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マカオの500年をふりかえる

1999年12月20日  田中 宇

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 今日、中国の統治下へと返還されたマカオの歴史には、日本が重要な存在として登場する。16世紀のマカオ最盛期、富の源泉は日本と中国との貿易を仲介することだったからである。中国の絹を日本に運び、日本の銀を中国に運ぶのが中心だった。

 15世紀、ポルトガルの船がアフリカ大陸の西海岸を南下していった時代は、ポルトガル人らキリスト教徒勢力が、8世紀以来イベリア半島を支配していたイスラム教徒(ムーア人)を追い出す時期でもあった。ポルトガル人とスペイン人は、イスラム勢力を追いかけて壊滅させることを公言し、船を進めていった。

 イスラム商人は当時、東アフリカからインド洋、そして東南アジア一帯に広がって、貿易をしていた。ポルトガル人は、イスラム勢力に対抗するため、アフリカ最南端の喜望峰をまわり、インド洋へと船を進めた。インドのゴアを占領し(1510)、イスラム勢力の貿易港だったマラッカを攻撃して奪い(1511)、1513年ごろには、南シナ海を北上して中国南部のマカオにやってきた(中国政府から居住を認められたのは1557年)。彼らは1543年に日本の種子島にもやってきて、鉄砲を伝えた。

 自分たちを支配したイスラム教に対抗し、キリスト教を世界に広めることが、ポルトガル人が外洋に飛び出した最初の理由だったのだが、同時に、モルッカ諸島(現インドネシア)の香辛料や、中国の絹織物など、アジアの物産を本国に持ち帰ることで、巨額の富を得られることを知り、布教と貿易の2本柱が、遠征の目的となった。

▼ヨーロッパよりアジアの方が豊かだった

 ところが、当時の世界は、ヨーロッパよりアジアの方が、経済的にかなり豊かだった。ヨーロッパ人がアジアから買いたがった商品は多かったが、アジア人がヨーロッパから買いたいと思う品物はほとんどなかった。ポルトガル人は、ヨーロッパとアジアの間を往復するより、アジアの各国間、とりわけ日本の銀と中国の絹とを仲介した方が儲けが大きいことを悟った。

 ヨーロッパでは、銀は金よりも低い価値しかなかったが、中国では、銀は金と近い水準の価格で売れた。日本の銀だけでなく、スペインが植民地にして銀鉱山を開発した中南米からも、太平洋を渡って銀が中国にもたらされた。このころ、世界で採掘された銀の半分が、中国に輸出されたといわれる。

 当時のポルトガル人は、まず貿易取引を始め、その後しばらくしてキリスト教会(イエズス会)がマカオから宣教師を派遣し、布教を開始する戦略を取っていた。日本にも宣教師が派遣され、改宗した大名たちがローマに少年使節団を派遣した1582年には、日本のキリスト教徒は15万人になっていた。

 その後、ポルトガルの布教成功をみたスペイン宣教師団も日本での布教を開始したが、植民地化を恐れた江戸幕府は、キリシタン禁制と鎖国に傾き、1639年にポルトガル人は日本への渡航を禁止された。それが、マカオの最盛期の終わりだった。

▼イギリスの謀略とポルトガルの無策

 その後200年、産業革命を経て強力になったヨーロッパ諸国が、中国を植民地化していき、1841年には、アヘン戦争で中国を負かしたイギリスが、マカオの対岸の香港を割譲させ、植民地にした。

 マカオは、ポルトガル人が中国政府の許可を得て、賃貸料を払って借り上げていたが、香港はイギリスが侵略的な戦争によって、中国からもぎ取ったものだった。その点が、1997年に香港が中国に返還される前、英中間で敵対的な交渉が続いたのと対照的に、マカオの返還に際してはポルトガルと中国間で摩擦が少なかったことの遠因となっている。

 ポルトガルとイギリスの植民地支配のやり方を見ると、他にも違う点がいくつもある。その一つは、イギリスが長期戦略を立てて植民地経営を行い、植民地の独立後もイギリスの利益になるように、前もって考えていたにの対し、ポルトガルは行き当たりばったりで、リスボンの政府の金庫を満たすこと以外の目的を、ほとんど持たなかったことだ。

 たとえば香港は、早い時期から自由港として位置づけられ、それが香港の発展を招いたのに比べ、マカオは観光とカジノ以外に、ほとんど特長がない。中国への返還に際してもイギリスは、香港支配の最後の数年間で政治の急速な民主化を進め、香港の人々に民主的自由を謳歌させた。

 そうすることによって、中国が返還後の香港で、ある程度の民主化を維持せざるを得ないようにした。イギリスは、香港の人々に感謝されたかったのに加え、国土の巨大さゆえ、簡単に国内を民主化できない中国政府に対して、欧米が「人権」の面で圧力を加え続けられるようにする、という仕掛けもセットしたのだった。

 イギリスが、植民地を独立させた後を見すえた戦略にたけているのは、アメリカ合衆国を生み出したことからもうかがえるだろう。

▼30年以上前に始まっていたマカオの返還

 これに対してポルトガルは、マカオの運営に関して、かなり前から中国政府の言いなりだった。そもそもの発端は、中国で文化大革命の嵐が吹き荒れていた1966年、マカオの共産党系住民が、自分たちの学校を作ろうとして当局に弾圧され、それに反発する労働者の大規模なデモ行進が展開され、マカオ当局が対応し切れなくなった事件だった。

 労働者を支持する中国政府は、弾圧したマカオ当局に謝罪を求めた。マカオは水も食糧も中国に依存していたため、中国側の要求に応じざるを得ず、屈辱的な謝罪を行った。非難を展開する中国側に対して、ポルトガルの代表は「マカオを放棄しても良い」とまで言ったが、中国政府はマカオを植民地のまま利用する道を選択した。

 それ以来、中国側による、隠然たるマカオ支配が強化された。特に力を持っていたのは、マカオの中国系実業家たちの商工会議所である「中華総商会」の理事長をつとめる何賢(ホー・イン)氏で、「マカオの影の総督」と呼ばれていた。

 返還後のマカオの初代行政長官となったエドモンド・ホー(何厚●〔金へんに華〕)氏は、何賢氏の息子だ。マカオの中国返還とは、裏で権力を握っていた中国政府の代理人の息子が、表の権力者として出てくるという、それだけのことなのである。

 1974年には、ポルトガルで社会主義クーデターが起こり、新政権はすべての植民地を放棄する決定をした。マカオに関しても、中国に返還することを正式に申し出たが、中国政府は、文革の混乱が去っておらず、国内に資本主義地域を取り込むのは時期尚早だとして、すぐに返還を受けることを断り、時間をかけて返還作業を進めることを逆提案した。

 それ以来、中国政府の幹部が、マカオのポルトガル総督府に幹部として「出向」するケースが増えていった。マカオ返還に至るまでの30年間は、中国側の主導で進められたわけで、その背景には、ポルトガル政府がマカオ運営に対して、明確な戦略を持っていなかったことがあった。

▼ヨーロッパの植民地支配は終わったが・・・

 ポルトガルのこのような姿勢は、最近インドネシアから独立を決めた東チモールや、アフリカのアンゴラ、インドのゴアでも、混乱を引き起こした。

 インドのゴアは1961年、返還を求めていたインドの軍隊が突然攻撃してきて、そのままインドに編入された。1974年のクーデター後、ポルトガル政府は東チモールとアンゴラ、モザンビークなどを独立させる方針をとった。だがポルトガルは、第二次大戦後、イギリスやフランスの植民地がどんどん独立しているのを横目で見ながら、自国の植民地の独立準備を、全く進めていなかった。

 そのため、急に独立せよと言われても、植民地側には何の準備もされておらず、アンゴラとモザンビークは独立直後から内戦に陥り、東チモールはインドネシア軍の侵略を受け、併合された。その後25年たって東チモールは独立したが、アンゴラでは今も内戦が続いている。

 ポルトガル政府は、植民地の教育や、道路建設などのインフラ整備も、あまり進めなかった。最も優秀な少年たちの進学先は教会の神学校、という状態だった。東チモールでも、独立の闘志たちの多くは、ポルトガル時代に創立された首都ディリのカトリック系の学校の卒業生たちであった。

 とはいえ、ポルトガルの植民地経営は、イギリスに比べて良いところもあった。人種差別をしなかったという点である。イギリス人の植民地社会では、白人以外との結婚を嫌悪する傾向が強かったが、ポルトガルの植民地では、地元の人々との結婚は問題なく行われ、混血が進んだ。香港には、イギリス人の排他的な社交クラブが存在したが、マカオにはそれもなかった。

 香港が中国に返還されたとき、話題の中心は、政治や経済に関する懸念だったが、マカオの返還に際しては、ポルトガルの文化と中国の文化がミックスしてできた、マカオの文化が失われる懸念や、昨年から多発しているギャングの抗争をどうするかといった社会問題が、マスコミのテーマとなっている。

 ポルトガルはかつて、世界の陸地の5分の1を支配していた。その最後の植民地がマカオである。マカオは、アジアにおけるヨーロッパ諸国の、最初の植民地であると同時に、最後の植民地だった。

 とはいえ、前回の記事で紹介した、インドネシアからの独立を求めているアチェの人々は「インドネシアはアチェを植民地支配している」という主張をしている。中国には、チベットや新疆ウイグルといった地域があり、中国人(漢民族)から見れば「内政問題」なのだろうが、チベット人やウイグル人は「植民地支配を受けている」と主張している。支配と被支配の関係が、すべて解決されたわけではない。

(続く)




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  • Red Flag Over Macau (AsiaWeek)
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  • The portents of Macau (Australian Financial Review)
  • Sun sets on Portugal's empire (Christian Science Monitor)
  • 記事中にマカオの地図がある。
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  • Media hypes up Macau handover (Singapore Strait Times)
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