えなかったため、肺ガンなど、たばこによる病気が多くなり、その分、政府系の医療保険などに対する政府の補助金などが増えてしまった」と主張し、大手5社に、その分の損害賠償を求めている。

 司法省は、被害額の詳細は今後詰めるとして、訴状に明記していないが、リノ司法長官によると、年間200億ドルにはなるという。40年分を支払わされたとして、総額8000億ドル。日本円で80兆円以上となり、日本の国家予算(98年度約78兆円)を超えてしまう。これだけ巨額の収入があれば、アメリカの財政は、いっそうの黒字化に成功することになる。

政府や国民はだまされていない?

 とはいえ、政府がこんな裁判を起こしたことに対しては、アメリカのマスコミの中にも、批判の声がけっこうある。というのは、アメリカ政府は30年以上前から、健康に対するたばこの害を明らかにしていく政策をとっており、たばこのパッケージにも、健康被害について記述させている。

 そのため、1974年の段階で、アメリカの7歳の子供の9割以上が、たばこが身体に良くないことを知っていた、という調査が出ている。こんなに皆が知っていることなのに、それでもたばこ会社が政府と国民をだましたといえるのか、という批判である。

 また、そもそも、政府がある業界の良くない行為を改めさせるときには、その産業を規制する法律を作って、行政政策として改善を命じるのが、本来の政府の機能である。ところがアメリカ政府は、裁判という異例の方法をとらねばならなかった。

 というのは、法律を作るには、議会で審議し、可決してもらわねばならないが、議会では、たばこ会社から政治献金をもらっている議員たちが反対したため、法律化できなかった、という経緯があるからだった。

 これと前後して司法省は、たばこ業界がたばこの害をわざと小さく見せたことを、刑事事件として立件しようとしたが、これも裁判を維持し切れないということで、立ち消えとなった。

 アメリカには大手5社だけでなく、中小のたばこメーカーも50社ほどあるが、これらは訴訟の対象となっていない。中小にとっては、和解金などを支払わなくても良い上、大手の値上げに便乗できるため、利益が多く出せる環境が、期せずして与えられる状態となっている。

現代の「アヘン戦争」?

 アメリカで、議会や政府に対し、圧力をかけることができるロビー活動団体として最も強いのが、たばこメーカーと拳銃メーカーである。クリントン大統領は、在任期間中に、この2つの圧力団体を弱体化させ、アメリカの政界を「近代化」しようとしたが、なかなかうまくいっていない。

 大統領の任期は、あと1年ほどなので、たばこ訴訟を起こすなら、今しかなかったといえる。裁判が長引き、来年秋の選挙後にまでずれ込み、しかもクリントンの民主党ではなく、対立政党である共和党の候補が大統領になったら、新政権はこの裁判に積極的ではなくなる可能性が大きい。

 クリントン政権が政界浄化のため、たばこ業界をたたくのは、ある程度評価できることといえる。だがその政府が、たばこの害を宣伝しつつ、一方で、たばこにかけた税金を重要な財源としているのは、矛盾している。

 アメリカ政府が、本当にたばこを敵視するなら、生産を禁止してしまえばいいのだが、税収があるのでそうできない、という事情がある。政府のたばこ業界に対する裁判は、こうした矛盾の延長にある。

 そのため、たばこ業界の弁護士たちは、今回の提訴について「まったく政治的な意図によって起こされたものだ」などと反発し、今回は決して和解などしない、と表明している。(昨年の裁判でも、和解する直前まで、和解などしないと言っていたのだが)

 実は、アメリカ政府は、たばこ業界に対して「活かさず・殺さず」の政策をとっている。その象徴が、アメリカ政府が外交力を使って、アメリカのたばこを、アジアなど外国の市場に売れるよう、政治的な圧力をかけたことだ。

 今や日本でも、アメリカのたばこを簡単に買えるようになったが、ここに至るまでに、アメリカ政府は日米貿易交渉を通じて、日本に圧力をかけ続けた経緯は、よくご存じの方が多いだろう。

 たばこは害悪なので、自国民には吸わせたくないが、たばこ業界をつぶすことは、政治的、あるいは税制上、良くないので、日本人やその他のアジアなどの人々に、代わりに吸ってもらえば良い、というシナリオと思えてしまう。

 今から100年ほど前、イギリスなど列強諸国は、植民地化した中国で、人々にアヘンを吸わせ、利益を上げていたが、それから100年たっても、世界の事情は大して変わっていないのだ、とも感じられる。


関連する英語のページ

たばこ大手5社の、訴訟をめぐる主張などを載せたページ
RJレイノルズ、Tabbaco Issuesのページ
ウィンストン・セーラム市のサイト

日本語のページ

「まわりのアメリカ」ウィンストン・セーラムなどの旅行記



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